アドベント礼拝説教要旨
「主の光の中を」(12/1)
イザヤ書2章1~5節
創世記でヤコブが命の危険から家から逃げ出して、恐れと不安の内に冷たく堅い石の枕で眠った夜のように、この先がないように思えるような行き止まり、崖っぷちにいる思いになることが時にあります。しかし現代を生きるわたしたちにもこのイザヤ書の言葉は「希望」を示していくのです。ヤコブがその絶望の淵で見た夢の情景のように、絶望の淵にあってなお、そこには神の守りと支えが届くのだと。それを思い起こさせるように「ヤコブの神の家に行こう」と語るのです。そして4節の言葉。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直してすきとし、槍を打ち直してかまとする。もはや戦うことを学ばない」。この言葉に示されるように、その業によって人々に平和をもたらせられる事が宣言されていきます。ここで語られている「争い」とは、イザヤ書当時で言えば実際にあったアッシリアやバビロニアとの凄惨な争いが思い起こされたことでしょう。また場所や時が違えばその他の争いを思い浮かべる事もあるかと思います。しかしこれは時代と場所を越えて語り続けられる預言の言葉です。だからこそこの「争い」にも様々な解釈、わたしたちに伝えるメッセージがあるのです。ここで語られる争い、そして「ヤコブの家」とわたしたちに呼びかけられていること。それは本質的に、自分以外の他者全てと完全に、霊の根本からわかり合うことができず、対立し、その関係性の中での困難に苦しむわたしたちの姿、状況に呼びかけられているのです。この対立は、わたしたちの本質的な弱さです。人間はそれぞれが助け合い支え合う者として作られたと聖書には語られています。しかしその神の願いとは裏腹にわたしたちは利己的な思いや勇気や忍耐のなさから他者との関係をないがしろにしてしまいます。ヤコブが負った性質と同様のものをわたしたちは「罪」として未だに負っているのです。しかし聖書は、その罪があってなお神は決して離れることなく、見捨てることなく、支えられると示しています。ヤコブに対してそうであったように、ずっと進むべき道を指し示し続けていると語っています。今わたしたちは待降節の時を歩み始めました。わたしたちの希望の根源であるキリストの誕生を覚え待ち望む時です。神はどのようなわたしたちであっても決して見捨てず、共にいて支えてくださると約束してくださいました。それを成就されるのがキリストの生涯で在り、死と復活です。そのことを今この時あらためて胸に刻みたいと思います。この希望の光によって照らし出されて進むべき道がわたしたちの前には開かれています。その光の中をわたしたちは今勇気と喜びを持って歩んで行きたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「罪を悔いる者」(12/8)
イザヤ書59章18~20節
今回読んでいただいた聖書の箇所の言葉。「主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表わし、敵に報い島々に報いを返される」。わたしたちは弱い心をさらすことを避けて、強い自分を演ずるために時に攻撃的になり、手を伸ばし助けてくれようとする相手を拒絶するときがあります。「自分は強い」「自分だけで生きていける」「余計なことをするな」と。ここで神に「刃向かう者」「敵」と言われている存在はまさにそのようなわたしたちの姿をとらえて語られているのです。「神など必要ない」と考える人々に対する神の憤りが示されます。しかし神はただ滅ぼすだけの存在としてあるわけではないことがその後に語られます。20節「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者の元に来ると主は言われる」。滅ぼすのではなく許し受け入れてくださる存在として神は来てくださると言うことがここで宣言されています。それはどのような人々のもとにか。「罪を悔いる者」と記されています。「罪を悔いる」とは自らの弱さ、不完全さを自覚することです。弱さ、不完全さを恥じて隠すことではありません。その弱さ・不完全さに向き合って、それをさらけ出して神の前に立つことを意味しているのです。「自分は強い」と「神など必要ない」と心を武装して振る舞うのではなく、自分はこんなにも弱く、不完全な存在であると自覚して、その弱さを隠すこと無くなげうつ。それが「悔いる」という行為です。その行為は自分の存在に「絶望」するようなものであるのかも知れません。こんなに不完全で弱い自分では、正しく生きる事はできない。ただ滅びるだけの命だと諦めてうずくまってしまうような姿であるかも知れません。しかしそんな絶望とも言える状態にある人のところにこそ神は来られると宣言されているのです。谷川俊太郎さんの「絶望」という詩で「絶望が終点ではないときみの命は知っているから」と語られています。この言葉に示されるように、この弱さの先にこそ、自分だけでは生きていくことすらもできないという不完全さの先にこそ、「本当の希望がある」ということを聖書は語り、その言葉からわたしたちは生きるための大きな励ましを受け取っていくのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「主の道を整え」(12/15)
マルコによる福音書1章1~6節
