主日礼拝説教要旨
「一番偉い人」(4/6)
マタイによる福音書20章20~28節
無理解の弟子達に対してイエスは一つの道を示していきます。26節からにそれが語られていきます。「しかし、あなたがたの間ではそうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」との言葉です。そしてその後に続けられる言葉は本来の「救い主としての在り方」であります。28節「人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように」。このようにして人々の救いのために、人々の罪ゆえに、自らの存在すべてをかけて、そのすべてを犠牲にして、高くにあったはずのその地位を捨て、低く低くあろうとされる、最も低いところからすべてを救おうとなされるイエスの姿が示されていくのであります。そしてそのイエスの姿、道行きに従う道があわせて示されていくのであります。しかし私たちは、この地上で、社会的な地位を求め、時に権力を求め、それらにすがってしまうそんな弱さを持っております。それはこの箇所で語られている弟子達の姿に示されているものと同様であります。ここで語られている弟子の無理解、弱さは決して他人事ではないのです。私たちもまた同じ無理解、弱さを抱えているのです。同じように繰り返しまちがえるのです。しかし、こうして聖書の言葉によって、日々の礼拝によってその過ちに気付かされて、また道を示されて、繰り返し悔い改める思いを持ってこの歩みをただしていくのであります。そして、イエスが示してくださった、本当の「偉い人」、その足で苦しむ人悲しむ人の元に行き、共になき、共に笑った、イエスの姿に倣い、私たちもまた、人々に仕え、共に歩む道を歩んで行きたいと願うのです。そしてこの受難節の時に、自らの弱さを自覚し、繰り返し与えられる気づきを持って、悔い改めの思いを与えられ、信仰を省みる時としていきたいと思います。共なる歩みを進めて参りましょう。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「子ろばに乗って」(4/13)
マタイによる福音書21章6~9節
この物語の違和感は2つ。「イエスの受難がまさに始まろうとするその時にもかかわらず、勝利の凱旋のように語られている」と言う点。そして誤解による賞賛や賛美がこれまではいさめられていたにもかかわらず、ここではイエスによって無言のままに肯定されている」という点です。9節の言葉「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。ここで語られているように、イエスがエルサレムへと入ろうとされる時、弟子たちを中心とした群衆によるイエスをたたえ、神を賛美する声によって、大変な熱狂の中でその歩みが進められました。この賛美する声はあたかも、凱旋の先触れのように人々に伝えられるものであったように思います。後ののところで「都中の者が、、、騒いだ」とあるように、イエスと弟子一行がエルサレムに入るその出来事は多くの人の目に耳に届いたことである事がわかります。そしてその多くの人々が弟子たちに囲まれて、道が整えられて、ろばに乗って進んでくる光景を目にしているのです。そんな集まった人々の目を通しても、それは民族の解放をもたらしてくれるかもしれない人物、「メシア」の到来を思わせるものだったかも知れません。そういった期待を抱いてその場に集まったことは想像に難くありません。しかしそのイエスの進まれる道が、大変な苦しみと辱めが待つ道であり、また最期には十字架上での死を迎えると言うことをわたしたちはこの聖書を通して知っています。そしてイエスもまた、それを予期していることが弟子たちに語った言葉からもわかります。このエルサレム入城の場面。イエス以外の弟子たちを含む人々の熱狂と、そして苦難を覚悟し、ころばに乗って静かに進まれるイエスの静寂。この相反するかのような二つの状況が二分されることなくこの場に同時に存在しています。先にお話しした曼荼羅のように、神の栄光を求めるイエスと、地上の栄光を求める人々、聖俗一体となった世界観がここにおいても現出していくのです。この現出する世界は、神の救いの業において、喜びの先取りであると語られます。それは、この受難の道を進んでいくことこそが、救いという大いなる恵みにつながる道であるからこそ、それは、死への勝利の道であり、大いに賛美・歓迎されるべき出来事であると言えるのです。このようにして、この人々の歓迎と歓喜と賛美が受難という運命にあるイエスの歩みに重なり合い、聖俗一体となった世界が現出するのです。このエルサレム入場の場面において、人々は意図せず、それこそキリストを誤解し理解できないという弱さや罪を抱えたままで、この喜びの先取りの場に立ち会うことが赦されていく。イエスを通して救いの御業の実現への道を整えていくものとして用いられていると言うことがこの聖俗一体となった世界観によって示されているのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「ペトロに告げなさい」(4/20)
