主日礼拝説教要旨
『真の平和~幸せの手がかりに気づく~』(8/2)
聖書:マタイによる福音書 5章1~12節
先週、29日に熊本で地震が発生しました。被災地の方々、教会・伝道所を覚えて神様の励ましをお祈りいたします。
地震の被害状況を見る時、私たちの教会建築の課題に対して、着実にスピード感をもって進めていかなければならないとの思いを強くします。どうか皆さんと共に祈り、決断していけますようと願います。
本日は平和聖日としての礼拝です。私たちはこの8月は【平和月間】として、礼拝後にいろいろなプログラムを計画しています。
先週31日の朝日新聞には「無念や差別 被爆証言をつなぐ」として富田林市立第2中学生の絵本「思いをつなぐ~忘れてはいけない、あの日のこと~」が完成、配布されたことが紹介されていました。それと共に、広島と長崎に原爆が投下された8月6日から9日まで、祈りを捧げる「平和のための75時間の祈りの集い」が広島で開かれることが紹介されていました。
つなげていく、ということを私たちも大切にしていきたいと願います。
与えられました聖書テキストでは、イエスは驚くべきメッセージを語られます。それは、「マイナスは必ずプラスになる。プラスはさらにプラスになる」という希望に満ちた力強いメッセージだったのです。「幸い」は神と人との関係を示す言葉です。「天の国」は、神の支配される場にいる者、自己や所有に依存することなくひたすら神により頼む生き方を貫くという積極的な意味がある言葉です。
私たちは一人一人がありのままでも神様の大切な唯一の宝物です。だからこそ、私たちの人生には、その中で繰り広げられるどんな出来事にも、神様の大きな働きが繰り広げられているのです。御子イエスとの出合いの中で、私たちはこんなにも自分を宝物と言われる神様を信じる者とされ、「マイナスは必ずプラス
になる」という希望を頂くことができます。私たちの人生は、神様の時に満ちています。私たちの人生には幸せの手がかりがいっぱいあるはずなのです。その手がかりに気づくことが忘れかけていた笑顔を取り戻す大きな一歩となるのです。(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『御言葉の実を結ぶ』(8/9)
聖書:マルコによる福音書 4章1~20節
先週6日は、広島原爆の日、本日は長崎原爆の日です。米国による原爆投下から81年です。平和への思いをつないでいく私たちでありたいと願います。来週は、「へいわのたね2026」として朗読会「学習絵本。長崎の証言⑥ 生きていてよかった~片岡ツヨさんの証言から」、歌、聖書、平和の祈り、讃美歌とプログラムが準備されています。戦争を知らない世代が、つないでいく責任があるということを大切にしていきたいと願います。
熊本地震の被災地の方々のために神様の励ましをお祈りいたします。
私たちが、安心・安全な礼拝を守れ、教会の宣教活動が進められていきますように、これから大きな決断を「共に」していかなければなりません。違いがあっても、共に前に進めていけますようにと祈り願います。
今日、与えられた聖書箇所から、(1)「実を結ぶ」ということ、(2)「不条理、不公平への怒り」ということに注目していきます。
(1)イエスは神の国について、芽を出して大きく育ち、そして実を結ぶ種にたとえています。神の国、神の支配とは、イエスにとっては、そのような動きのあるものなのです。イエスと出会うということは、新しい動きが始まるということなのです。イエスによって蒔かれた種のうち、ある者は30倍、ある者は60倍、あるものは百倍の実を結んでいったのです。
私たちのところに、神の国の福音が宣べ伝えられています。そして、それが私たちの間で生えて育ち、実を結んでいるのです。その神の国のすばらしさの中で私たちは生かされ歩みを続けているのです。
(2)最初は、イエスの宣教、私たちの宣教のありようが示されましたが、このたとえを別の視点から読むとき、このたとえからイエスが言われた別の思いが見えます。イエスは何を意図して語られたのでしょうか。イエスの話を聞こうと押し寄せてきたおびただしい人たちが、どのように受けとめることを期待してこのたとえを語られたのでしょうか。種を蒔く人とは「神」のことであり、蒔かれた種とは「人間」のことになります。ひどく残酷で不公平です。イエスは、この不公平への怒りや嘆きをそのままに生きられたのです。
(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『ともしび』(8/16)
聖書:マルコによる福音書 4章21~25節
イエスは、この「ともし火」のたとえを、ともし火を持ってくるのは升の下や寝台の下に置くためであろうか、との言葉から始められました。原文のギリシャ語では「ともし火が来る」という言葉が使われています。イエスは、ここで神の国について語られています。神の支配、神の国が私たちのところに来るというのは、私たちのところにそのような光が近づいて下さるということです。このともし火は、イエスご自身であると理解できます。そうすると、そのイエスが升の下に置かれるとはどういうことになるのでしょうか。イエスというともし火を、誰が、どのようにするのでしょうか。イエスはこの言葉を弟子たちに語られています。イエスは、弟子たちに、“私は来た。明るい光として来た。 私を消すな”と言われたのです。イエスのあとについて来た弟子たちは、一方では、イエスの行いに感動しながら、一方では恐れを感じています。人々の反感を買う時、イエスの行いを消したがったのではないでしょうか。イエスは、わたしの光は、隠されて消えるものではない。覆われて光がなくなるようなものではない。必ず輝き出す。ということを示されたのです。イエスという光に捕らえられていながら、その光を高く掲げて、自らの身と言葉によって証する勇気がない弟子たち、私たちに対して・・・。ここには、イエスの力強い弟子たちへの励ましが底辺に流れているのかも知れません。
