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主日礼拝説教要旨
「まだ信じられず」(6/1)​

ルカによる福音書24章36~49

 わたしたちのために、わたしたちの罪、弱さゆえに主イエスは苦しみと十字架上での死を受けられました。しかしそれだけではない。それほどまでの苦しみを受けられたのにもかかわらず、わたしたちはまだ、その主を信じることが出来ない弱さを抱えています。また、一度信じてもその信仰は揺らぎの中に、疑いの中にとらわれてしまいます。その信じることと疑いに入ってしまうことの繰り返しは、わたしたちの信仰の本質であり、罪の本質であるのです。そんな信じる思いと疑いの思いの間で揺らぐわたしたちをどうにかこうにか信じる者とさせようと試行錯誤するイエスの姿。今日の物語に示される、自分の手足を示して、弟子たちの前で魚を食べて、「わたしだ」と「本当にわたし、イエスがあなたたちの目の前にいる」と、必死になって伝えようとするその姿は、何度も疑いの思いにとらわれてしまうわたしたちを見放すことなく、何度でも許して、自分のもとへと招き続けるというイエスの、神の許しの本質が示されているのです。

 困惑する弟子たちの前で、必死に手足を見せながら、これでもだめかと目の前にある魚をムシャムシャと食べて、どうだこれで信じたかと悪戦苦闘するイエスの姿。そこには滑稽とも思える、ユーモアにあふれた光景が広がるのと同時に、そのようにしてまで、必死に信じる者とさせてくださろうとするイエスの深い愛と赦しの恵みを思わされるのです。

 わたしたちは日々の歩みの中で、様々な困難や思い悩みにとらわれてしまうことがあります。そして今世界においても日本の中でも希望を持つことが難しい、様々な課題がわたしたちの目の前にはあります。そのような状況の中で、わたしたちは神の存在を忘れ、語りかけてくださる声を聞かず、迷いの中にとらわれてしまうことがあります。また、この信仰が揺らいでしまうこともあります。しかしそんなわたしたちにイエスは何度でもその手を差し伸べて、これでどうだ、こうしたらどうだと悪戦苦闘しながら、わたしたちを導いてくれようとしてくれています。そのことをこの聖書の箇所からわたしたちは学びました。そのイエスの、神の深い愛をわたしたちは受けている事に感謝すると共に、この受けた優しさと愛を拡げて行くことが出来る歩みを進めていきたいと願うのです。

(髙塚記)

ペンテコステ礼拝説教要旨
「激しい風が」(6/8)​

使徒言行録2章1~11

  聖書によればその昔、人々は同じ言語を扱っていたといわれております。この物語では神が人々の言語をばらばらに混乱させることによって、人々が散り散りになっていく姿が描かれています。そうして散り散りになっていった人々がまた、一つとなることが出来るように、キリストによって一つとされるために、福音宣教が始まります。それではばらばらの言語をもう一度一つにするという奇跡でもよかったのではないかと思ってしまいます。そうすればすべての人に同じ言葉で福音を伝えることが出来ます。あるいはそれ以外の大きな奇跡によって強制的に一つとすることも出来たのではないかと思ってしまいます。しかしそれはされなかった。言葉が通じるだけであることよりももっと重要な点があるのです。半端に言葉によってだけつながりを得るのではなく、本質的な、つながり。心のつながりを得るために「愛によって一致」していくことが重要であるのです。キリストの愛が、すべての人々に注がれる愛が、それぞれの土地で、ゆっくりと、しかし確実に伝わっていくためにこの弟子たちがさまざまな国の言葉で語りだすという奇跡が示されたのです。「愛」によって人々が一致していくことによって、「バベルの塔」の物語で語られるような人々の間違いはもう起きることはなく、そして、人のために生き、そして死んだイエスのように、私たちも歩んでいくことが出来るのです。その寄り添い、歩み寄り、語り掛けていく。その姿がこの奇跡に示されているのです。実際に福音が拡がっていくためには、言葉によって救いの意味や福音が語られなければ伝わりません。それをつたえるために言葉によって語られて行ったはずです。そしてその中で初期のキリスト教会はもちろん、その後の時代、また現代においても多くの苦労や困難があります。言語を統一するのではなく、それぞれの国の言葉で福音が語られるというのは、そういった困難や苦労をする厳しい道のりであります。しかし神はその方法をとられる。不自由や困難があることが明確にわかりながらも、それでも人を用いて、言葉によって伝えようとされる。それはその言葉の壁を必死な思いで、また必死な行動によって乗り越えた先にある本当の愛による繋がりを得るためです。言葉によって困難ながらも伝えられていき、その背景にある心を砕くような寄り添いによって実現していく「愛による一致」が大切である事が伝えられているのです。

(髙塚記)

子どもの日(花の日)合同礼拝説教要旨
「嫌われ者のザアカイさん」(6/15)​

ルカによる福音書19章1~10

 ある町に、ザアカイという男がいました。彼はお金持ちでしたが、それは人々から税金を集める仕事をしていたからです。しかし、彼は税を多く取りすぎて自分の懐に入れ、人々から嫌われていました。ある日、町に有名な先生イエスがやってくると聞き、ザアカイはどうしても彼を見てみたいと思いました。しかし、ザアカイは背が低く、大勢の人が集まると前に出ることができません。そこで彼は賢く考え、大きな木に登りました。そうすれば、イエスを見ることができると考えたのです。イエスが通りかかったとき、彼は木の上のザアカイを見上げて言いました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイは驚きました。町のみんなは彼を嫌っているのに、イエスは彼と友だちになりたいと思っているのです。ザアカイは急いで木から降り、イエスを家に招きました。町の人々は「どうしてあんな悪い人の家に行くの?」とざわめきました。しかし、イエスはザアカイに優しく語りかけました。それを聞いたザアカイは心を入れ替え、こう言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。

