新年礼拝説教要旨
「待ち望まれた希望」(1/1)
ルカによる福音書2章21~40節
ルターの活動を支えた信仰・信念を表している言葉をご紹介いたします。「希望はいつまでも人と共にあって、悪と不幸を克服する」。困難な状況にある中で、それでもルターを支え、前へと進ませたその力を与えたのが「希望」であったことが示される言葉です。今目の前にある不正や、それに苦しむ人々が挫折し、うずくまっていく状況があってもなお、ルターは「希望」においてそれらは克服されていくと語ります。そして、「希望は強い勇気」であるとも語り、「悪と不幸を克服する」「希望」は、それを胸に信じ抱く者に「強い勇気」を与え、前に進むための原動力となる事をも示していきます。
シメオンと女性預言者アンナが出会ったイエスは幼子の姿であり、決して力強く雄々しい姿ではありませんでした。知性あふれる姿でもありませんでした。しかしそれでもその力無く、まだ守られる存在としてあるイエスの姿を見ることによって、そこに救いの希望を見いだしていくのです。大きな「希望」が与えられているのです。このことは、ここで語られる希望が、力や知性などと言ったものに依存するものではないことを示していきます。幼子に「悪と不幸を克服」していくような「力」を見いだすことは難しいかも知れません。しかし事実この幼子イエスの姿は多くの人にとっての希望となり、「強い勇気」を与えていくのです。力弱くなった足を強め、福音を告げるための力を与え、細くなった声に力を乗せて、大胆にその言葉を告げ知らせる賜物とする。闇夜に差し込む朝日。最初はほの暗い光かも知れない。それでもその最初の光は、夜明けを告げる希望の合図です。その光を浴びるとき私たちは、「強い勇気」を与えられ、その希望を持って「悪と不幸を克服していく」歩みを進めていくことが出来るのです。
現在世界に目を向けても、日本社会に目を向けても、決して平穏とは言うことの出来ない状態が続いています。闇夜の中を歩むような不安と恐れにとらわれてしまうような思いになってしまいます。しかし今日のこの聖書の言葉は、そのような闇夜が続くような状況でもその先にきっと希望があると言うことを語っています。待ち望まれた希望が必ず与えられることが示されているのです。その希望を私たちは見据えて、夜明けを待ち望む思いを持って、今この時、祈りと支え合いの歩みを進めてまいりたいと願うのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「イエス、洗礼を受ける」(1/8)
ルカによる福音書3章15~22節
イエスが洗礼を受けられたという今回の報告。改めて見てみます。15~20節では洗礼者ヨハネが登場し、後に来られるメシアの存在を語ります。そこでヨハネはイエスについて、「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」とかたります。「履物のひもを解く」という動作は、家の使用人が、家の主人が帰ってきたときにその足を洗うために行う動作です。僕、使用人としてその前に立つ価値もないと自らを表するのです。しかしイエスはどうされたか。21節「民衆がみな洗礼を受け、イエスも洗礼を受け」たと記されます。ヨハネはメシアを自らの上、特別な位置に置きました。しかしイエスは、自らを民衆と同じ位置、変わることのない存在として置かれました。そして洗礼を受けられる。民衆と同じように。神を自らの内に迎え入れるための備えをするのです。最後の22節に印象的な場面が記されます。「聖霊が鳩のように目に見える形でイエスの上に下ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの」という声が、天から聞こえた」。この後半の神の言葉「あなたはわたしの愛する子」という言葉。意味深い言葉です。この言葉を周りの人々が聞いていたという描写がなく、また言葉が「あなたはわたしの愛する子」というイエスを指す言葉のみで語られていることからも、これが神とイエスの間に行われた私的な、個人性を持った出会いの場面であったことがわかります。このイエスが洗礼を受けられた場面。特別な位置に自らを置くのではなく、その時その時の決断において民衆と同じ位置で、同じ人としての道を歩む選択をされるイエス。そのイエスの姿を象徴するような場面です。そしてその選択をされたイエスが神によって改めて祝福されていくのです。このイエスの姿こそが救いであると。福音であると。「わたしの心に適うもの」との言葉がそれを証明するのです。
