主日礼拝説教要旨
「氷山の一角」(3/3)
ヨハネによる福音書6章60~71節
イエスの言葉を受けて多くの弟子たちが離れていき、また十二弟子の中にも裏切る者が出るような状況から、神と向き合う時の人の弱さが示されます。人は神の真意を理解せず、自分の価値観において神の底を見定めようとします。また自らの有り様すらも表面的にしか理解しません。というより自らの有り様は表面的につくろうことでそれで良いと思い込んでしまうのです。律法を守り祈りに熱心で人前で大胆に献金する。そういった表面的な信仰において「敬虔さ」を示すことで満足しようとするのです。神を理解せず、自らの内にある弱さにも向き合わない。イエスが語る教えにつまずく人々の姿からそのような人間の弱さを思わされます。それは私たちもまた同様です。時に目に見える部分に惑わされ、それが、それだけが真実であるかのように思い込む。時に自らの事でさえ、外面を取り繕うことで本質が見えなくなってしまう。他者と全身を持って、自らの内側も他者の内側もさらしてぶつけて関わることは大変な困難を伴うものです。特に弱さをさらけ出すこと、破れをさらけ出すことは苦しいものです。受け入れてもらうことも受け入れることも出来るのか不安になります。神を前にしても同様です。自らの弱さを神の前にあって打ち明けること、また神のすべてを理解できず、その御旨を知る事叶わず、その不安から信仰が揺らぐような心すらも打ち明ける。それは大変な恐れを伴うことです。しかしそうすることによって表面的な関わりから、姿勢から脱却し、本質的な部分に触れる、存在すべてをかけた関わりに生きる事ができるのです。63節の言葉。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」とイエスは言われました。この「肉」とは私たちの表面的な部分を指します。清めて着飾り、汚い部分を押し隠した姿です。それに対して「霊」とは私たちの存在そのものです。「霊」を持って、存在そのものを持って神に向き合い、人に向き合う在り方をイエスは示されているのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「今できること」(3/10)
ヨハネによる福音書12章1~8節
ここで語られているマリアの行為は一般的に見れば、またユダヤ教の伝統の中においてみれば非常識であったのかもしれません。しかしその行為に込められたマリアの思いは、イエスに対する深い「愛」という至ってシンプルなものです。ただ今この時、この愛するイエスに自らの思いを、感謝を尊敬を示す方法はないだろうかと、考えて決断して行ったことです。その行動にそれが周りにどう思われる行動であるかなど考えられてはいなかったでしょう。ただイエスに愛を示したい。その思いに駆られた大胆な行動だったのです。このマリアの「愛の主体」となった行動を神は用いられたのです。イエスはこのベタニアでの食事の時、その心に不安と恐れを抱えていました。そして過酷な福音宣教の歩みの佳境に至っていました。その足は傷つき、心は周囲の無理解による孤独にさいなまれ、それでも奮い立たされていました。そんな中で、足の汚れを拭うために、大切な香油を塗って、自らの髪で拭ってくれたマリアの行為はそのイエスの心にある恐れや不安を、また孤独感を一緒に拭うような慰めがあったのだろうと思わされます。家いっぱいに拡がった香油の香りはイエスの心を癒やす香りであっただろうと思わされるのです。そしてこの行為はそれだけの意味に留まりません。「わたしの葬りの日のために」とイエスが語っています。これはイエスが十字架上でなくなり葬られる時、安息日の直前であったため本来行われるべきであった遺体に香油を塗るなどの処理が行われる事なく雑に葬られた事につながります。受難の道に進もうとされるイエスの歩みの備えとしてこの香油を塗るという行為が位置づけられたのです。これを行ったマリア自身にはそこまでの意図はなかったでしょうが、イエスを思う「愛の主体」となった行動は神によって「定められた時」の行いとして用いられたのです。イエスの歩みを支え、その業の備えとされていく。他者に対する「愛」がその中心に置かれ、その時にあって自らに出来る精一杯の働きをなしたことによって「必要を満たす行い」とされたのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「多くの実を結ぶ」(3/17)
ヨハネによる福音書12章20~26節
イエスはその命を、生涯人のために用いられました。弱さを抱える人、苦しみを強いられる人。悲しみに暮れる人、不安・不満にさいなまれる人。罪にとらわれる人。そんな多くの人々のために、その生涯という命を用いられました。この生涯の中で、一人でも多くの人が、神が共にいるという事、神は見捨てられないという事、神が助けてくれるということを知るために、その神の姿をイエス自身が体現されました。そして、その神を人々が信じ、頼ることが出来るよう、多くの言葉を持って語られました。「恐れることはない」「安心しなさい」「立って歩みなさい」。その言葉で、人々を励まし、神の道を歩むことが出来るように導かれたのです。その生涯を持って、人々を導き、最後には、自らの死を持って、大きな愛で人々を包んでいく。そのようなイエスの在り方がここで示されているのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」、イエスがこの世に留まれば、その周りにいる人々の事は導くことが出来たかも知れない。「だが、死ねば、多くの実を結ぶ」、イエスが十字架での死を遂げていくことによって、人々の罪があがなわれ、また、イエス自身が神と人との間の架け橋となられる。