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主日礼拝説教要旨
「心の中の偶像」(11/)​

イザヤ書44章6~17

 今回の聖書日課によって選ばれました箇所。イザヤ書44章の言葉はまさにこの偶像の無意味さについてを語る箇所となっています。6~8節では唯一の存在であり、絶対である神の宣言が行われます。これはこの後に語られる「偶像」というもののむなしさとの対比としても印象深いものとしてわたしたちは聞くこととなります。この後の偶像の無意味さを語る箇所、前半部では、まず偶像が「人の手で作られる」ということが強調されていきます。偶像は特別で神秘的な事象によって生み出されるものでもなければ、超自然的なことで与えられるものでもない。ただ人がその手で作り出すものであって、それらは決して人の域を超えることがないと言うことを示していきます。そしてより痛烈に皮肉をもってそれが以下に無意味であるのかを語ります。15節からの言葉です。「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め一部を燃やしてパンを焼きその木で神を造ってそれにひれ伏し木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし肉を食べようとしてその半分の上であぶり食べ飽きて身が温まると「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造りひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。」。ここで語られているのは、単に偶像という物体が無意味で冒瀆的ということではありません。それを作り拝む、人の有り様への批判がなされているのです。人が偶像を作るとき、自らの願望をそこに込めて、自らを支え、助けてくれる、言ってしまえば自分にとって益となり都合の良い欲望を詰め込んだ神を作り出してしまうのです。「人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り」という言葉はそうした人間の欲望・欲求・理想を押し固めた姿が偶像であると言うことを語っています。そしてそのような欲望・欲求はどこまでも満たされることは無く、すぐに次の欲求によって押し流されていく。そのような流れゆく人の意識は、偶像を作る傍らで、同じ木材を使いながら料理をしたり、体を温めたりするという行動で示されます。ただ欲求に従う中で偶像は生み出され、目の前の欲も消化されていく。そんな中で生み出されるものに何の意味があるのか。そのようなものを求める、欲求に従い続けるような人間に本当の意味で「満たされる」、真の救いにたどり着くことがありえようかと問いかけているのです。

​(髙塚記)

逝去者記念礼拝説教要旨
「死は勝利にのみ込まれた」(11/10)​

コリントの信徒への手紙15章54~57

 この逝去者記念礼拝は先に召されたわたしたちの大切な人、身近な人を思い起こすときです。しかしそれだけでは無くわたしたちがこの時を通して希望を与えられるのです。その希望とは「死への勝利」、いつの日かまた心に覚える方々と相まみえる時のことです。その時のための道はすでにキリストによって開かれていると聖書では語られています。だから今この時もわたしたちとその方々の間には分け隔てるものは存在していません。そしてこの逝去者記念礼拝はただ地上において先に召された方々を覚えるだけの時ではなく、天上においても今この時、その方々が共に祈りを合わせてくださっているということを知る時なのです。死という出来事によって今現在分け隔てられている状況にあっても、その関係性は失われることはなく、キリストによって繋げ合わされています。その繋がりにおいて今この時も、この礼拝の場にあって、神を中心としてその方々も共に集っているのです。今この時「目には見えず、耳にも聞こえなくとも」キリストによって共に在る。赤ちゃんは守ってくれる存在が自分のもとを離れることに強く不安を感じます。しかし一度離れたとしてもまたすぐに戻ってきてくれるという経験を繰り返す事によって、目に見えなくとも、耳で聞こえなくとも存在し続け、共にいてくれるということを信じる事が出来るようになります。この繰り返しによって信頼を形成していくのです。それは「対象の永続性」の獲得と言われています。これは信仰において、死という出来事を前にする時において、わたしたちも同様に獲得していくべき思いです。先に召された方の姿はもう目で見ることは叶わない。その声もまた聞くことは叶わない。しかし聖書は言います。そうだとしてもその存在が消えて無くなってしまったのではないと。今もなお存在し続けていると。そしてまたきっと共に歩むことが出来る、語り合うことが出来る時が来るんだと。わたしたちに語りかけ続けてくれています。そして今もきっとキリストを通して、目には見えなくとも、耳には聞こえなくとも共に在り続けてくれているのです。わたしたちはそのことを信じて、今この時神からの豊かな慰めと励ましを受け、希望を携えてこれからの歩みを進めていきたいと思います。悲しみとさみしさを心に抱く、ご遺族皆様の上に主の豊かな慰めと平安がありますことをここにお祈りいたします。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「愛の対象」(11/17)​