 ザアカイは嫌われ者でした。それはユダヤ人でありながらローマのための税金を同胞から集めていたからです。だから同じユダヤ人からはローマの手先と言われて嫌われました。ローマの人々からは同胞から税を取り立てる半端者と軽蔑されます。そんな状況だったからザアカイは「嫌われるなら相手のことなんて知るか。自分だけ幸せになってやる」と考えました。だから自分の懐を豊かにするために税を普通より多く取り立てたし、人をだまして財産をかすめ取ることだってありました。しかしそんなザアカイの元にイエスは来て、ザアカイを招いたのです。他のユダヤ人のように拒否するのではなく、悪いやつだと嫌うのでもなく、「あなたと共にいたい」と、「共に食事をし語り合おう」と招かれたのです。当時のユダヤ人にとって食事をするというのはとても重要な意味がありました。それは心を許し信頼する相手であるということを示す行為であるということです。イエスがこのようにまずザアカイに対して心を開き招いたのです。弱さの中にある人を招かれるのがイエスであり、神の姿です。ザアカイのように、閉ざす心に伸ばされる招きの手を一歩踏み出しとることができる勇気を与えられていきたいと思います。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「知られざる神に祈る」(6/22)​

使徒言行録17章22~24

 パウロがアテネで語り提示した「知られざる神」とは、今わたしたちが読む時にはただ知識として知られていない神というだけでなく、人間の理解を超えた神、つまり、私たちの想像をも包み込む神の存在を意味しているように思われます。人は神のすべてを知ることができません。それどころか、私たちは時に迷い、疑い、揺らぎながら生きる存在です。信じようとしても信じきれない瞬間、祈ろうとしても言葉が出ない時。そんな弱さを私たちは否応なく抱えて生きています。しかし、それでもなお、神は見えざるかたちで私たちの傍らにおられ、私たちの迷いも問いも、すべてを包み込んでくださる。だからこそ、信仰とは確信することではなく、迷いながらもなお向き合い続けること、見えないけれど“ある”と信じて歩む姿勢そのものなのかもしれません。

 「知られざる神に祈る」とは、アテネの人々の姿勢としてここで提示されたものではありますが、今を生きるキリスト者であるわたしたちにも共通するものがあるように思えます。私たちが生きる現代社会では、神の存在を実感することが難しくなっています。情報にあふれ、目に見えるものが重視される日々の中で、「神」という目に見えない存在は、遠く感じられてしまうこともあるでしょう。しかし、そんな時代に生きる私たちにも、神は確かに語りかけておられます。それが、まさに聖書の言葉なのです。かつてアテネの人々が、パウロの言葉を通して「知られざる神」の姿に触れたように、私たちもまた聖書を通して、繰り返し神のまなざしとその呼びかけに出会います。忘れていたように思えていた信仰が、ふとしたきっかけで息を吹き返す。それは、私たちの側の努力だけではなく、神のほうから私たちを信仰の道に引き戻してくださっているからなのかもしれません。見えないものに向かって、自分の弱さごと差し出すことです。理解できないことを否定するのではなく、その理解し得なさの中にこそ、神と出会う余地があると信じること。それは、自分という小さな器のままに、それでもなお受けとめられているという安心の中に生きるということでもあるのです。

 この聖書の箇所が私たちに教えてくれるのは、私たちが見落としがちな静かなまなざしと、見えないけれど確かにあるものへの信頼、そして弱さを抱えながら歩む信仰の尊さです。だからこそ、今日もまた私たちは、その「知られざる神」「わたしたちを越えたところにいる神」に祈り、見えない世界への敬意を持って日々を歩んでいきたいのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「普遍的な希望」(6/29)​

ローマの信徒への手紙8章18~25

 24節からでパウロは「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と語っていきます。見えるものに対する希望というのは、私たちが日々生きる上において抱く、ある種の日常的な希望ともいえるものでしょうか。目の前の悩みを解決したい、楽していきたい。つらいことを避けたい。食べ物に困りたくない。そのような日常的な希望であるかと思います。しかしそれらは、流動的に変化し、永続的に続いていく「希望」ではありません。そしてパウロが示している「目に見えないものを望む」、「目に見えない希望」とは、どんな状況においても、そこに神は働かれ、その先にはきっと、救いが、この困難、悩み、挫折の中からの解放があるという、「救いに対する確信」という「希望」であります。そしてそれは、変化し、取り去れる可能性のある「日常的な希望」に対して、普遍的であり、確信され、取り去れることのない「根源的な希望」といえます。この「変わることのない希望」とは、、パウロの語る、「滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかる」ことです。私たちがどれだけみずからの弱さのために、道を間違え、虚無に服し、挫折によってうずくまりそうになっても、この「希望」は変わることなく、私たちのそばにあってその道を照らし続けてくれるのです。来るべきその時に、必ずその救いが与えられる。迷いと挫折の中から救い出されていくという確信と信頼をもって、信ずることのできる望みが変わることなく存在し続けてくれるのです。そしてそのことは、毎週の礼拝を通して、聖書の言葉を通して、讃美の歌を通して、祈りの時を通して、繰り返し、繰り返し私たちに語られ、気づかされ、そのたびに励ましを与えてくれるのです。その希望を携えているからこそ、どんな困難な状況にあっても、パウロで言うならば、多くの艱難に遭いながら、自らの命の危険を感じながらも、その「希望」を信ずることが出来るために、使命のための歩みを続けていくことが出来るのです。そのための「強い勇気」を持ち続けることが出来るのです。このことは、パウロ自身の歩みによって証明され、それは、私たち対する大いなる励ましの言葉となっていくのです。

(髙塚記)

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