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主日礼拝説教要旨
「心を備える」(12/7)​

マルコによる福音書1章1~6

 私たちは普段、いろんな場面で自らのことを取り繕って、光の部分を見せようとしますし、自らもそこにいようとします。そしてそのような綺麗な部分ばかりに目を注ごうとするのもまた私たちの姿ではないでしょうか。時に神に対してもそのような姿勢であるときもあるかと思います。自分は正しく生きている、間違えない、信仰深いとアピールするようにしてしまう。自分の弱さを奥底に隠して、本当はつらいことがあるのに、悲しいことがあるのにそれを押し殺して取り繕ってしまうなんてこともあるかも知れません。それは特にこのクリスマスというキリストの誕生を覚える喜びの時を迎えようとするこの時、顕著に表われるようにも思われます。クリスマス特有の街中の楽しい雰囲気。綺麗なイルミネーションに飾り付け。それらを見るだけでも心が沸き立つようです。クリスマスが近づいているなとうれしくなります。でも、このわくわく、あるいはそわそわしているだけの状態でクリスマスを迎えたとして、本当の意味でクリスマスの、救い主が誕生されたという喜びを知ることは出来るのでしょうか。わくわくそわそわしているときは、私たちは多分「光の中にいる」のではないでしょうか。自分の奥底の「影の部分」。あるいは社会の中でも人から目を注がれないような「影の部分」。それらに目を向けることなく、光があふれる中にあって、本当の希望を見いだすことが出来るのか。キリストはなぜ馬小屋という場所で、馬などの家畜の餌箱である飼い葉桶をすら寝床にして、粗末な布でくるまれてこの地上にお生まれになったのか。なぜその誕生が最初に知らされたのが、寒い夜に、野獣の襲撃を恐れながらも羊を守っていた羊飼いたちだったのか。人が目を向けることがないような場所で起きた、影の中の出来事とも思えるこのクリスマスの出来事の意味を本当の意味で知るためにも、私たちは「光の中」にいるだけではいけない。先駆者として現れ、語ったヨハネの言葉にあるように「悔い改め」があってこそ、クリスマスの本当の喜びを知ることが出来るのではないかと思うのです。自らの弱さ、罪深さ、暗い部分。あるいは悲しいことや苦しいことつらいことなどもすべて取り繕うことなく、衣を引き裂き粗布をまとい灰をかぶって身を地面に投げるような姿で、影の中に身を置くことによってはじめて、本当の光、本当の希望が見えてくるのではないでしょうか。「影の中にいるからこそ見える光」がそこにはあるのではないでしょうか。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「変わらないもの」(12/14)​

イザヤ書40章8

 「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉は永遠に立つ。」このイザヤ書の言葉は、アドベントの時期に心を揺さぶります。世界は常に変化し、社会も人間関係も健康も財産も「草のように枯れ、花のようにしぼむ」ものです。しかし聖書は「変わらないもの」として神の言葉を示します。ヘブライ語の「ダーバール」は音声以上に「出来事」を意味し、創世記で「光あれ」と語られた時、それは現実を生み出しました。神の言葉は必ず実現するゆえ、イスラエルの人々は困難の中でも信頼を置き続けました。バビロン捕囚で故郷も神殿も失った彼らは絶望的状況にあっても「主の慈しみはとこしえに絶えることがない」と歌い、希望を繋ぎました。約70年もの間、世代を超えてこの希望を語り続けた人々がいたことも忘れてはなりません。「草は枯れ、花はしぼむ」という人間の弱さの中で、希望を語り継いだ営みが普遍の希望となったのです。草や花が種や根で命を繋ぐように、弱い人間の業によっても希望は世代を超えて光となり続けます。

 精神科医フランクルの『夜と霧』には、強制収容所で未来への希望を持ち続けた人々が生き延びた証言が記されています。希望を失った人は崩れましたが、意味を見いだした人は耐えました。祈りを続けた人々もいましたが、「また窓辺でコーヒーを飲む」「原稿を完成させる」といった小さな希望も命を繋ぐ光となりました。それは常に「誰かのための意味」であり、他者と共に生きる力を与えました。バビロン捕囚の民も同じく、絶望の中で「神の言葉は必ず実現する」という希望を語り行動し続けました。

 現代社会も技術の進歩や価値観の多様化、災害や病の不安に揺れています。移ろいやすいものに頼れば心は不安定ですが、「神の言葉は永遠に立つ」との信仰に立てば揺るがない希望を持てます。アドベントは救い主を待ち望む時であり、馬小屋に生まれた救い主の誕生は神の言葉が必ず成就する証です。だからこそ私たちは「変わらないもの」に心を向け直し、社会の変化に翻弄されず希望を見いだすのです。弱く儚い存在であっても、この希望に支えられ絶望せず歩み続けられます。変わらない希望を語り継ぎ、揺らぐ世界の中で救い主を待ち望む喜びをもって歩み、クリスマスを迎える備えを整えていきたいのです。

(髙塚記)

クリスマス礼拝説教要旨
「光を放て」(12/21)​

イザヤ書60章1~2

 1節冒頭でなされる「起きよ、光を放て」との宣言。この「光」とはまさに神の在り方、神の救いを示す言葉でありますが、それを放つというのはどういうことなのか、それが続く言葉によって明かされていきます。「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と語られるように、主の救いがそこにあることを示していくのです。まず、この救いを示す、神の存在を示す「光」は、わたしたちの上に昇り、輝いていることが示されております。現状における絶望的な状況、また、希望を持てない自らの弱さを持つ心。それでもなお、神の光は自らの上に輝き、そして、照らすことによって、現状からの救いが約束されていくのです。そしてその光を受け、さらに、その光を広げていくことが先の宣言とあわせて語られていくのです。この宣言は、主の救いを約束するだけでなく、「救いの主を信じて、立ち上がってまっすぐ進みなさい」との力強い励ましの宣言であるのです。