洗礼は私たちにとって共同体的、公性を持つものであると同時に私的、個人性を持つものであります。それはイエスにとってもまた同様でありました。この洗礼を受けられたイエスは、この時、人として自らの内に神を受け入れる備えをなされました。その手続きは、特別なものがあったのではありません。人々と同じように、祈りと信仰をもって、神との出会いをなされたのです。私たちもそうです。洗礼を受けるとき、また聖餐にあずかるとき。繰り返し神との出会いを経験していきます。イエスがその自らの位置を一番苦しむ人と同じ位置に置かれました。それを象徴する一つがこの洗礼の出来事です。私たちは洗礼の時に、聖餐のたびにそのことを思い起こすのです。イエスが人としてこの地上に来てくださったから、苦しみを受け、その果てに十字架での死という運命を受け入れてくださったから、苦しみの中にあっても、悲しみの中にあっても、試練の中にあっても、どこであってもイエスは共にいてくださるという信頼を注ぐことができます。人として私たちと同じように洗礼を受けられたイエスだからこそ、その言葉に、行いに、真の希望を見出すことができるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「何もとれませんでした」(1/15)
ルカによる福音書5章1~11節
イエスと出会う前、シモン・ペトロとその仲間たちは「何者でもありません」でした。一漁師でありましたが、それでも特にイエスに出会ったその日は「何もとることもできなかった」無力を痛感させられていた存在でしかありませんでした。だからこそ「力ある存在」であることを示されたイエスを恐れ、おびえたのです。そして自らを神の前における力なき存在、滅ぼされる存在である「罪深きもの」と表明するのです。しかしイエスはそのようなペトロ達に「恐れることはない」と。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と力強く宣言されるのです。イエスが来る前、漁師たちは夜通しかけても魚をとることはできませんでした。しかしイエスがきて、漁師たちにその言葉によって促しを与えると、「網が破れそうになるほどのおびただしい数の魚」がとれました。この出来事は「何者でもない」人間が、「なんの力も持たない」人間が、イエスの支えによって、また、イエスを通して力と勇気が与えられることによって、自らのみではなすことのできないこともできるようにならされることが示されているのです。
この後ペトロ達は多くの間違いを犯しながらも、イエスに付き従い、最後には、多くの人々に立ち上がるための勇気と希望を与える福音を告げ知らせる働きを成し遂げていきます。その働きによって現代においてもこの福音が語られ続けているのです。何者でもなかったペトロ達が、イエスによって知恵と力と勇気を与えられ、人々に希望と勇気を与える働きをなすことができたのです。最初にお話ししましたように、私たちは、この世界において、自らの力のみでは、大きなことをなす、戦争をなくしたり、差別をなくしたり、貧困をなくしたり、人を救ったりということはできません。力なき存在です。スーパーマンでもヒーローでもない、「何者でもない」存在です。しかしそれでも、ペトロ達に対してそうであったように、イエスは、また神はそのような力なき存在である、何者でもない特別ではない存在である私たちをも必要としてくださいます。そして、その福音に語られる「平和」を実現するための働き手としてくださるのです。この働きのために私たちに何ができるのか。それは大きなことではないかもしれません。すぐに広がるものでもないかもしれません。しかしそれでも、小さな希望の光をともす働きであるのです。それをなすための勇気と知恵と力はペトロ達弟子がそうであったように、イエスを通して与えられていくのです。目の前に拡がる現実の困難は、わたしたちではどうしようもない、到底変えることのできないものであるかのように思われます。しかし、それでも、今できることを、あげるべき声を模索していく働きを進めていきたいと願うのです。また、その働きの上に、主の導きと祝福が豊かに与えられますことを祈りたいと思うのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨【労伝day交換講壇礼拝】
「あなたの場所、わたしの場所」(1/22)
ルカによる福音書4章16~30節
私は、労伝デイの交換講壇によって、今回高石教会の説教壇に立たせていただいています。関西労働者伝道委員会の協力牧師という立場ですが、果たして自分がどれだけ釜ヶ崎のために働くことができているかと自問します。しかし、この自問そのものが、すでに自分の生活の場と釜ヶ崎を切り離して考えていることに気づきます。
