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主日礼拝説教要旨
「勇気を出しなさい」(5/)​

ヨハネによる福音書16章25~33

 イエスは多くの言葉を重ねて弟子たちにたくさんの愛を与えてきました。優しさを与えてきました。それはイエスが去った後も続く大きな愛であり、優しさです。しかしそのたくさん重ねられた、繰り返された言葉たちはイエスの生前には本当の意味では弟子たち届くことはありませんでした。弟子たちはわかった気になっていたのかも知れませんが、本当の意味では理解できていなかったのです。だから弟子たちはイエスが自らの目の前で逮捕され、連れて行かれ、十字架にかけられ亡くなられてしまったとき一度絶望してしまいます。その歩みを止めてうずくまってしまいます。心に大きな傷を作っていくのです。「イエスがいなければもうだめだ」「自分も殺されてしまうかも知れない」「どこに進めば良いのかもうわからない」。そんな後ろ向きな思いにとらわれて、心は傷だらけで立ち止まってしまったのです。しかしその時です。イエスがこれまで語ってきた、弟子たちに注いできたその愛と優しさが弟子たちの内に芽生えていったのは。弟子たちはイエスの死という出来事を通して大いに傷つきました。到底立ち上がることが出来ないほどに。また歩き出すことが出来ないほどに。しかしそんな弟子たちのその傷にこそイエスが語った言葉がしみていった。はじめて実感を持ってその言葉がその傷を埋めるように、塞ぐように浸透していったのです。傷を負い、立ち上がれなくなりそうになったときにこそ、そのイエスの繰り返された励ましや支えの言葉、愛の言葉は響き渡るのです。その心の傷を埋め、癒やし、傷の代わりに勇気と力を拡げて行くのです。

 イエスは33節でこう言います。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである」。これは立ち上がれなくなってしまった弟子たちが、恐れと不安にとらわれた後のキリスト者たちが、その絶望や不安・恐れから解き放たれて、立ち上がり歩み出すことが出来るように、その時のためにこそ語られた言葉であると言うことを示すのです。そして「勇気を出しなさい」と「安心しなさい」と最後に語る。「あなたは決して一人ではない」。「これまで語ったことを思い出しなさい」と。立ち止まったその時、傷を負ったその時、その場において、その傷からイエスの優しさが、また愛があふれ出すのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「水が川となって」(5/12)​

ヨハネによる福音書7章37~39

 今回の聖書の箇所には象徴的な言葉として38節に次のように語られています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。このイエスの言葉は、イエスに従う人の内に宿る、イエスから与えられた豊かな愛と恵みがその人を介して拡がっていくことを示すものです。その前で語られる「渇いている人」と言う言葉。この「渇き」とは「魂の渇き」を指す言葉です。この「魂の渇き」は、人間の存在そのものが求める、心の奥底から、本心から湧き出る神を求める思いを表しています。そのように本心から神を求める人、救いを求める人をイエスは招いているのです。そしてそれは、奇しくもイエス昇天後の弟子たちの状態に当てはまるものとして描かれます。イエスは助ける者、聖霊を弟子たちに自分の代わりに送ると約束をして地上を離れられました。しかし、実際にイエスが離れてしまうと弟子たちは大きな不安に襲われるのです。自分たちで託された使命を果たせるだろうか。必要な言葉を語れるだろうか。そのための力はあるだろうか。そんな不安にあって、心の奥底から、それこそ存在の中心である魂から神を求めていくのです。そうした求めの思いによって弟子たちの内側に注がれ続けたイエスの、また神の愛と恵みが呼び起こされて、湧き水のように弟子たちの心を満たしていくのです。そして与えられ、備えられたその器にイエスは約束された聖霊を送ってこられるのです。一度は不安にとらわれるかも知れない。恐れに負けそうになるかも知れない。そのような弱さは変わることなく弟子たちの中に存在しています。それは現在を生きるキリスト者も同様です。こんな小さなわが身ではキリストの示された福音を世に広められないのでは。平和を実現することなど出来ないのではと弱気になってしまいます。しかしそれでも励まされて、一歩踏み出すのです。心に注がれた「生きた水」が湧き水のようにあふれ出していくように、最初は小さな声かも知れない。たった一滴の水のような小さな流れかも知れない。しかしそれはイエスが語るように「川となって流れ出るように」なっていくのです。