 弱さの中にあって、挫折してしまう事、うずくまってしまう事、道を見失ってしまうことはありますが、それでも、神の希望の光がそんなうつむく私たちを照らしているということをこの聖書の言葉は示してくれています。「決して閉ざされてはいない」「希望はある」「道はある」と語り、励ましているのです。わたしたちはその光を受けて、自らの暗闇に閉ざされそうな心が照らされて、温められて、顔をあげまた立ち上がっていくことが出来るのです。この希望の光、救いの証明として、神はその独り子であるイエスをこの地上に送ってくださいました。イエスはその生涯において、貧しさの中で、差別のなかで、苦しみの中で、暗闇に閉ざされている人々のそばへと自ら足を運ばれました。そしてその一人ひとりに語り掛け、ふれあい、時には笑い、時には泣いて、「あなたは一人ではない」「神は共にいてあなたの進む道は照らされている」と励ましてくださいました。私たちは、そのイエスの示して下さった光を今なおこの聖書によって示されています。そして、この示された私たちを照らす光によって、また、わたしたちも進むべき道が、イエスに従って歩む道が与えられているのです。「起きよ、光を放て」との言葉は、この与えられた光に励まされ、その光を私たちもまた、イエスに倣った歩みを進めることによって世界へとその輪を広げていくことが伝えられているのです。

(髙塚記)

クリスマス燭火礼拝説教要旨
「暗きに灯る希望」(12/24)​

ルカによる福音書2章1~20

 今現在世界に目を向けると各地で争いが拡がり、収束の様子を見せません。今も苦しみ、悲しんでいる人が多くいます。そして人々の目には見えないところで苦しんでいる人、助けを必要とする人がいます。そのような現代において「喜び」「希望」ということを語る事の難しさを感じます。しかしそのような時であるからこそ、この「暗きに灯る希望の光」を、その意味を伝えていかなければと思うのです。苦しみ、悲しみに寄り添うために、困難な中にある人に寄り添うために、孤独な人に寄り添うために、救い主はこうしてお生まれになった。当時の社会の中で貧しさや不安、恐れを感じながら夜を過ごしていた羊飼いたちに最初にその喜びの知らせが伝えられたのは、今暗闇にとらわれて不安や恐れの中にある人が、顔をうつむけて前をむくことができない人が、希望を持つことができるようになるためであると今語らなければなりません。この物語で示されている事こそが、救い主の姿こそが、わたしたちにとっての、すべての人にとっての「喜びの知らせ」であると。「あなたは一人じゃない」「助けはきっとある」「一緒に歩こう」「その先に光がある」と希望がここにあるんだと、希望を持つことが難しい今この時に、この社会において、この世界において、力強く語っていきたいと思います。

 このクリスマスイブの時。キリストの誕生を覚えて、今この時、どのような時にあっても、キリストが共にいてくれるという希望を抱いて歩んで行きたいと思うのです。そして、今争いの中にあって、貧しさの中にあって、苦しみ悲しむ人々のところにもキリストが共に在って守ってくださることを願いたいと思います。そしてキリストの平和が実現される時のために、私たちにできる事を考え、なしていく歩みを新しい年もまた進めていきたいと思います。クリスマスの喜びを共に分かち合いつつ、キリストの平和と愛、神様の祝福が皆様の上に豊かにありますことをお祈りいたします。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「聞く耳のある者は聞きなさい」(12/28)​

マルコによる福音書4章1~9

 聖書が世界のベストセラーであることは間違いありません。多くの人びとに読まれ、親しまれてきました。しかし、この聖書ほど多様な読まれ方をしている書物はないのではないかと思います。むつかしい書物でもあります。

 例えば「隣人を愛せよ」という有名な聖句があります。さて「隣人」をどう理解するのでしょうか。ルカ福音書の10章に記されている「善いサマリア人のたとえ話」によれば、強盗に襲われ半殺しにされた人の隣人になることが示されています。「隣人」とは私たちが考える「友人」とは異なるようです。さらに「敵を愛せよ」という言葉。これもストンと腑に落ちる言葉ではありません。考え込んでしまいます。

 マルコ福音書4章には幾つかのたとえ話が記されています。たとえ話は事柄を分かりやすくするためのものです。私たちの日常生活に食い込んでくるたとえ話をイエスは語ります。それによって私たちの常識や考え方が問われることになります。簡単に「ハイ分かりました」と言えないかもしれません。私たちの知恵や経験を超えています。そのことがイエスのたとえ話で明るみに出されます。

さて「種まきのたとえ話」です。神の言葉を聞くことが、種と土地の関係にたとえられています。神の言葉を聞く耳を持てること。聞く者が種を受け付ける柔らかな土地であることが求められます。私たちは種を受けつける柔らかい土地でしょうか。

 神の言葉(種)によって、私たちは耕されます。人間らしさが形成されていきます。しかし人間の成長は“上からの圧力”によってなされるものではありません。様々な問いを自由に受け止めながら成長していくのです。自由さがなくなると土地(心)は硬くなります。人間らしさが失われます。イエスと出会い、そしてイエスの言葉を聞く。それによって、自由で主体的な人間に育てられたいと願います。

(前島宗甫記)

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