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説教要旨
「イエスと出会うために」(11/6)​

マルコによる福音書2章1~5節

 私たちの認識の違いはあるのですが、受け入れられないことが起きたり、人物が登場したりします。このテキストに登場する人も、私たちが常識と考える状況で人びとの前に現れたのではありませんでした。人びとは戸惑ったことでしょうが、イエスはこの出来事と彼との出会いを受け止められました。

 カファルナウムに来られたイエスのところに、中風の人が運ばれてきました。身動きできず立って歩くこともできません。4人の男に運ばれてきたとあります。私たちも神の前で同じような状態であるかもしれません。聖書の言葉の前で身動きできず、歩くこともままなりません。そして「何か」に担がれ、運ばれているようでもあります。

 中風の人がイエスの前に現れました。しかし全く非常識、無礼な近づき方でした。他人の家の屋根をはがして現れたのですから。イエスのおられる家まで来てみると、群衆に阻まれて入ることができませんでした。遅かった!イエスとの出会いは、厳しい時間的制約の中で起こることも想像できます。

 この人たちは群衆であふれた-玄関を見て、引き下がることはしませんでした。出会いはまたの機会を当てにしていては生まれません。決断は「今という時」を大切にします。彼らは屋根に上り、屋根をはがします。騒々しい物音と埃と共にイエスの前に現れました。見栄えのしないありのままの姿をイエスの前にさらします。

 この人たちに限らず、聖書ではどれほど多くの人たちが無様に、無遠慮にイエスに近づいたことでしょうか。私たちはイエスの前に、根本的に無遠慮に、厚かましく近づく以外にありません。居住まいをただす必要はないのです。この切実さをイエスは信仰とみられたのですから。

(前島宗甫記)

説教要旨
「このことを信じるか」(11/13)​

ヨハネによる福音書11章17~27節

 イエスが語った「わたしは復活であり、命である」との言葉。この「命」、「ゾーエー」、にイエスにつながることで私たちはあずかっていくことが出来ます。この「命」はこの世的な死によって断絶するものではなく、25節で語られるように「死んでも生きる」、連続性を持った霊的な命であるといえます。イエスを信じ、信頼し、その歩みに従っていく者は、この命のうちにとらえられていくのです。

 「死」というのはそれまでの歩みを断絶していくものです。日常的な連続性がそこで途切れていくものであります。大切な存在が亡くなった時、その連続性が途切れ、日常的な希望が打ち砕かれていくように感じます。しかしイエスは、その悲嘆するような、絶望を感じるようなその状態に対して、なお希望があることを示してくださいます。死が私たちの関係性を連続性を完全に途切れさせるのではないと語るのです。確かに、大切な人の死、その別れは悲しみを伴うものであります。しかしそこで終わりではない。若松さんのいうように「どうしてそれを消し去る必要があるだろう。どうして乗り越える必要などあるだろう」。

 目には見えないかもしれない。わかる形ではないかもしれない。でも確かに、その人は消えたわけではなく、今もなお、この「復活であり、命である」と宣言し、約束をしてくださった、イエスによってその連続性はたたれずに、つながっているのであります。だからこそ私たちは、この悲しみを「単なる悲嘆」に終わらせることなく、いつの日かまた相まみえるという希望を持って歩みを進めていくことが出来るのです。それを知る私たちは、「このことを信じるか」とのイエスの問いかけに対して、希望を抱き、イエスに従っていく歩みをもって応えていきたいと思います。

                                      (髙塚記)

説教要旨
「分かち合う」(11/20)​

創世記1章29~31節

 1985年秋、ユニセフが“14万人の子どものいのちが危ない”と「フィリピン・ネグロス島飢餓宣言」を発出しました。主産業の砂糖産業が立ち行かなくなったのです。フィリピンの友人たちから援助要請を受け、「日本ネグロス・キャンペーン委員会」を立ち上げ、私が代表に就任しました。