イエス様を受け入れられなかったナザレの人々も、同じように「自分たち」と「その他の人々」を区別して考えていました。ナザレの人々にとって、「カファルナウム」も「サレプタ」も「シリア」も他所であって、自分たちとは無関係の存在でした。ナザレの人々のこのような考えがよく表れているのが「この人はヨセフの子ではないか」という言葉です。ナザレの人々はイエス様を、イエスその人ではなく、他民族よりも一族と同胞を尊重すべき伝統に立つユダヤ人の一人、すなわち「自分たち」の側と考えていたのです。
「自分たち」と「その他の人々」とを明確に区別するナザレの人々にとって、イザヤ書の言う「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」はその他の人に分類され、自分たちとは関係のない人々として聞こえたに違いありません。「では自分たちには何をしてくれるのか」という思いで人々はイエス様に注目したのです。
イエス様はそのような人々に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。
「その他の人々」の苦しみを「自分たち」が目の当たりにした時、そこに解放が生まれます。何故ならば、その人々を抑圧し、搾取し、差別し、弱く小さい者に追いやっている張本人が、自分たちであるからです。私たちが、他者の苦しみに対して責任を負うことに気づいた時、「自分たち」と「その他の人々」とを隔てていた壁は取り払われ、隣人となるのです。
ナザレの人々はそのようなイエスの言葉を理解しようとせず、「自分たち」の壁に閉じこもり、イエス様を町の外に追い出しました。すなわち、苦しむ人々から目をそらし、責任を負うことを拒否したのです。これは正に、現代の日本の姿そのものです。
今日、私たちはイエス様の朗読されるイザヤ書を通して苦しむ人々の存在と救いを聞きました。あなたの場所、わたしの場所という区別や隔たりを越えて、私たちのこととして釜ヶ崎を憶え共に働くものでありたいと願います。
(岡本拓也記)
主日礼拝説教要旨
「目を向ける場所」(1/29)
ルカによる福音書21章1~6節
イエスは何に目を向けているのか。それは一人の「やもめ」でした。「やもめ」とは自らの夫を亡くした女性を指す言葉です。当時のユダヤにおいてこのやもめや大変に弱くされる立場にありました。社会的地位は低いものとされていました。だからこの献金をする場に多くいた人々の中では誰の注目を浴びるような存在ではありませんでした。しかも、ここにはこのやもめがレプトン銅貨二枚を献金として捧げたと記されています。これは今のお金に換算して2円か20円かといったところでしょうか。決して多い金額であるとは言えません。むしろ他の周りの金持ちたちが入れていた金額からすれば少ないものであったでしょう。その二枚の銅貨を入れる音を周りの人々が聞くことはなかったでしょう。だからこの女性の存在や行動は決して人の目を集めるものではなかったですし、注目に値するものでもなかったのです。しかしイエスはそこにこそ目を注いだ。社会的に弱さを抱える一人の女性。貧しさにあえぎ、その日を生きるのに必死な、誰も目を向けることのない一人の女性に。たった銅貨二枚を捧げたその細い手の動きにイエスは注目したのです。目を向けていったのです。そして語る。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」と。これはもちろん金額の話ではありません。この女性と神との出会いの出来事こそが本質的に意義あるものであるということを示している言葉であるのです。
金持ちたちがたくさんの献金を入れながらも、神を見ることなく、自らの地位や敬虔さを誇示していく。人々はその表面的な面だけを見て、賞賛する。人々は豪華な、綺麗な神殿の外見を見てそれを賞賛しながら自らの民族的素晴らしさを誇り、承認欲求を満たしていく。これらには、本来の献金の場や神殿の本質的な意義が失われてしまっています。そこに本当の意味での神との出会いや神の介在は見いだしうることが出来ないのです。にもかかわらず、多くの人の目を集める、注目する場こそがその人々にとって、そこに真実があるかのように錯覚してしまう。だから人々は律法学者たちをもてはやすし、多くの献金をする金持ちたちを尊敬のまなざしで注目するのです。しかしイエスは言う。「裁きを受ける」と。「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と。そこに神の介在、真実が宿ることはないと語るのです。神の宿る場所、神の介在は、今この時人が目をとめないようなところ、社会の影になるようなところ、注目に値しないと、価値なしと切り捨てられてしまうようなところにこそあるんだと言うことをやもめの献金の出来事は示しているのです。
(髙塚記)