マタイによる福音書5章38~48

 今回の箇所のイエスの教えの根幹にあるものは神の救いのあり方です。神が人に与えられる救いとは、ここで語られているところの「愛」です。ここで愛の対象を問うていくならば、それはわたしたちが考えるような善悪、敵味方というような人間的価値観における区別が完全に撤廃された、無条件の恵みです。それは時にわたしたちの想像をはるかに超えていくようなあり方で示されていきます。イエスが語る愛の行為をわたしたちは困惑を持って受け止めました。しかしそれはイエスと同時代のユダヤの人々にとってもそうであったでしょう。神に選ばれ、祝福され救われるのは、律法を守り、正しく生きている自分たちであるとの自負を持っていた。そんな人たちの前でイエスは、神が与えられる愛、その祝福と救いは、全ての人に昇らせられる太陽のように、全ての人に降らされる雨のように、区別なく与えられるものであると語ったのです。この教えはこれまでの信仰を大きく揺らがすようなものであったと思います。多くの人がこの言葉につまずきを覚えたことだと思います。しかしそれこそがわたしたちにとっての大きな希望であり、喜びである「福音」なのです。どのような自分でも、どんな状況にあっても、絶望の淵であろうとも、そんなことは意に介さず全く揺らがず決して消えず、変わらずに在り続けるのが神の「救い」であるのです。私がつまずこうが、間違えた道を歩こうが、立ち止まろうが、悪態をつこうが、変わらずに次の日が来れば何の影響もなく太陽が昇っていくように揺らぐことなくわたしたちに注がれるのが神の愛なのです。その揺らがなさをイエスは右の頬をぶたれたら逆を、上着を取られれば下着もというわたしたちのレベルでの敵対者への対応で語るのです。神は人間が間違えても時に悪態をついても、裏切ったとしても、変わることなく愛を向け続け、手を伸ばし続け、受け止めてくださいます。そのような神の姿がここで語られ、それと同時にその神の姿に感謝を持って応答していく者としての道が示されていくのです。

 「愛の対象」をわたしたちは時に限定してしまいます。しかしその愛の根源たる神は、そのような区別を完全に撤廃されました。この大いなる恵みに今新ためて気付かされて行き、許しの源であるキリストの誕生を待ち望む時、神の愛に倣うものとして歩みを進めていきたいと願うのです。

​(髙塚記)

収穫感謝合同礼拝説教要旨
「神の贈り物」(11/24)​

コリントの信徒への手紙二9章6~15

 今回の聖書の言葉には、わたしたちにたくさんの恵みをくださる神様の事が書かれています。人は昔から食べ物を得るためにたくさん働いてきました。それにわたしたちが生きる上で大切なのは食べ物だけではありません。本当にたくさんのものがわたしたちの生きるための助けとなります。その一つひとつが神様から与えられている恵みです。わたしたちが野菜を育てるように、生きるために働くように、神様もわたしたちのために働いて、たくさんの恵みを与えてくれています。毎日を忙しく生活していると、その毎日が当たり前で、まったく特別な時とは思えなくなってしまいます。スーパーに並んでいる野菜を見るのと同じような気持ちでしょうか。当たり前に並んでいるから、いつでも買えるように思うから特別とは思えない。でも実際は収穫するまでにとても時間がかかり、手もかかり、収穫の時を迎えることは特別なことなんです。わたしたちの日常も毎日が変わらず、当たり前でなんてことないような時間のように思えますが、実はそうではないんです。世界に目を向けると戦争が拡がっている状況があります。日本でも毎年各地で大きな災害が起きています。そういう状況を見ていると今ある日常がいつどのようになるのかわからないと思わされます。だからこそ今あるこの日常が、実はとても特別で、かけがえのないものであると感じます。そう思ったとき、繰り返される日々も、目の前に並ぶ食べ物も、手を伸ばせば届く必要な物も、全てが特別に与えられている恵みだと気付かされて行きます。当たり前ではない「神様からの贈り物なんだ」って思うのです。野菜を育てるときには、たくさんの手がかかり、時間がかかりその先でよろこびいっぱいの収穫の時が来ます。でも神様からの贈り物は、わたしたちがどれだけ手をかけたからとか時間をかけたからとか関係なく、何よりも先に、わたしたちが当たり前と思ってしまって忘れてしまうくらいに毎日与えられ続けています。でもそれは収穫の喜びの先取りのようなものです。「当たり前」と流してしまうんじゃなく、「忙しいから」と忘れてしまうんじゃなく、日々神様の贈り物で特別な毎日があるんだと感謝したいと思います。そしてその感謝を表わすこととして、この嬉しいことを、たくさんもらっている神様からの贈り物のことを多くの人に伝えたいなと思うんです。一人でよろこぶよりも二人でよろこぶ方が大きな喜びになります。「あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」という聖書のお言葉は、この喜びを分け合って拡げることを教えているんです。いっぱいに拡げてよろこびつながる世界にしたいと思います。

​(髙塚記)

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