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主日礼拝説教要旨【創立記念礼拝】
「義人は信仰によって生きる」(2/5)​

ローマの信徒への手紙1章16~17節

『正しいものは信仰によって生きる』(ローマ書1章17節)

 義人は信仰によって生きる。今の新共同訳聖書では、「正しい者は信仰によって生きる」となっています。「義人」と「正しい者」は、同じ意味です。それで、今日は「義人は信仰によって生きる」という方の翻訳を使わせていただきます。この文章をパウロが聖書から引用したとき、パウロは、「信仰によって生きる」ということに対して「律法を実行することによって生きる」ということを思いつつ書いていたと思われます。いわゆる十戒を中心とする掟を守ることによって生きる、ということを一方で考えながら「義人は信仰によって生きる」と言った。この「義人は信仰によって生きる」というのは聖書のハバクク書2章4節にあります。この「律法を実行することによって生きる。」という考えは、わたしたちにはきわめてなじみの深いものです。

「いいことをしたら天国に行ける。悪いことをしたら、地獄に行く。」

 ところが、パウロは、「イエス・キリストを信じるだけでよい。」と言ったわけです。ものすごく短く言うと、そういうことです。こういうことをパウロが言うようになったのは、教会を迫害している真っ最中に、突如、そのパウロにイエス・キリストが現れたからです。その時、パウロは、敵意に満ちて、教会を迫害していた。よりによって、そのパウロに神様は、目をつけられていて、復活して活きておられるイエス・キリストをパウロのもとに遣わされた。この出来事が、パウロのその後の人生を決定してしまった。

ですから、パウロにとって、イエス・キリストは決して過去の人ではなかった。今活きておられる方だった。実は、それは私たちにとっても、同じです。イエス・キリストは、今、この瞬間も永遠の命を持って生きておられる。そして、終わりの日に、わたしたちの前に姿をお見せになる。その時こそ、わたしたちにとって、最終的な救いの時となるでしょう。

 神は既にアブラハムにもそのことは約束なさっていた。そしてアブラハムをその約束を信じた。そのことによって、神はアブラハムを義となさった。そのアブラハムとキリストを信じるわたしたちは、基本的に同じだというのです。旧約聖書の人々も、新約聖書の人々も、信仰によって生きていた。わたしたちも同じです。わたしたちもキリストを信じれば、義人です。正しい者です。

                                     (古郝荘八記)

主日礼拝説教要旨
「イエスへの信頼」(2/12)​

ルカによる福音書5章17~26節

今回の聖書の個所であるルカによる福音書5章17節からで語られていく「中風の人をいやす」イエスの姿を記した「治癒奇跡」の物語もまた、この「愛の双方向性」を示していくものの一つであります。ここで登場する主な登場人物としてイエスの他に「中風の人」とその人を運んできた「男たち」が記されていきます。19節にはイエスの話を聞くために、また病を癒やしてもらうために大勢の人がイエスがいる家に集まり、人が通ることが出来ない状況であったことが報告されます。そこに中風の人を癒してもらうために四人の男の人たちは床にのせて連れてくるのですが、人々に阻まれてしまうのです(19節)。ここでこの人たちは諦めるのではなく屋根に上りそれをはがし、イエスのもとに中風の人を吊り降ろす(19節)という驚きの行動に出るのです。教えを聞くために人々が集まるその建物の屋根をはがして無理矢理に病人をイエスのもとまで連れていくこの男の人たちの行動は当時においても、また現代で考えても「非常識」ととられても仕方のないものです。しかし、この行動をみてイエスはそこに「信仰(20節)」を見るのです。この「信仰」、別訳では「信頼」とも訳せる言葉です。「イエスならば必ずこの中風の人を癒してくれる」「前に連れて行けさえすればこの人は救われる」というイエスへの「信頼」をもって突破困難な状況を、しかし越えていくのです。

 こうして人の事情や常識を越え、イエスとの出会いを果たした四人の男たちに対してイエスはどのように評価したか。この行動を見てこの人たちの「信仰」を認められるのです。そして一言、20節「人よ、あなたの罪は赦された」と中風の人に語りかけられます。このイエスの一言はどれだけこの中風の人を慰めたことでしょうか。当時は病気や障がいは自らかあるいは近親者の罪ゆえのものであると信じられておりました。その当時の価値観において、中風、身体麻痺となってしまったこの人は、罪ある存在として周りから見られていたでしょうし、また、働くことが出来ないために社会から必要とされることがないように感じていたであろうと想像されます。ユダヤ教という当時のユダヤ社会における中心的な社会形成思想からはじかれて、生産労働という社会参加が出来ず、社会から疎外されるように、人々から関心を持たれず過ごしていたこの人の孤独はいかばかりであったか。しかしここでイエスは、「あなたの罪は赦された」と語りかけられるのです。病が治るでもなく、何を求めているのか聞くわけでもなく、その一言目に「あなたの罪は赦された」と。この言葉は、中風という病気の原因が「罪」ゆえであったことを認める発言であるとか、イエスから見てその人が「罪人」であったと示しているということを表わすものではありません。宗教的にも社会的にも苦しんだ中風の人に対して「あなたを苦しめるものはもう何もない」と力強く告げる言葉であるのです。「人よ、あなたの罪は赦される」という言葉は短い言葉でありますが、今この時この人が立ち上がり再び社会で歩んでいくために最大で必要な言葉であったのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「あなたがたが与えなさい」(2/19)​