イエスの受難と死は、そんな大きな恵みを与える愛の業であるのです。そしてその受難と死は、私たちの罪ゆえにイエスに与えられているという事もここで忘れてはなりません。私たちは、その弱さゆえに、まっすぐと自分たちの力のみでは神の道を歩むことはできません。神の前に正しくあるということはできません。欠けのある、破れのある、そんな不完全な存在であります。そんな罪を持った存在であります。その罪がある私たちが、神とつながって歩みを進めることが出来るのは、イエスがその間に立って、神と人、神と私たちをつなげてくださるからであります。そしてそれは、イエスの十字架上の死とその後の復活によってなされたことであります。今私たちに与えられている神の豊かな愛や恵みは、イエスの死という出来事があったからこそ与えられているものであるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「真理とは何か」(3/24)
ヨハネによる福音書18章28~38節
この受難節の時、あらためてヨハネによる福音書の始まりの言葉を思い起こすのです。1章4~5節。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。ここに語られる言葉のとおり、人々はイエスを「理解すること無く」、「拒絶」するのです。エルサレムに入城したイエスを迎えた民衆の賛美の声は一見イエスを受け入れ、歓迎しているようにも思われます。しかしそれは自らの利益、都合の良い勝手な理解においてイエスを見ているに過ぎないのです。イエスの本質を、その教えを理解しているのではありません。それどころか自分の尺度にイエスを当てはめて、本当のところを、語られる教えを理解しようとする事さえできなくなってしまっているのです。目の前にイエスはいるにもかかわらず、人々はまったくイエスを見ていない。そうあってほしいという願いによって心と目が閉ざされてしまっています。イエスを尋問したピラトは嘲笑であったかも知れないし、言い捨てただけかも知れませんが、「真理とは何か」とこぼしました。真理を知る事は神を知ることであり、生きるための道を知る事です。しかしそれは根源的な問いであるのと同時に人にはその力のみでは到底到達することの出来ない問いであるのです。だからその問いを目の前にしたとき、反射的に「理解できない」と「拒絶」してしまうのです。あるいは自らが理解できるレベルにそれを引きずり下ろそうとする。あるいは自分勝手な理解に当てはめてねじ曲げてしまう。結局「真理」を知るための道を進んでいくことはそうして困難になってしまうのです。
私たちもまた例外ではなく、真理の入り口であるイエスを、また神をすべて理解することが出来ない弱さを持っています。拒絶してしまいそうになる弱さを持っています。しかし私たちにはこうして聖書の言葉が与えられ、気づきの機会が与えられているのです。自らの弱さに向き合う時が与えられているのです。特に今この受難節。イエスが私たちのこのような弱さを担ってくださった、そのために苦しみを受けられたことを覚える時です。イエスを拒絶し理解しようとしなかった、出来なかった人々の姿から、私たち自身の弱さを知り、無力を知り、神に立ち帰る思いを新たにしたいと思うのです。正しき道に引き戻してくださるイエスの言葉、道を示して導いてくれる聖霊の力、弱さやかけがあっても許してくださる神の恵み。それらを今あらためて知り、覚えて、感謝を持って受け入れていきたいと思うのです。そして喜びのイースターを迎えていきたいと思います。
(髙塚記)
イースター礼拝説教要旨
「信じる者に」(3/31)
ヨハネによる福音書20章24~29節
復活のイエスとの出会いによって信じる者とされていく弟子たちの物語は、見ることでしか信じることの出来なかった人間の弱さに対する戒めが語られて行くのと同時に、それでもなお、イエスによって信じる者とされ、その与えられた霊によって生きた言葉を語ることを許された弟子たちの姿が示されていくのです。そして、その言葉によって、私たちは、イエスが見える形で現れることはなくとも、信じる者とされていくことが許されているということを確信することが出来るのです。また、イエスは「見ないで信じる人は、幸いである」と語るのと同時に、トマスに対して「信じないものではなく、信じる者になりなさい」と語られます。見なければ信じることが出来なかった弱さがあることを指摘しつつも、そこで切り捨てるのではなく、信じる者となることが出来るように招きを続け、その道を示してくださるのです。
現代を生きる私たちもまた、直接にイエスを見ることは出来ません。また聖書に記される物語は遠い昔の出来事であり、遠い場所での出来事でもあります。なかなか実感を持ってそれらを受け入れることが難しいかもしれません。しかし、トマスにそうされたように、弟子たちにそうされたように、イエスは、神は、私たちも信じる者となることが出来るように、多くの場面で気づきを与え、道を備えてくださっています。それは毎週の礼拝の中で、日々の祈りの中で、ふとした日常の中での出来事で。繰り返し、生きた言葉を受ける機会を与えてくださっているのです。
私たちは目に見えるもの、形あるものに頼る、それを信用する生き方をこの社会においてしてきております。そのことによって、目で見ることが出来ないこと、確かめることが出来ないことを素直に信じることが出来なくなってしまっております。それは私たちの弱さであります。そんな私たちの弱さをこの物語は気付かせてくれて、また、なおそれでもトマスを招いたようにわたしたちも招いてくださるイエスのその愛をも伝えてくれます。私たちはその愛を受け、今この時、見ることは出来なくとも信じる者としての歩みを進めてまいりたいと願うのです。
(髙塚記)