主日礼拝説教要旨
「罪を知る」(11/5)
ローマの信徒への手紙7章7~13節
人はそのはじめの歩みにおいて、神から離れるという「罪」を犯しました。そしてそれはその後もずっと人の根源にある弱さとなりました。律法を守れない数だけ人が罪深いという訳ではないのです。律法をこれだけ守れていないから罪が大きいとか、律法を多く守っているから罪が軽いとかそういう次元の話ではありません。人は等しく罪を持ち、それから自らの力のみでは逃れることが出来ないと言うことが明らかにされているのです。だから人は他者に対して、信仰が浅いとか、薄いとか、罪深いから悔い改めろだとか言うことの出来ない存在であるのです。神の前に置いてはただ等しく「罪人」であるという事実がここで告げられているのです。では、私たちはこの「罪」から逃れることが出来ない状態を知り、ただ絶望するだけなのか。律法は、また聖書は私たちを逃れようのない「罪人」であるという現実を突きつけるだけなのでしょうか。決してそうではありません。
私たちは自らの力のみでは、この「罪」の状態、神から離れてしまう状態から脱することは出来ません。大変に難しいことです。それは旧約聖書に描かれる人間の歴史を見ても明らかなことです。そして今を生きる人の姿からもわかります。そんな私たちに、それでもなお道はあると言うことを示しているのが新約に語られる福音であるのです。それこそがキリストの姿です。間違いを犯すことなくその生涯を歩み抜かれ、その最期には神の道を正しく生きる事が出来ない私たちの代わりに、罪の罰を背負われ、受け入れられて、十字架で亡くなられたこのキリストの生涯にこそ私たちの希望があるのです。神はこのキリストによって私たちに赦しを与えられ、罪を内在するままでその前に立つことが出来るようにしてくださいました。ここに私たちの生きる希望があるのです。旧約聖書から続き、律法によって私たちがどうしようもなく罪から逃れることが出来ない現実知らされる。「罪を知る」という経験をさせられる。しかしそれは絶望の出来事ではありません。私たちに与えられた大きな喜びである赦しがその「罪を知る」という後にある事を理解するための出来事であるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「命のぬくもり」(11/12)
ルカによる福音書24章28~32節
人のその命というのは、その身に宿るときには一つであるのかも知れない。でも生涯を通して歩む中で、様々な人と出会い、関わり、交わりを深めていく中で、その命の灯火を人に分けていくのではないだろうかと。その人の生涯の歩みによって分け与えられるその命の灯火、そのぬくもりは関わったすべての人の心に刻まれ灯されていくんだと思うのです。亡くなった親しかったあの人を思い出すとき、大切だったあの人を思い出すとき、私たちの心は死によって断絶された関係の冷たさに満たされるだけでしょうか。決してそうではありません。その人の生涯において遺されたその命のぬくもりを確かに感じることが出来るはずです。その人のことを思い出すときに心に懐かしさと共に温かなぬくもりを感じます。今もなおその命は私たちの命の灯火と共になって、繋がりあっていることを感じることが出来るのです。弟子たちの心の内に与えられたイエスの愛が、イエスの死後も消えることなく燃え続けていたように、人の命のぬくもりは関わったすべての人の内に消えることなく残り続け、そしてそれは次の人へと繋ぎ続けられていくのだと思うのです。人の命はその死を迎えたときに消えてなくなるのではない。その命のぬくもりは失われて冷たくなってしまうのではない。関わったすべての人の心の内に分け与えられ灯され続け、時に歩み続けるためのエネルギーとなり、先に進むための道しるべとなる光となっていくのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「命を与える」(11/19)
ヨハネによる福音書6章27~35節
