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創立記念礼拝説教要旨
「共に生きる」(2/)​

ローマの信徒への手紙12章15

 今回の15節の言葉。「喜ぶ人共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。短い言葉ながら、イエスの歩みがどのようなものであったのかを端的に表現する言葉であろうと思います。生前のイエスの姿を、その言葉や行いを知るからこそ出てくる言葉であります。イエスが様々な人々、それも職業、出身、さらには社会的地位を問わず、本当に様々な背景を持つ人々と共に歩まれました。時に差別される人の苦しい現実を共に悲しみ、怒りを燃やし、時にさげすまれる人々と食卓を共にして笑いあう。楽しみも喜びも、痛みも悲しみも怒りも。そのすべてをイエスは共に担い、共感し、自らのものとして共有しました。そのイエスの姿勢は生涯一貫してぶれることはありませんでした。そしてその立ち位置はいつも、社会において、世界において弱くされる人、抑圧される人、疎外される人々とともにありました。「共に喜び共に泣く」とはその人の人生、歩む道を完全に共有することを示します。まさにイエスの生涯を示す言葉です。それをパウロは「キリスト者の規範的態度」として示したのです。イエスに倣う道を歩まなければならないと。そしてそれは、「人と共に生きること」であるとイエスの生涯を通して語るのです。

 「共に生きる」とはただ一緒にいるというのではありません。ただ友達でいるとか顔見知りであるとか挨拶を交わすとかそのレベルの話ではないのです。「共に生きる」とはその人の喜びも楽しみも悲しみも怒りも苦しみも、そのすべてを共有し生きるということを指すのです。イエスはその生涯においてそのようにして多くの人々と「共に生きる」道を歩まれました。そして十字架によって亡くなられ、復活し、天に昇られた今においては、目には見えずとも、私たちの苦しみ、悲しみ、試練の時にいつも共にいて支えてくださっていると聖書は語ります。孤独を感じるときに、立ち上がれないようなときに、イエスはどのような時も共にいてその言葉を語り、手を伸ばしてくださっていると私たちは信じます。イエスの「すべての人と共に生きる」歩みは今もなお続いているのです。その意味でパウロが言ったようにキリストが私たちの内に生きているのです。そして、それを受けるわたしたちもまたイエスがそうなされたように、それに倣う道を進むようにと語るのです。

​(髙塚記)

創立記念礼拝説教要旨
「パンと魚と少年」(2/11)​

ヨハネによる福音書6章1~15

 イエスは群衆を見て、弟子の一人であるフィリポに次のように語ります。5節「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」。弟子たちの答えは、「もしたくさんのお金があったとしても足りないだろうし、実際に少しの食べ物があるがそれは何の役にも立たない」というものでした。だからイエスの言うことを自分たちが実現することは不可能だと弟子たちは決めつけて、諦めてしまう姿勢から語られています。この場においてその課題に対して自分たちは無力で、近くにいた少年も「大麦のパン」も価値は見いだされないと弟子たちは判断し、切り捨てたのです。

 しかしイエスは違いました。この場において、それどころか社会において力を持たず、一人の人格として価値を認められない「少年」に目を向け、貧しさの象徴とも言える「大麦のパン」に注目するのです。それらは弟子たちによって価値なしと切り捨てられたものです。この場において無力だと判断されたものです。しかしイエスの目にはそうはうつらなかった。その少年とその手に持つ「大麦のパンと魚」を見て、10節で「人々を座らせなさい」と語りました。この「座らせなさい」と言う言葉は単に「着席する」という意味ではありません。「食事をするための体制にさせなさい」という意味なのです。誰もが、価値を見いださず、切り捨てようとした存在をイエスはこの場において大いに用いられる決断をされるのです。そしてその結果5000人もの人が十分に食べて満足し、さらに残ったパンくずで12のかごがいっぱいになったと語られています。しかもそれが、特別な食べ物、特別な存在からもたらされたのではなく、人々が価値を見いだすことなく、何の役にも立たないと切り捨ててしまったところからもたらされたということはとても重要です。それは、人々にうち捨てられ、十字架上で悲惨な死を迎えられたイエスこそが私たちの救いになられたと言うことを示すメッセージであります。そしてそれだけではありません。これは、救いという大いなる御業も、平和の実現も無力だと思われる存在が、価値なきものと捨てられてしまうようなものが、神によって用いられることによってなされていくと言うことを示しているのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「言葉に生きる」(2/18)​