近年「SDGs(持続可能な開発目標)」という言葉が広く用いられるようになりました。教会もまた高齢化や人的不足、財政的な課題を抱える中で、活動を見直し「持続可能な教会」を真剣に考える必要があります。しかし同時に教会の歴史は持続困難と思える中にあっても、キリストの愛と希望の上に発展してきたことも事実です。一人ひとりが祈りのうちに神の愛に応え、身近なところでできる小さな一歩を大切に踏み出していくとき、その歩みの光は確かに教会の未来を形作っていくのです。(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『自然の営みの中で』(8/23)
聖書:マルコによる福音書 4章26~34節
終末の前兆として、戦争、大地震、飢餓、疫病が起こり、それらを経て神の世界審判がなされ、世の終わりと共に神の国がやってくるのだと信じ込み、戦争を歓迎し推進しようとする人がいます。新約聖書に見いだされる終末思想は、イエスの時代にまん延していた終末思想を反映しています。しかしイエスは、戦争、地震、飢餓、疫病などは終末の前兆ではなく神の国のための「産みの苦しみ」だと言われたのです。それらの苦しみの経験とその反省を通して人は神の国を志向し始めることを告げたのです。
神の国は、種が地に蒔かれ、大地がそれを育み、そんな自然の営みこそが神の国を表していて、神の国はそのような営みの中でもたらされるものだ。とイエスは言われたのです。そして、この言葉は、恐ろしい終末思想がまん延していた当時のユダヤ社会から見れば本当に驚くべき言葉だったのです。
26~29節に描かれていることは、人為的な行為を介さない大地の営みです。蒔かれた種は、自然の営みの中で、自然に芽を出し成長し実を結びます。神はこういうものとして種を作り人間を創られました。種を蒔いた神でさえ、知らないうちに種は芽を出して育つのだと言われるのです。重要な言葉は、28節の「ひとりでに」という言葉です。ギリシャ語ではアウトマトス、英語ではオートマティックになります。アウトマトスとは、「人の作用が加わらないこと。自らそうなっていること。」を意味するものです。イエスは、そういう大地のアウトマトスのなかで神の国はもたらされるのだと言われるのです。
30節からは、神の国のたとえとして、からし種が出て来ます。からし種は一年草です。イエスは神の国を大木ではなく、1年で枯れてしまうようなものにたとえられたのです。神の国は大きく立派な国ではなく、小さな種があちこちに散らばって、芽生え育ち、そこからまた小鳥たちによって種が運ばれて次々にまた芽生え広がっていく、そのようなものだとイエスは言われたのです。どんな小さな種であっても、どんな小さな行いも、ささやかな気持ちも、神さまは喜んで下さるのです。どんなに小さな行いであっても、それを大切に行っていけば、そこに神の国がもたらされ、私たちは共に喜びに与るのです。(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『新しい葛藤と共に』(8/30)
聖書:マルコによる福音書 4章35~41節
イエスが嵐を静められる物語は、初代教会の状況を象徴的に示す物語として解釈されてきました。 戦後、世界教会協議会という大きな教会の交わりを作った時、その旗印にしたのは、この物語です。嵐のなかに船路を行こうとする舟の姿を自分たちのシンボルマークにしました。このシンボルマークは、「(人の住む)世界」を意味するオイクメネ(ギリシャ語)の文字が、虹のように波に漂う小舟を覆っています。古来、舟は教会のシンボルとされていました。礼拝堂の会衆席を舟(シップ)と呼んだのです。末端の広がった美しい十字架が力強く中央に描かれ、世にあって神の主権のもとにある教会の姿を現しています。ここで私たちは共に舟に乗っているのです。イエスと共に船路を行くのです。 「その日の夕方になって、イエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」とあります。夕方になってから舟を漕ぎ出して、湖の向こう側に渡るという行為は、実に非常識です。なぜあえて非常識な手段でイエスは向こう岸に行こうとされたのでしょうか。そこが重要です。 目的地の『向こう岸』は、ユダヤ人から見れば異邦人の土地。ユダヤ人としては出来れば足を踏み入れたくない場所でした。しかしイエスは、この自分のユダヤ主義を自ら打ち破ろうとされたのです。 その時、イエスは眠っておられたのです。この時のイエスの気持ちは、弟子たちと同じように、異邦人の土地に足を踏み入れることへのとまどいや恐れ、葛藤を感じながら、じっと揺れと闘っておられたのではないでしょうか。 艫とは、舟の一番後ろの揺れの激しい場所です。一番激しい揺れを感じておられたのはイエスだったのです。激しい動揺、激しい葛藤と闘っておられたのは他ならぬイエスご自身だったということではないでしょうか。 私たちは自己保身の思いに満たされて生きています。この殻を破らなければ神の国にたどり着けないことを聖書によって示されながら、なおも殻を破る決意を得られない存在です。けれども、いつか、向こう岸に向かって荒海を越える小舟に乗り込んでいくものでありたいと願います。 (田中馨子記)