ルカによる福音書9章10~17節

私たちの生きるこの世界、社会には、様々な状況の中で困窮し、日々の生活が安定せず、命を脅かされる状況にある方々が多くいます。しかしその事実を知りながらも、私たちに出来ることは本当に小さなことばかりです。根本的にその状況を改善すること、覆していくことは大変に困難で、不可能なことのように思えてしまいます。この多くの惑う群衆を前にした弟子たちの思いもまた同じものであったことであろうと思います。ではこの物語はただ達成困難なことをただ実行せよとの厳しい教えであるのか。そうではありません。それを示すのが後半の奇跡の出来事なのです。16節から。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」。この奇跡の出来事を前にしたとき私たちがすべきことは、この奇跡を合理的に解釈することではありません。ここで重要であるのは、私たちには、また弟子たちには「不可能である」と思われたことを、イエスが実現なさったと言う点であります。私たちだけでは決してなすことの出来ないことをもイエスはなされる。決して人々を見放すことなく、その関係性を断ち切ること無く、その最後まで共に在ろうとされるイエスの姿が示されていることです。そして、事実それを実行されるイエスの姿が示されていることです。私たちの力だけでは今目の前にある、あるいは今目を向けることが出来ていないような場所で苦しんでいる人々に寄り添い、共に歩み続けることは困難なことに思えます。時にそれは不可能だと思えるほどです。それは私たちの力だけでは「不可能」とも思えることです。しかしイエスは示されました。イエスの救いは、その福音はすべての人に降り注ぐことを。私たちだけでは不可能かも知れない。でも、この5000人給食の奇跡を起こされたイエスによって導かれ、支えられることによって、私たちもまたその業の一端を担うことが出来るのです。教会はこの不可能とも思える神の業を地上において実現するための体としての使命を与えられました。今この時、イエスのもとに集った群衆のように、日々道を求め、助けを求めて苦しむ人々と共にあること、目を背けず、向き合おうとすることを促しているのです。そしてそれをただ促すだけでなく、この奇跡を起こされるイエスの力が私たちを支えているということ、その励ましも同時に語られるのです。私たちはただ弱い存在というのではない。力ある存在に支えられ、導かれる存在である。そのことに大いに勇気を与えられていくのです。イエスに従う者として今私たちが歩むべき、目を注ぐべき道を模索していきたいと願うのです。そしてその道を歩むとき私たちの側に、また苦しむ人々の側にいつもイエスがいてくださるということに勇気を与えられて、注がれる希望を携えて、この道を歩んで行きたいと思うのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「主を拠り所として」(2/26)​

ローマの信徒への手紙10章5~13節

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。ここで語られている「御言葉」こそがキリスト・イエスであり、連れてくるまでもなく、キリストはご自身が私たちのもと、そのそばに来られたとのその福音を証ししていくのです。「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」であると語られるように、このキリストご自身が私たちのもとに来られ、その身に苦難と十字架上での死を受けられたことによって、人間と神との間の仲保者としての働きをなし、人間を神の前において「義とされる」存在に変えられたという大いなる恵みを証ししていくのです。このキリストによって神の前に「義とされる」恵みというのは、全くもって人の力によるものではなく、その行い如何で変わる事柄でもありません。ただ人は、その恵みを受ける存在であるのです。私たちが何をしたから、どれだけ善いことを行ったからというのとは全くの無関係に与えられる恵みであるのです。また、キリストが受けられた苦難とは、人がこのようにして自らの罪に対して無力であるが故に、受けなければならなかった、罪の贖いのための苦難であるのです。全くの義である神であったはずのキリストがこの地上において、私たちと同じ人となり、その身にこの苦難を受けることによって、私たちの罪をも負い、あがなってくださったのです。このキリストの御業があるからこそ、というより、この御業によってでしか私たち弱さを持った人間は神に「義」とされることはないのです。この8節の「あなたの口に」とは、キリストが自らの唯一の救いの道であることを証しする告白であり、また、「あなたの心に」はキリストによって与えられる信仰を示しています。このことが示すのは、救いの恵みとは、人間がどうこうすることによって、なにかなすことによって与えられる、手に入れられるものではなく、現に今ここに、主自らが歩み寄られてあるのだと言うことを続けて証ししていくものであります。そして10節でパウロは「人は心で信じて義とされて、口で公に言い表して救われる」と、この福音を信じ、それを告白することによって、救われるのだという決定的な宣言をします。私たちは、自らの力においては、神の備えられた道を正しくまっすぐ歩むことが出来ないそんな弱さを持っております。それでいて、時に神を忘れ、キリストの言葉から離れ、自分一人で生きていけるような思いにも駆られてしまう傲慢さすらも持っております。しかしパウロは、そんな私たちの弱さに対して、警告をしつつも、私たちが生きるための道をその言葉によって証ししてくれています。それはただ「主の名を呼び求める」ことであると。主のみを自らの救いの道のための頼りとして信じ、呼び求めていくことが大切であると勧めているのです。しかもこれは一度きりのことではありません。私たちは日々何度も間違えてその歩みを進めています。しかしそんな私たちに対して、キリストは自ら歩み寄られて、私たちのそばに来て、その言葉を語ってくださいます。それは主日の礼拝の中で、祈りの中で、あるいは目の前の出来事の中で、何度も思い起こす時が与えられるのです。そのたびに私たちは正しい道に引き戻されていくのであります。そのたびに、私たちは、告白していくのです。キリストによって生かされるこの恵みへの感謝、救いの道への唯一の依るべき存在であるキリストを信じる思い。呼び求める言葉。それらを祈りによって、礼拝によって、証しし告白していくのです。

                                       (髙塚記)

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