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​説教要旨
「降りてゆくがゆえに」(4/10)​

​​フィリピの信徒への手紙2章5~11節

 1~4節において、互いが互いを思い合い、同じ目線に、思いによって一つとなっていくことが勧められています。そして5節に「互いにこのことを心がけなさい」と語られ、それに続く言葉、「それは、キリスト・イエスにもみられるものです」と述べ、キリスト者が倣い従うべきキリストの姿を示していくのです。そこで引用されたのが先ほどお読みいただきました箇所「キリスト賛歌」です。ここで記されるイエスの姿は、本来のパウロの思想とは若干違う所もあるものです。本来パウロの主張するキリストの姿、救いの在り方とは、十字架につけられたキリストの姿で終わるものではなく、十字架につけられ、復活したキリスト。そこに救いを見ていくのですが、この「キリスト賛歌」では、神の身分から降りて、人間の姿となり、さらにへりくだって「僕」「奴隷」の身分がごとく低くあり、さらには、十字架という最大の屈辱と苦しみの中での死をもその身に受けられるという、最も低くあろうとされた、キリストの姿を前面に示していくのです。パウロはこの自身の主張と強調点の違う「賛歌」を用いつつも、低くなられたがゆえに復活させられ高く上げられたキリストの姿を明確に示そうとしていくのです。

 10節おいて「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき」と示されていきます。先に紹介したキェルケゴールは十字架にかかり死にゆくイエスの姿を「このように彼の生涯は、上昇の代わりに下降であり、世間の思いや願いとは正反対であった。・・・彼は一段一段と下って行った。しかしそうして上がって行った。そのような仕方で真理は世界の中で苦しみ、また賞賛される。そのようにして彼は真理であった。・・・今や彼は全ての卑賤の賞賛を通って一段一段と、ついに十字架に付けられるまで上がって行った」「即ち栄光は栄光として 直接的に知られるのではなく、逆に卑下や卑賤において、即ち十字架において知られる」と語りました。イエスが神の座に座ってそこから救いの糸を地上に垂らすのではなく、自らがそこから降り、一段一段と人間のもとへと、それもすべての人々の立ち位置へと降りていったがゆえに、同じ目線でその言葉はすべての人々の心に深く届けられ、同じ立ち位置で立場で行われたその行為はすべての人々に重く受け止められていったのです。それがゆえに、同じ存在として、立場としてありながらも、なお正しく生き抜かれながら、しかし人々の罪のために十字架での死を遂げられたイエスの生涯は、すべての人々にとっての救い、福音となり得るのであります。すべての人のつらさも苦しさも、さみしさも、悲しみも、そのすべてを知るイエスだからこそ、神でありながらどこまでも私たちと同じ目線、立ち位置で語られ行動されたイエスだからこそ、その言葉、行為に私たちは救いの希望を見ていくのであります。

 キリストがそうあられたからこそ、パウロはそれに私たちは倣っていかなければならないとここで語っていきます。キリストが私たちのために低くあられようとしたのに、高くあったはずの地位も力も捨てて、かがむように、時に膝をつけ、私たちを知ろうと共感しようとしてくださったのに、その愛を与えられた私たちが他者を落とし、自らを高めようとするような在り方を出来るはずがないとそう語っていくのであります。(髙塚記)

