説教要旨
「弱さの必要」(8/7)
コリントの信徒への手紙一12章12~26節
今回の箇所の後半、22節。「それどころか、身体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです」。さらに24節「神は、見劣りのする部分を一層引き立たせて、身体を組み立てられました」と続けて語られて行きます。そして結論として25節「それで身体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合ってい」ると語ります。ここでは「弱さ」というところが注目を持って語られています。これは共同体において「自分は役に立たない」と「何もできない」と考えてしまう、そう思わされてしまうような状況があったことから言及されることです。しかしこの「弱さ」こそが共同体において重要なものであるとパウロは語るのです。「他より弱く見える部分がかえって必要なのです」と。さらに弱さがあるからこそ「身体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっている」と語ります。人は多かれ少なかれ自らの中に弱いと思えるような部分を持っているものです。どんな人にも得意不得意はあります。最初にお話しした野球の例でもそうですが、すべてにおいて完璧である人というのはまれですし、そのような人だけで共同体が形成されたとしてもそれが一体となることは大変に難しいことであります。たとえすべての面において完璧でなくとも、それぞれの得意不得意をカバーし合いつつ取り組んでいくことによって、その共同体は一体となって物事を進めていくことができます。パウロは多くの書簡において何度も語ります。「互いに愛し合え」と。「互いに思い合いなさい」と。互いに「愛し合い」「思い合う」こと。これは相手に寄り添うことを示しています。特に「相手の弱さに寄り添うこと」を指しているのです。自分にもその弱さがある。それを他者は思い、寄り添ってくれる。だからわたしも他者の弱さに寄り添い合っていく。そのようにして共同体が一つの身体としての働き、一体となった働きをなすことができるのです。そのことによって「身体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている」という共同体の在り方が成し遂げられていくのです。だからこそ、「弱さ」は卑下するものではない。むしろ「弱さ」こそを大いに尊重し、それを核として共同体としての繋がりを強めていくのです。(髙塚記)
説教要旨
「いのちのバトン・タッチ」(8/14)
出エジプト記1章15節~2章10節
映画などでもよく知られた「出エジプト」。そのリーダー、モーセの誕生物語です。エジプトの王の娘に育てられたモーセは、王に反抗して羊飼いになります。やがて厳しい奴隷状態に置かれている人びとのリーダーとして立ち上がりました。
かつて飢饉に襲われたヤコブの子孫たちがエジプトに避難しました。次第に勢力を築くようになった彼らに対し、エジプトの王は危機感をつのらせます。やがて奴隷のように酷使し、ついに新生児の殺害を始めます。
王の新生児虐殺命令に従わなかった女たちがいました。新生児を殺すことを命じられていた「助産婦たち」は、出産に間に合わなかったと虚偽申告をします。モーセを出産した「母と娘」は、パピルスの葉で編んだ籠に入れナイルの流れに託します。それを見つけた「王女」は、モーセの名付け親となり彼を育てました。この王を恐れなかった「助産婦たち」を聖書は「神を畏れる人々」(1:21)と言います。殺すことができなかった女たち。いのちはまさに神の創造の業でした。神の息が吹き入れられたいのち(創2:7)。神の息がかかった祝福の業に手を付けることを畏れたのでしょう。その「神を畏れる心」が、「出産に間に合わない」とか「ヘブライ人の乳母を呼ぶ」という機転を利かせる知恵を生み出します。そして凄いのは彼女たちの実行力でした。
この出来事は遠い昔話ではないようです。今日も凶暴な力が世界を席巻しているかに見えます。「殺すことのできる人間」と「殺すことができない人間」が向き合う構図があります。一見弱く見える「できない人間」が本当は強いのではないか。神はそのような人間を用いて歴史を作られるのではないかと思えます。いのちが武器で守られたのではありません。柔らかい植物がいのちを包み、人の知恵がいのちを守りました。女たちのバトン・タッチで守られ、運ばれたいのちです。このいのちがやがて育ち、奴隷の民の解放をもたらすのです。(前島宗甫記)
説教要旨
「子どものように」(8/21)
マルコによる福音書10章13~16節
イエスは言いました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」と。そして「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。子どもでなくなるにつれて、社会生活で必要なこと、考えなければならないこと、やらなければならないことがだんだん増えてきます。そうしていくと子どもの頃のような想像や自由な物事の捉え方、柔軟な考え方というのは失われていきます。そういった感性や考え方というのは必要ないと考えて切り捨ててしまうのです。そしてなかなかそこに重要性や真実を見いだせなくなってしまいます。しかし、「子どものような感性」こそが大切であったのではないかと思わされるのです。この「感性・物事の柔軟な捉え方、自由な受け入れる心」によってこそ、真実に神の恵みを感じ、福音の喜びを受け取り、感謝をすることができるのではないかと思わされるのです。「子どものように神の国を受け入れる」。このイエスの言葉からもそのことを強く感じさせられます。私たちはこの感性や考え方を子どもたちを拒絶した弟子たちのように切り捨ててきてしまったかも知れません。しかしこのようにして聖書の言葉から、イエスの言葉から気づきを与えられていきます。ほんとうに大切なこと、真実に神を受け入れる姿勢を私たちはこの時また学び捉え直していきたいと思うのです。子どもたちが想像の世界で見えないものを受け入れ豊かに生きるように、見えなくとも、私たちの中で、背後で、いつでも働き守ってくださる神の存在を感じ、受け入れていく感性を大切にして感謝を持って歩んで行きたいと願います。(髙塚記)
説教要旨
「迷い出たわたし」(8/28)
ルカによる福音書15章1~7節
この物語を読むとき。私たちはどこに自らを投影するでしょうか。九十九匹の羊か、一匹の羊か。あるいは羊飼いか。普段の私たちはもしかしたら九十九匹の羊の中にいるのかも知れません。あまりはみ出ることもなく、社会の中で、共同体の中で、家族の中で、友人の間で過ごしているのかも知れません。しかし、この九十九匹もまた、迷い出た一匹の羊と同じように、かつては迷っていた羊なのかも知れない。見つけ出された羊の一匹なのかも知れない。自分もまたはみ出た存在であった、神の前には正しく生きていくことができない存在であった。そんな過去を忘れてすまし顔で九十九匹の中にいるかも知れません。私たちは皆、かつては、「迷い出た、見失われた羊の一匹」でありました。しかし今、聖書の言葉によってか、祈りの言葉によってか、日々の出来事によってか、私たちはこうして神の前にある共同体の一人として座っています。しかし時に私たちはかつてのように「迷い出た一匹の羊」として、道を見失ってしまうことがあります。それは苦しみの中で、悲しみの中で、うつむいてしまっているうちに光を見いだすことができず進むべき道がわからなくなってしまうのです。しかし、この物語で示されるように、その時にこそ、私たちの牧者であるキリストは共にいて私たちを背負い、帰る場所へと導いてくださるのです。そうしてはみ出しものであった私は喜びを持って受け入れられて行くのです。
このようにして受け入れられた私たちは、受け入れられた時と同様の喜びを持って人々を受け入れていく在り方を示していかなければならないのです。かつて自分がそうして受け入れられたように、すべての人がそうして受け入れられているように。誰かだけが特別なんじゃない。誰かだけが変わっているんじゃない。誰もが特別で、誰もが変わっているその中で、それをそのままで受け入れられて行くという喜びを私たちもまた、多くの人々に伝えていかなければならないのです。その喜びは今も私たちを励ます希望です。共にこの希望を携えて、あなたの居場所ここにあるという喜びを携えて、多くの人と共なる歩みを進めて参りたいと願うのです。
(髙塚記)