主日礼拝説教要旨
「平和を求めて」(8/4)
コリントの信徒への手紙一12章12~26節
コリントの共同体では、その組織が成長するにつれて、それぞれが持つ能力や役目によって優劣が生じ、ある者は自らの能力ゆえに他者を見下し、ある者は自らの能力ゆえに劣等感にとらわれていくような状況がありました。共同体内で優劣や上下関係が生まれていくことによって、共同体に分裂が起き、キリストの福音を伝える、神の平和をこの地上において実現するというその業が十全に行えない状況にありました。だからこそパウロは13節で「一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分のものであろうと、皆一つの身体となるために、洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」とここでキリスト者となった当初のことを思い起こさせる言葉を語っていくのです。それまでどのような身分であり、社会的な地位であり、背景を持っていたとしても、キリストによって招かれて、そのキリストによって一つとされた人々にはもはや違いはなく、一体とされていることがここで明確にされています。だからこそ、たとえそれぞれの能力が違おうとも、役割が違おうともそれらに決して優劣や上下など存在しないことがここで強く示されているのです。15~16節には身体のそれぞれの部分が全く違う役割を持ちつつも、役割が違うからと言って身体の一部でなくなることはないと繰り返しの語り口で伝えられます。そして17節以降でどこかの一部が身体全体をなしたところで、身体が成り立つことはないと語ります。身体はそれぞれ違う役割を持ちながら、むしろその違いによって一体の身体が成り立っていると語られていくのです。
今世界に目を向けてみると様々なところで分断と争いが拡がっています。それらはある「違い」に由来するものであったり、「自分たちの利益」だけしか見ることが出来なかったり理由は様々です。それでもやはりきれい事とも取られかねませんが、他者との違いを受け入れたり、他者と思い合う、寄り添い合う事を大切にしたりすることによって、豊かな「平和」が実現していくのです。パウロが共同体におけるそれぞれが持つ違いの意味について語っているように、違いが重なり合うことによって実現されていく大きな業にこそ目を向けていきたいと思います。違いによって生み出される「分断」や「争い」ではなく、違いによって実現される「平和を求めて」共に受け入れ合う、認め合うあり方を大切にしていきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「神の畑、神の建物」(8/11)
コリントの信徒への手紙一3章1~9節
今回の箇所で取り上げられている問題は、共同体内にいくつかの分派が出来、また自らの知恵を誇る者たちが現れているというものでありました。パウロが離れて後のコリント教会ではある種の熱狂的な信仰形態が広がっていたようです。またそれは当時ギリシア世界で広がっていたグノーシス思想と結びつき、自らの知恵を誇り、自らを完成された高尚なものとしてふるまうようなものでした。このようなコリントの教会の人々に対してパウロは、コリントの人々が自らの知恵や力を誇り、互いに一致していく思いをないがしろにし、さらには、神からの恵みである種々の業を自らのものであるかのようにふるまう人々に対して警告を行うのです。そして3章3節で「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人」であるといさめます。また、「ある人が、「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすればあなたがたはただの人にすぎない(4節)」と語ります。この世的な価値判断によって派閥を作りどちらが優れていると語る人々に対してそうではないと語っていきます。パウロは、自分やアポロが自らの力によって、皆を導き、信仰に入れたのではなく、ただ神が自らを用いて、その業をなされたと主張していきます。パウロやアポロによってコリントの人々にもたらされた知恵は世の知恵、人の知恵ではなく、神の知恵であると語られているのです。神によって召された人々とは、元が優秀であった人、世俗で地位のあった人、能力の高い人ではありませんでした。力を持たず、世俗においては、虐げられ、貧しさにあえぎ、弱さの中にある人々でした。しかしその人々によって成し遂げられたことは神の与える永遠の命につながる大いなる業でした。そしてそれは、決して人間の知恵や力によって成し遂げられたのではなく、神の導きと恵みによってなされたのであるとパウロは語っていくのです。「成長させてくださったのは神です(6節)」との言葉は、その過程に誰の手が入っていようが、今信仰に入れられて、その道を歩むことが出来ているのは、神によるものであるということを明確に示すものであり、また、この地上において神の宣教の業をなすために人を召して、用い、そして恵みをもたらして下さるということを同時に示しているのです。