​イースター礼拝説教要旨
「すがってはならない」(4/17)​

​​ヨハネによる福音書20章11~18節

 イエスを自らの目の前で失った弟子たちやマリアは、自らの目の前からイエスの姿が失われ、この世的に導く存在を失い、絶望の中にありつつ、その過去に思いがとらわれて前を向くことが出来ていませんでした。墓をじっと見続けて立ち尽くし、泣いていたマリアの姿に表われていた通りです。そして復活のイエスに出会ったその時のマリアは、イエスの姿を見て、その身体に、形あるものにすがり、今ここに共にいることを確認しようとしました。そして離れていかないようにすがろうとしました。しかしそれは、この世的な自らの希望にとらわれて、生前のイエスに求めていた思いに留まった形での行動でした。過去から向きを変えて一歩踏み出したわけではないのです。未だその過去にとらわれたままなのです。そんなマリアに対してイエスは「すがりついてはならない」と語ります。「姿形あるものにとらわれて立ち止まってはならない」と語っていくのです。「過去に、この肉体に本当の希望があるのではない」とそう語っていくのです。そして「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と宣言されます。そこにこそ、そのことにこそ「本当の希望がある」と宣言していくのです。そしてこのイエスの「すがってはならない」という言葉は厳しい戒めの言葉ではなく、過去の出来事に執着し、そこに留まることなく、希望を持って自らの足で立ち歩んで行きなさいと励ましていく言葉であるのです。本当の希望は過去にではなく、この先にあるのだからと再び立ち上がるための力を与えてくださる言葉であるのです。

 マリアは墓の中を見つめつつ、また、イエスの身体という形あるものに執着しつつ立ち上がり歩みを進めることが出来ないでいました。しかし、イエスからこの言葉を受け取ったマリアはもう、立ち止まって、留まっていることはせず、すぐにイエスの元から離れて、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と告げていくのです。その本当の希望を伝えていくのであります。イザヤ書52章7節にはこうあります。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを告げる者の足は」。マリアは復活のイエスと出会い、立ち止まり、膝をついてしまっていたその足で、再び立ち上がり本当の希望を持って、福音を携えてそれを告げ知らせに行くのです。その歩みは悲劇に濡れる悲しいものでありません。希望に満ちあふれた力強く美しいものであります。そしてその足はもう、絶望の中にあっても、見失うことのない希望の光の中を歩んでいるのです。(髙塚記)

​説教要旨
「信じる者に」(4/24)​

ヨハネによる福音書20章19~29節

 ヨハネの福音書が記されたとき。その時にはすでにイエスは人々の間にはいませんでした。その姿を目で見ることも、その奇跡の業を見ることも出来ませんでした。しかしそこにはイエスによって知らされた福音の言葉がありました。人々の間にその言葉はなお生きて、イエスによって招かれた人々の口から語られていったのです。もうイエスの姿を見て、その行動を見て、信じる者となることは出来ない状況です。しかし、見ることは出来なくとも、イエスが姿形を持っていることを実感を持って知ることが出来なくとも、信じ、その備えられた道を、苦しい道を歩まなければならなかった。そんな状況で不安に陥ることがあったからこそ、このヨハネ福音書の冒頭で「言」の内にこそ宿る神の姿が記されていくのです。そしてまた、この福音書物語の締めくくりの最後の言葉として、イエスの口で「見ないのに信じる人は、幸いである」との祝福の言葉が語られていくのです。弟子たちははじめ、イエスが復活したとの言葉、伝え聞きだけでは信じることが出来ませんでした。しかし、イエスが現れ、そしてその口からでる言葉を聞いたことによって信じる者とされていきました。そのようにして、見ることによってでしか信じることの出来なかった弟子たちもまた、イエスの生きる言葉によって信じる者とされ、また、その復活の奇跡に与ることによって、福音を伝える者とされていったのです。弱さを持った弟子たちにイエスは、22節で「彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」」と記されるように、弟子たちの内に生きた霊をお与えになりました。この霊によって、主の共同体に言葉によって信じる、その信仰が与えられていくのであります。この復活のイエスとの出会いによって信じる者とされていく弟子たちの物語は、見ることでしか信じることの出来なかった人間の弱さに対する戒めが語られて行くのと同時に、それでもなお、イエスによって信じる者とされ、その与えられた霊によって生きた言葉を語ることを許された弟子たちの姿が示されていくのです。そして、その言葉によって、私たちは、イエスが見える形で現れることはなくとも、信じる者とされていくことが許されているということを確信することが出来るのです。また、イエスは「見ないで信じる人は、幸いである」と語るのと同時に、トマスに対して「信じないものではなく、信じる者になりなさい」と語られます。見なければ信じることが出来なかった弱さがあることを指摘しつつも、そこで切り捨てるのではなく、信じる者となることが出来るように招きを続け、その道を示してくださるのです。             (髙塚記)

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