​(髙塚記)

ペンテコステ礼拝説教要旨
「弁護者たる聖霊」(5/19)​

ヨハネによる福音書14章15~27

 ヨハネによる福音書14章16節でイエスは一つ約束を弟子に対してされます。次の言葉です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。この約束はイエスが地上を離れられた後、具体的には復活し弟子たちと再会されたイエスが昇天された後の事について語られたものです。イエスが離れてからの福音宣教の歩みは多大なる困難を伴うものでした。これまではイエスが導いてくれていた。しかしこれからは自分の言葉で、また行動でイエスが伝えられ、与えてくれた喜びと恵みを拡げて行かなければならない。そのような状況を前にしたとき弟子たちもまた、今日の私たちのように尻込みしてしまったことでしょう。そうなることはイエスからすれば容易に想像できることであったのです。だからこの約束をされた。「弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と。そしてこの約束の通り弟子たちのもとに降されたのが、最初にお話しした「聖霊」であると聖書において語られています。弟子たちをはじめとしたキリスト者たちによる宣教の歩みは多大な困難を伴うものでした。実際にその働きの中で多くの犠牲も出ています。そしてその働きを中心的に担っていた人々はそれまで人を導く経験をしていたような立場にあった人ばかりではなく、当時のいわゆる普通の職業、農業や漁業に携わる人が多くいました。そうした人々が時に自分たちを敵視する人が多くいるような場で、時に裁判にかけられるような場面で、時に社会的地位の頂点にいるような人の前で、イエスが伝えた福音を語っていったのです。26節にこのように語られます。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。イエスが伝えた教え、福音を各地で、様々な場面で語った人々はその全員が特別にすぐれた人というわけではありませんでした。聖書に名前の残る人々もそうですが、その働き人の中には名前すらも残らない多くの宣教者達がいたことでしょう。先の言葉において示されるのは、そのような人々が堂々と与えられた教えと福音、喜びの知らせを語る事ができたのは、そして勇気ある行動によって人々に示すことが出来たのは、この「聖霊」の働きによるものであるということです。そしてイエスは最後に27節「心を騒がせるな。おびえるな」と力強く語ります。「あなたたちを支え、導く存在はすぐそばにある」「あなたがたを一人にはしない」。そんな励ましの言葉が語られているのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「安息日に」(5/26)​

マルコによる福音書2章23~28

 ある国際会議で、そこに出席していたユダヤ教徒たちがイヤホーンのスイッチを入れていないことに気づき、驚いたことがありました。その日は安息日でした。いまだに続く宗教的習慣です。

 安息日にイエスと弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちが麦の穂を摘みました。マタイによる福音書では、「弟子たちは空腹になったので麦の穂を摘んで食べ始めた」と記されています(マタイ12:1)。安息日に労働は禁止されています。違反者は罪人とされます。それを見たファリサイ派の人たちは、イエスが弟子たちに注意すべきではないかと抗議しました。律法では飢えた人たちが穂を摘むことは許されていたのですが、ファリサイ派の人たちは、安息日の規定を用いてイエスを陥れようとします。

 イエスはサムエル記上21章に記されているダビデの故事を持ち出して答えました。戦争で飢えていた家来に、祭司のみが食することを許されていたパンを与えた故事です。ユダヤの建国の父であるダビデが掟を破った出来事を持ち出し、「安息日は人のためにある」(27節)ことを示しました。ファリサイ派が、聖書の言葉を自分に都合よく使うこと、その物差しで人を意地悪く図ってしまうことが明かされます。

安息日、それは解放の日です。その日を守ることは人間の喜ばしい応答なのです。人間の営みが七日ごとに遮断されます。営みを遮断することは、損失や危険をもたらすことも予想されます。しかし聖書は「Stop!」と呼びかけます。人の営みを休止してでも休息をとる。そして主の前に立ちます。それは、自己そして隣人を見つめる時でもあります。さらに損失、危険の中で私たちをほんとに養われるのは神であることを知らされる時でもあります。

 安息日・主の日。その中で神に導かれ、守られていることを知りましょう。束縛から解放されていることを味わいましょう。

​(前島宗甫記)

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