 募金をしてお金を贈ったのですが、飢餓の根源を絶たねば復興はありません。食糧自給のため農業研修所を現地に作り、日本の有機農業の専門家を派遣し、農民を養成しました。さらに経済活動の模索です。一家が三度の食事、子どもの義務教育、最低限の医療を。せめてこれらを達成するために、何ができるのかの模索です。

 私には一つの体験がありました。1972年フィリピンで活動していた時、ミンダナオ島を訪れる機会がありました。そこで生まれたばかりの赤ちゃんの死を目の当たりにしたのです。一家に食べるものがなかったのでした。周囲に日本に輸出されるバナナ農園がありながら、赤ちゃんが死んでゆく。その時以来「われらの日曜の糧を今日も与えたまえ」と祈るたびに、あの赤ちゃんを想い浮かべています。ネグロスの人びとがバナナを生産し、それを日本人が買えないか?この経済活動を思いつき、日比で貿易会社「オルター・トレード社」を立ち上げました。日比両者が有機生産・流通・消費に、公正に関わるシステムを作り上げてきました。私自身も30年間、毎朝このバナナを食しています。

 神が天地を創造し、バランスの取れた世界を「極めてよかった」と言われました。人間は、いろんな場でこのバランスを破壊してきました。分かち合うべきパイを奪い合う現実があります。私たちお互いが分かち合えるよう祈りましょう。今朝おにぎりを握った子どもたちの心が、売り上げによる募金を通して、食べられない子どもたちの心に届きますように。

                                     (前島宗甫記)

説教要旨
「神の約束」(11/27)​

エレミヤ書33章14~16節

 今日の聖書の箇所にある神の言葉がエレミヤに与えられたのは、彼が獄舎に拘留されていたときでした。エレミヤに与えられた言葉は、エルサレム中が死体であふれかえるような悲惨な状況に陥るだろうと告げます。しかしこのような滅びを告げながら、神は33:6「癒しと治癒と回復とをもたらし、彼らを癒してまことの平和を豊かに示す」とも述べています。神は、イスラエルの犯した罪を赦し、回復をもたらすというのです。今日の聖書の箇所では、33:14「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」と、宣言されています。この約束は、29:10「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」つまり、エルサレムから強制連行され、捕囚の民となった人々が、70年後にエルサレムに帰還することが出来るというものです。人々の中には、バビロン捕囚という民族の悲劇は、一過性のものだという認識もありました。しかしエレミヤは、そんな人間的な思いを打ち砕き、70年という具体的な数字をあげています。当時、男性であれば18歳で父親になっていましたので、3世代から4世代という期間です。現代であれば、70年は一人の人の一生よりも短い時間かも知れません。しかし、エレミヤの時代では、何世代もかけた非常に気が遠くなるような期間を意味していたのです。神の約束は、そのようにしてわたしたちに訪れます。わたしたちがあがいて、努力して、獲得するものではないのです。神が与えてくだるのを待ち望むのです。約束が実現したとき、「ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」とありますが、ダビデ王朝が復興することを意味しています。ただし、単なる王朝の回復ではなく、「公平と正義を持ってこの国を治める」ことが重要です。神の約束の実現によって建てられる国は、神の正義と公平が支配する世界でもあります。公平と正義によって支配されることで、ユダは真実に救われ、エルサレムは安心して、平安のうちに人々が住む都となるのです。16節の「主は我々の救い」と訳されている部分は、訳によっては「主は我々の正義」となっています。救いとは、神の正義が実現している状態でもあるのです。旧約聖書において、救い、神の正義は、具体的な関係の中で成立します。神がもたらしてくださることは確かにそうですが、神と交わした契約が前提となります。神がその契約、あるいは約束に基づいて、どのようにその契約の民を扱い、関わるのか?この契約があるからこそ、他の民族に虐げられたときも、また世の終わりの時を迎えるとしても、神による世界支配は信頼に足るものであると確信していました。アドベントに入り、クリスマスに向けて、あるいは年末年始と言うことで、世の中がそわそわする時期です。しかし、キリストを迎えると言うことは、うれしい、楽しい、喜ばしいことばかりではなく、自分自身がその出来事にふさわしい存在かを問われることでもあるのです。

                                     (相澤弘典記)

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