マルコによる福音書16章1~8節
ペトロは弟子たちの代表として直接イエスの裁判の場に立ち会い、そしてそのイエスの前で、「そんな人は知らない」と「わたしには何の関係もない」とイエスを切り捨てる発言をしてしまいました。そのような事をして命が助かってしまったペトロの心情は苦しみはいかばかりであったか。他の弟子たちよりも深く、自らを軽蔑するような、後悔するような状態にあったのではないでしょうか。自分のしてしまったことを後悔しながら、それでもなお愛し続けてくださろうとしたイエスを切り捨ててしまった自分を許すことが出来なかったのではないでしょうか。だからこそ、他の弟子たちが固まって隠れているところに一緒にいることは出来なかった。もしかしたら福音書に伝えられるユダの最期のように、自らの命を絶つことも考えていたのかも知れません。そのような状況の中でイエス復活の知らせを伝えるようにと指定された言葉が語られています。「弟子たちとペトロに告げなさい」と。この言葉に主の深い愛と赦しを見ていくのです。また、イエスを理解できなかった弟子たちでしたが、イエスは、そのような弱さを持つ弟子たちのことを深く理解していたということを思わせる言葉であるのです。きっとあのようなイエスを、自分を切り捨てるような行為をしてしまったペトロは、今頃その罪悪感に押しつぶされそうになりながら一人苦しんでいることであろうと、そう考えられた。もしかしたら、ユダが命を自ら絶っておらず生きていたならば、ここにユダの名前も付け加えられたのかも知れません。この「ペトロに伝えなさい」という言葉は、その背後に、「わたしはあなたを見捨てない」「繋がりは断ち切られていない」というイエスの赦しと招きが示される言葉であるように思えるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「ガリラヤへ」(4/27)
マタイによる福音書28章1~10節
思想家田川健三は「原点」とは「常に問いとなるもの」、「いつでも引き戻されて問われる場所」と語りました。弟子たちにとってイエスとはまさにこの「原点」であったのです。イエスの直弟子たちは、聖書の中で決して完璧な存在としては描かれておりません。時に間違えたり、迷ったりする弱さを持った存在です。しかしそれでも、そのたびにイエスは弟子たちに対して手を差し伸べ言葉をかけまたその道へと引き戻していかれます。それは誤解のうちにイエスに対して勝手な希望や願いを抱きながら、その思いのままに十字架でのイエスの死を前にして絶望におちいってしまう時にも与えられる支えなのです。イエスとの始まりの場所であった「ガリラヤ」にまで引き戻されて、まっさらな状態でイエスに付き従ったその時を思い起こすように、イエスはあらためて弟子たちと出会い直されるのです。これまでの間違えて積み重ねてしまった、誤解、無理解を含めた自分を十字架による死によって一度打ち崩して、そこからまた歩みを始めることが出来るように、イエスはくり返し弟子たちと出会われていくのです。そしてイエスとの出会いとは常にある種の「問いかけ」であるのです。イエスはその生涯をもって神の道を、神の前に正しく生きるということを体現為されました。それは自らの死を前にしても変わることなく。また、神の愛とはどういうものであるかを体現為されました。愛するとはどういうことなのかを、神がどれほど人を愛されているのかということを。この神の、また愛の体現者であるイエスとの出会いは、その存在を目の前にしたときそれは問いかけとなるのです。「あなたはどう生きるか」「隣人にどう接するのか」「なにを語るのか」。イエスという存在を通して、その生涯を通して、常に問いかけ続けられているのです。それはイエスと直接出会った弟子たちに限って言う事ではありません。私たちもこの現代において、聖書を通してイエスと繰り返し出会わされています。その出会いにより神の愛に気づかされ、また悔い改めの思いが与えられています。それは復活のイエスと出会った弟子たちと同様にであります。私たちも弟子たちと同じようにイエスという「原点」が与えられ、新たな命、新たな歩む道が与えられて、聖書の言葉を通して問いかけ続けられております。「あなたならどう生きるか」「どう歩むのか」。聖書の言葉に聞き、イエスとの「再びの出会い」を「繰り返しの出会い」を与えられつつ、その問いかけに応えていくことが出来る歩みを進めていきたいと思います。
(髙塚記)