8~9節において「植える者と水を注ぐものとは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることが出来ます。私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」と語れております。人の持つ知恵、力というのは、神を前にすれば何ら誇ることの出来ない小さなものであります。しかし、それでも神はその業を地上でなすためにそのような小さな存在である人間のそれぞれの役割を見出し、用い、はぐくんでくださるのです。だからこそ、この与えられた恵みを豊かに用いていくために、「神のために力を合わせて働く」ことを強く勧めていきます。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「創造を想う」(8/18)
詩編104編24~30節
「昼の光に闇の深さがわかるものか」(ニーチェ)。近代文明はまさに光の文明です。“もっと明るい世界”を追求し、夜の闇を征服したと錯覚した時に、強烈などんでん返しを受けることになりました。来年は大阪万博ですが、1970年の大阪万博と時を同じくして、原発美浜一号機が稼働し始めました。そして今、私たちは原発が抱える様々な問題を持て余しています。
聖書は冒頭に、神は光と闇を創造されたと記します。その中で人間は生きてきました。いったい、人間にどこまでのことが許されているのでしょうか。人間は何者なのか?進歩という欲望とどう向き合うのでしょうか。
「地はお造りになったものに満ちている(24)・・・ご自分の息を送って彼らを創造された(30)」。聖書は自然、人間を含めた世界が神の創造物であることを語ります。地球のいのちは50億年。人間の登場は600~700万年前。1日の時間に換算すると23:30に相当するそうです。その人間が神の息がかかった被造物を傷つけてきました。先述の原子力廃棄物のような、自然に返せないものを造ってしまいました。声を上げられない自然が悲鳴を上げています。
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記6:31)。
神が天地を創造されたのは、これを完成させ、その有様を見てよしとされることでした。そして安息して創造の有様を楽しまれたのです。全身全霊を持って創造の業に励み、7日目に安息。その日、いのちを与えられた者たちが神のもとに集い、神と共に休息します。創造の業を想像し、与えられたいのちを祝います。主の安息日。創造主の前で、全ての被造物のいのちを破壊してはあならないことを再確認することが呼びかけられているのです。
(前島宗甫記)
主日礼拝説教要旨
「奇跡を信じる」(8/25)
マルコによる福音書6章1~6節
今回の聖書箇所においてイエスは、故郷において教えられ、力ある業を行います。それを受けはじめ人々は驚きますが、それが自分たちのよく知っているイエスだとわかり、語られる言葉、行われる業への驚きを失い、まったく素直に受け入れることが出来なくなってしまいます。その結果どうなったのか。5節に記されるようにイエスはこの故郷であるナザレの村において、わずかの病人に手を置いて癒されただけで、他には何も奇跡を行うことがおできになりませんでした。奇跡を行わなかったのではなく、行うことが出来なかったのです。そしてイエスは、6節、「人々の不信仰に驚かれ」ました。この記述は大変重要な点です。イエスが奇跡を行うことが出来なかったその理由は「人々の不信仰」のためでありました。イエスのことを「ただの大工で」、「自分たちと一緒に村に住んでいたただの人」だと軽んじて、まったくその言葉に、その力ある業に目を向けることが出来なくなってしまった人々。そのことによってイエスとの霊的なつながりを拒否してしまった人々に対しては、イエスは奇跡を行うことは出来ないのです。福音書において記される癒しの奇跡の物語。この物語の共通点は、病人、障害を持った人が、まっすぐイエスを求めて、救いを求めていることであります。あるいは、病人の周りにいる人々がその人の癒し、治癒を求めてイエスを求めていくことであります。そのイエスを強く求める、すがるような思いに対して、イエスがその人の持つ辛さ、苦しみ、嘆きに強く共感し応じていくことで、相互の思いのつながりが成立し、このつながりによって、癒しが与えられていくのであります。このイエスと人との相互のつながり、求める思いとそれに応える思いというつながりがなければそこに奇跡が起こることはないのです。だからこそ、イエスの言葉や、力ある業に目を向けず、イエスがその村で育った人で、自分たちのよく知るただの人だと軽んじた人々とイエスの間につながりは与えられることはなく、奇跡も行われることはなかったのです。このイエスを求める思いとは、イエスこそが私に癒しと慰めを与えてくださると、自らの救いであると信じる気持ち、信仰であります。このわたしたちの信仰とイエスの共感、応答という、聖書によって語られる、わたしたちに与えられる愛。それが、わたしたちとイエスとの信仰によるつながりであるのです。この信仰によるつながりによって、わたしたちは日々の多くのものを与えられていきます。語る側も、聞く側も、真摯に聖書の言葉と向き合い、そこから語られる愛を、慰めを、支えを、そして恵みを切に求めることによって、つながりが与えられ、そこからイエスの語りかけや助けの業を受けることが出来るのです。
(髙塚記)