4節。「洗礼者ヨハネが現れて、罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と。「洗礼者ヨハネ」。このアドベントの時によく登場する人です。キリストの誕生の前にこの世界に現れて、キリストを人々が迎え入れるための備えの教えを語ったと言われる人です。2節からの記述を見ます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ』」。この言葉はイザヤ書40章3節の言葉がもとになっています。この言葉、預言の成就がヨハネの出現であると言われているのです。そしてこの「荒れ野で叫ぶ者の声」と言うのがこのヨハネの「これからキリストがここに来られる」と、「だからその備えとして『悔い改め』なさい」との言葉です。キリストの誕生を迎える時の備えの時期であるアドベントにこの洗礼者ヨハネの物語は読者の心の備えを勧めるものとして読まれるのです。そしてそこで語られているのがこの「悔い改め」なんです。キリストを待ち望む姿として示されるのがこの「悔い改め」です。でも具体的に悔い改めってなにか。どんなことすればいいのかという感じだと思います。それでは旧約聖書にはこの「悔い改め」を行動で示す人が多くいたのでその記述を見てみます。ある箇所では悔い改めについて「自らの衣を引き裂き、粗布を身にまとい灰の上や地べたに身を投げた」と記されています。自分の周りに不幸がおきたとき、困難を前にしたとき、神に自分の間違いを許してもらおうとするときこのようにして、その神への思いを示すようです。自らの弱さや罪によって離れ去ろうとする神を呼び求め、再び自分に顔を向けてもらおうとするための行動が先の「自らの衣を引き裂き、粗布を身にまとい灰の上や地べたに身を投げる」という姿なのです。この姿には着物や姿勢で自らを取り繕うことなどせずに、自らの弱さやもろさ、過ちそのすべてを神の前に投げ出して行く有り様を示しているのです。隠し事も取り繕いも何もない、ただ一人の弱き存在として神の御手にすべてを委ねる姿勢でいることを表わすのです。それが「悔い改める」っていうことなんだとここで言われているんです。
(髙塚記)
クリスマス礼拝説教要旨
「約束の実現」(12/22)
マタイによる福音書1章18~25節
ユダヤにおいて社会から疎外され、「罪人」とされていた人々のその歩みは、生活は、まさに暗闇に閉ざされるようなものであったでしょう。様々な苦しみにさいなまれて、そこから救い出されるという望みも持つことは許されなかった。その歩みは不安や恐れに満ちたものであったことでしょう。しかしイエスはその行いや言葉によって、そのような人々に対して、「あなたは決して一人ではない」「神は共におられる」「勇気を持ちなさい」と暖かな光を注がれたのです。神の救い、その恵みはそのような陰をこそ照らすのであると、その陰の中に沈む人々にこそ与えられるのだと証しされたのです。このようにして光を当てられた人々は、もう暗闇にとらわれて、恐れや不安の中に留まることはありませんでした。希望という光と勇気というあたたかさに包まれて、その歩みを進めることが出来たのです。イエスの生涯はその名の通り「神は救い」であり「神は我々と共におられる」ということを証明するものであるのです。
この聖書によって知らされている神の救い、恵みの在り方は現代でも変わることはありません。世界に、社会に拡がっていく暗闇はなかなか晴らすことは難しいものが大変多くあります。神は沈黙し、見放しているのではないかと思われてしまうような苦しく悲惨な状況もあります。その中で「希望を持て」と語ることは簡単にできることではありません。しかしそれでも私たちはこの聖書で語られる福音を勇気を出して今語らなければならないのです。イエスがその生涯において当時の社会規範を覆し、批判されようとも、命を脅かされようとしても語り続け、手を伸ばし続けられたように、そのような場所にこそ神が共におられ、救いがある事を信じなければならないのです。私たち自身の歩みについてもそうです。この先の未来に不安を持って、恐れにとらわれてしまうこともあるかも知れません。しかし神はそのような恐れや不安をその光で照らして、進むべき道を示してくださると聖書は語ります。イエスはいつも共にいてくださると聖書は語ります。そのことに勇気を与えられて、進むべき道を見いだしていきたいと思うのです。その歩みにおいて、イエスが示された希望の光を、勇気の灯火を拡げ、陰を照らす業をなしていきたいと思うのです。そして一人でも多くの人に「あなたは一人ではない」と「神は共におられる」と語り示されたキリストの誕生という「約束の実現」の喜びを伝えていきたいと願います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「イエスは怒った」(12/29)
マルコによる福音書3章1~6節
怒るイエスの登場です。イエスの愛・優しさは、怒りで裏打ちされていました。愛の反対は無視、無関心でしょう。イエスの愛は、人間関係が破壊されることを無視しません。それに対して怒ります。
安息日、イエスは再び街会堂に入りました。そこに手の不自由な人がいます。人びとはイエスがどうするかと待ち構えています。
「真ん中に立ちなさい(3)」。イエスはこの人を真ん中に招きました。人びとはイエスを抹殺しようと待ち構えていました。安息日ですから働くことは制限されています。この厳格な律法をイエスは十分承知しています。波風を立てたくなければ、もう一日待てばよいのです。しかしイエスはきっぱりと対処します。その人に向き合います。人間が回復されることは、いつでも良い問題ではありません。今取り上げなければならないことなのです。人びとには、手の不自由な人への思いやりも憐れみもありませんでした。彼は悪意と好奇心の道具にされています。
イエスにとって、片手一本の問題ではありませんでした。人を愛なしで扱うことは、殺人行為にも匹敵することとなります。イエスは彼の「隣人」になります。彼のもっとも苦痛である問題に触れ、それを癒しました。人びとは次第に沈黙していきます。自分たちが間違っていたと気づいても、率直に口には出しません。
イエスは怒っています。同時に悲しんでいます。腹に据えかねて人びとを見回しています。伸ばせる手を伸ばさせもしないで、仕方のないことと見過ごしている人びとをです。
安息日・主日礼拝の主イエスはこのような力を持つ主なのです。いろんなことにとらわれて、不自由にされて手を伸ばせないでいる私たちが、手を伸ばすこと。そしてその手を隣人にさし伸ばすこと。隣人の苦しみに寄り添うことに招かれています。この主の日の礼拝を喜び、大切にしたいものです。
(前島宗甫記)