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主日礼拝説教要旨
「キリストの生」(10/)​

フィリピの信徒への手紙1章21~26

 今回の聖書の箇所は、フィリピの信徒への手紙1章21節からの言葉です。この手紙はパウロの活動の晩年、ローマで獄中にあるときに記されたといわれています。手紙に記される言葉の端々から自らの身体が弱ってきていることを感じさせています。またパウロは獄中という場にあって裁判を待つ身として自らの終わり、宣教活動としても命という点においてもその終着が見えてきているという自覚も強く持っていたことでしょう。そんな自分の終わりを感じながらも先を見据えて、自分がどのように考えて、進むことを望むべきかについて葛藤しているということを語るのが今回の箇所です。21節においてははっきりと自らにとって「死ぬことは利益」だとパウロは語ります。パウロは自らの命はもはや自分のものではなく、自らを受け入れ、神の前に立たせることができる仲介者であるキリストのものであると考えていました。「生きるとはキリストである」とはそのことに通じます「自分本位」に考えるならば、この地上での歩みに執着せずにキリストと共にあることこそがパウロの望みであることは23節で「キリストとともにいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい」と語っている通りです。しかし「キリストにある生」を歩む、「キリストによって今生かされていてその先の道も与えられている」という恵みを自覚して生きるものとしてパウロはその熱望している「自分本位」な道は容易に選ぶことはできないのです。ここでパウロが悩むのは、キリストの命、そのありようというのが、まったくもって「自己本位的」ではなく、完全に「他者のため」のものであるからです。その命を生きると宣言するパウロは、キリストに従うものとして、地上において共に生き、悩み迷う人達に道を示していかなければならないと考えていました。そしてそれはパウロの傲慢や過信ではなく、これもまたパウロの抱く本心からの願いであるのです。キリストの福音に触れ、命の喜びが拡がることを、信仰が深まり、つながっていくことを、パウロは自らの喜びとしました。「キリストと共にいる」という「個人の喜び、個人の願い」ではなく、他者とのつながりの中で見出される「他者との喜び、神の願い」に目を向けているのです。

 この葛藤はパウロだけの葛藤ではありません。この手紙を受け取っているフィリピの共同体もまた困難の中にあって同じ葛藤を抱えていました。宣教活動を続ける中で、迫害が迫って、日々不安と恐れを抱いている。福音を拡げる活動をあきらめて、自分たちだけで信仰に生きるのがいいのではないか。でも活動を続けて、福音と信仰の輪を拡げることは自分たちの使命でありどうにか続けていきたい。自分本位な願いと神の使命の間にあって葛藤している状況です。それに対してパウロは先の言葉によって、置くべき指針を示していくのです。「他者と生きたキリストに倣い」「他者との喜びこそを重要とする」。判断の基準を「個人」から「他者とのつながり」においていくのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「自分の義ではなく」(10/20)​

フィリピの信徒への手紙3章7~21

 今回与えられましたフィリピの信徒への手紙3章7節以下においてパウロは自らの信仰に気づかされる体験と信仰によって義とされるというパウロの見解が述べられています。パウロはイエスに出会う前、ファリサイ派としての自らの行い、正しさ、清さの面においてまったくもって間違いがなく完成されたものであると確信していました。おのれの義により自らは救われるべき人間であると確信していました。しかしながらキリストとの出会いによってそれまでの価値観が逆転してしまったのです。おのれの義によって神は人間を認めるのではない。人間はどうしようもなく罪から逃れることが出来ない存在であり、しかし弱さはキリストゆえに許されているという事をパウロは知りました。しかもそれは、自分の力で獲得した確信ではなく、神によって導かれ、与えられた確信でありました。そのことを通してパウロはこんな取るに足りない存在をも神は招かれるということに気づかされたのでありました。そしてその罪ある人間を招きとらえてくださるキリスト・イエスのことを知り、信じさせられる素晴らしさというのはこれまで大切にしてきたことすべて足元にも及ばないほどのものであったと感じさせられたのです。

 17節以下においてパウロは「みな一緒に私に倣うものとなりなさい」と呼びかけています。これはパウロが我に倣えと高慢な態度で命令しているわけではありません。これは自身をいまだ途上にあるものとして、この私と共に歩みを進めようという呼びかけであります。先ほど教会はキリストを頭とした一つの体であるといいました。それは神の業、恵みの業をこの世界において行うために神に用いられる体であります。神を求める、キリストを求める信仰の輪を広げていくという神の恵みの業は招かれたものすべてが欠けることなくともに歩むことによって成し遂げられることであります。神は、イエスはどんな人でも必要としてくださいます。自分のことを認めることが出来ないでいる私のような人間にさせ招きを与え、用いてくださいます。教会における交わりの中で、キリストを追い求める姿勢を忘れず用いてくださる神にイエスに感謝しつつともに歩むことが出来れば幸いであると感じます。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「知恵に従う」(10/27)​

箴言8章22~31

 聖書は、旧約聖書・新約聖書、そしてそこに収められているそれぞれの書簡、それは確かに、それぞれ違う時代、違う地域、違う状況の中で記されました。しかし、それらを現代において、受け取り、今こうして、私たちが読むときには、この聖書一冊というのは、バラバラのものとしてとらえるのではなく、そこに一つの希望、救いを見て、そこで語られる言葉から学び、気づきを与えられていくものです。聖書の最初から最後までを通して、そのそれぞれの歴史の中で、場所で、状況の中で働かれる神の業を垣間見ていくのです。そこで神と共に、また人と共に働くのはやはり、ここで語られている「知恵」であります。聖書にしるされる言葉一つひとつには、その時代、その地域、その状況に生きた人々の経験が込められております。そしてそこで培われた、神と共に生きるための生活のすべ、歩むための道しるべとなった「知恵」が示されているのです。これこそが歴史に働く神の軌跡の一つであります。今日の箇所で語られるように、その初めから神と共にあった知恵は、それぞれの時代において、神と共に歩む人々と共にありました。そして、イエスの時代においてもまた、イエスの語る言葉に、イエスの行いに、その知恵は働いているのです。

 2000年以上前のイエスの教え、それ以前の神の民の歩みの蓄積である知恵。それらは様々な時代を経て、さらに積み重ねられ、繋げられ、今この日本に、この場に伝えられています。この積み重ねの先に今日の私たちの信仰もあります。このように積み重ねられた経験と、そこに与えられた、その時代、状況を神と共に歩むための知恵は、現代という時代を生きる私たちに対しても神と共に生きるすべを示してくれます。またそれぞれの時代に与えられたように、聖書を通して、またそれぞれの信仰を通して、共にあって、私たちが神と共に歩むための道を示し、正しき道へと導く道しるべとして知恵は存在します。31節「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ。」歴史を通して、共におられる神の一つの在り方として「知恵」は存在するのです。歴史の中で働かれ、その時々にわたしたちと共におられる、神の存在を信じ、そこから与えられる「知恵」に従って、この備えの時を過ごし、また、日常の中で、神と共にある歩みを進めてまいりたいと思います。

​(髙塚記)

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