35節をご覧下さい。「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」。ここで言われている「いのちのパン」。これはキリストが自らの命を犠牲として捧げられる贖罪を示すとともに、神から与えられていく多くの言葉、福音を示しているのです。イエスが語っても、人々はその本質を知ることはなくただ、自らの願望、この世的な希望を叶えてもらうことを求め続けます。目の前にある現実にとらわれて、イエスの示す、人々共に生き、神と共に生きる道を進もうとしません。すべての人に与えられる大いなる恵み、真の命の、永遠につながる道ではなく、自分の願望、現在的な、この世的な希望にとらわれてしまっているのです。しかしそのとらわれた願望はたとえ一時的にかなえられて満たされたとしてもそれが永遠に続くものではありません。それはイエスが言うところの「朽ちる食べ物」であり、また次の欲求を願望を持って求め続けてしまうのです。しかしイエスの示す道はそうではありません。物質的な、一時的な満たしではなく朽ちることのない、かけることのない真の満たし、霊的な充足を与えるものであるのです。イエスはその生涯において、苦しむ人、悲しむ人、孤独の人、また、罪あるすべての人々のために、生き、歩まれました。そしてその歩みにおいて、見返りを求めず、それどころか、与えられたのは、受難と十字架による死でした。その死もまた、私たち神の前に正しく生きることが出来ない人間のための死です。イエスは、重要な事柄の前には必ず祈りをもって神と向き合われる時を持たれました。様々な苦悩、不安、葛藤。そのすべてを神に委ね、そして、徹底した他者のための歩みを進められたのです。そのような生涯によって開かれたのは、物質的、刹那的欲望から目を移す事ができないような弱さを持った人が、そのままで神の前に立つことが赦されるための道です。その道こそが、イエスが示される「永遠の命につながる道」です。
(髙塚記)
収穫感謝日合同礼拝説教要旨
「必要な糧を願う」(11/26)
マタイによる福音書6章9~13節
主の祈りはとても簡潔な内容でなされております。そしてその内容は、決して高尚なものではなく、しかし、この地上で神に従い歩もうとする者にとっての必要を満たしてもらうことを願う祈りとなっております。第一の願いとして神の御名があがめられ、その御心が地上において行われる事が願われます。「み国」とは、「神の支配」を示す言葉であります。神の手が及ぶところとの理解をしてもいいかもしれません。神への呼び声が聞き届けられ、その助けの手がのばされることを願っていくのです。そして、この祈りの中でも次の願いとして挙げられる11節の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」との言葉はまさに、日々の生活に直結する願いであります。「糧」と訳される「アルトン」というギリシア語は元来「パン」という意味を持っております。しかしこの「アルトン」は聖書の中では食物としての「パン」を指す以外に、人が生きるうえで必要な恵み、神の支えや守り、導きなども含めて用いられる単語です。この祈りは、私たちが日々生きるための必要が神によって備えられるという信頼を表す言葉なのです。そしてその信頼を言葉にするとき、この祈りは願いであると同時に、備えてくださる神を覚え、たたえ感謝する言葉となるのです。さこのように簡潔な言葉で、短くまとめられた祈りには、私たちの存在を、またその歩みを神に委ねていく、そんな神への信頼が表されているのです。
飽食の時代などと言われ、有り余る食べ物が当たり前のように感じてしまう現在でありますが、しかしそれは、決して当たり前ではありません。それが当たり前でない状況の中で生きる人々は今この時にも多くいます。更には、そのように感じてしまう私たちも、明日それを同じように「当たり前」の事として享受することが出来るとは限らないということを、今この世界で争いが拡がり、またこれまでたびたび起きている災害・震災の出来事から感じさせられます。そのような経験がありながらも、そのような思いを感じながらも、しかしそれを私たちはふとした瞬間忘れ、今与えられている恵みを、「普通」だと、「当たり前」だと思ってしまう、そんな弱さを、破れを持っております。だからこそ、毎週の礼拝の時、この主の教えられた祈りを、「主の祈り」を繰り返し祈ることによって、繰り返し気づきを与えられていくのであります。神に呼びかけ、その日、その日生きるために必要な糧を願い祈り、そして今日もまた生かされていることに感謝していく。その思いを週の初めの日曜、この礼拝の時に繰り返し与えられていくのであります。さらにこの感謝の思いが与えられた時、その応答として、その与えられた恵みを分かち合う思いも共に与えられるのではないでしょうか。決して当たり前ではない、決して普通ではない、今あるこの恵みを多くの人と分かち合うことが出来るようにとの、そんな思いをもって、また、神との対話、祈りが与えられることかと思います。どうか、日々生きるのに必要なものを与えられることに感謝する気持ちを大切にしつつ、またその恵みを分かち合う思いをもって歩みを進めていきたいと願います。
(髙塚記)