マタイによる福音書4章1~11

 今回聖書日課によって選ばれました聖書の箇所、マタイによる福音書4章1節からのエピソードは、イエスが宣教活動をはじめるにあたって受けられた「荒れ野の誘惑」の出来事です。この試練にあたってイエスは「四十日間、昼も夜も断食した」と2節に記されています。そんなことをすれば当然に空腹になりますし、身体はふらふらで心も弱くなります。そんな中で、荒れ野という厳しい環境に身を置かれたのです。そこに誘惑するものとして「悪魔」がイエスに近づくのです。この「悪魔」とは人の弱さにつけ込み、甘い言葉で人を間違った道に、神から離れるような道に進ませようとする存在です。そのような存在にふさわしくイエスに近づいた悪魔はまず空腹であるイエスに対して3節で次のように言います。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。イエスが特別な存在だから、そして言葉によって世界を創造した神の子であるならばそれくらいは簡単だろうと言うのです。そんなにつらいなら特別な力を持つ言葉を自分のために使っても良いだろうと誘惑するのです。しかしそれに対してイエスは4節で反論します。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。この反論は、パンという目の前の物質的な欲求を満たすために、自分勝手に利用するのではなく、神から与えられる恵みにこそ目を向けるべきである事を示します。そのような反論を受けた悪魔は次に聖書の言葉を用いて、「神の子であることを証明してみろ」と言います。それは聖書の言葉、神の言葉を自らを守るために、都合の良いように解釈して利用する在り方をさせようとする誘惑です。聖書の言葉であるから、そう書いてあるから間違っていないと、それだったらそうしても良いのかなと聖書の言葉を理由にして楽な道へ逃れようとさせる言葉です。この悪魔の誘惑の仕方は、私たちも日々問われていくものです。自分の都合の良いように聖書の言葉を利用しようとしてしまう。勝手な解釈をしてしまいそうになる。そんな弱さに対して、イエスは同じように聖書を引用しながらも、自らを律する道を選ばれます。この悪魔の誘惑、自らの弱さと向き合われるイエスの姿勢から真に「神の言葉に生きる」姿勢を思わされます。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「御業が現れるため」(2/25)​

ヨハネによる福音書9章1~12

​ 今回の箇所、ヨハネによる福音書9章1節からのエピソードでもまたこの「応報思想」がテーマとして取り上げられます。1~2節の言葉を見てみます。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか』」。この弟子たちの問いには先の応報思想が根強く影響を与えている事がわかります。障がいを持っている事の理由、因果を「罪」に落とし込もうとするものです。しかもこの問いには誰かが「罪を犯した」というのは確定事項のように語られています。「誰が罪を犯したからか」という問いには、「障がい」という苦しみが取り除かれる、それを願う思いが見えることはなく、「報い」であるから仕方の無いことだという決めつけが見受けられます。このような弟子たちの問いにイエスは真っ向から「否」を突きつけていくのです。3節「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。それまでのユダヤに根強くあった「応報思想」に真っ向から立ち向かう宣言をするのです。それまでのユダヤにおいて、特にファリサイ派や律法学者の主張においては、どれだけ律法を守ることが出来ているかが重要でした。そしてそれが絶対の基準でした。自分たちの解釈において定められた掟の枠内からはみ出す存在は「罪人」であると断じました。この基準が生み出されたことによって、「罪」の大小が共に生み出されたのです。生み出されたといってもこれは人間の勝手な評価基準です。神が定めたものでもないにもかかわらず、人が他者にたいして「あなたは罪深い」「信仰が足りない」「だからそんな目に遭うんだ」と断罪するような言葉を語るのです。そんな社会にあってイエスは真っ向から「それはおかしい」というのです。人の苦しみに「罪」という理由をつけて、それは相応の結果、報いだから仕方が無い、そうやって突き放すことをイエスは認めないのです。

どんな人物でも何かしらのかけを持っている。弱さを持っている。つらい時、苦しい時がありうずくまってしまうことがある。これらは決して責められるものではなく、否定されるものでもありません。誰もが持っているものです。この「弱さ」をイエスは「神の業が現れるため」のものであると語るのです。その弱さは私たちの本質的な「欠け」であり、「穴」でありますが、そこにこそイエスは「神の愛」が注がれ、満たされるというのです。私たちは時に人の弱さを非難し責め立ててしまいます。自らの弱さも否定して押し隠そうとします。しかしその弱さがあるからこそ、人は助けあい、大切に思い合うことが出来ます。その関係性にこそ「神の業」が実現するのです。イエスは他者を省みない、「応報思想」が拡がる中に、この弱さにこそ光る希望を語られるのです。

​(髙塚記)

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