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主日(平和聖日)礼拝説教要旨
「こどものように」(8/3)​

マルコによる福音書10章13~16

 星の王子さまのサンテグジュペリは大人が切り捨ててしまい忘れ去ってしまったところにこそ「大切なことがある」と語ります。「大切なものは目に見えない」と。それを見る力、想像する力、受け入れる感性を大人たちは切り捨ててしまったと伝えてくるのです。そして、聖書の言葉。イエスは言いました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」と。そして「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。子どもでなくなるにつれて、社会生活で必要なこと、考えなければならないこと、やらなければならないことがだんだん増えてきます。そうしていくと子どもの頃のような想像や自由な物事の捉え方、柔軟な考え方というのは失われていきます。そういった感性や考え方というのは必要ないと考えて切り捨ててしまうのです。そしてなかなかそこに重要性や真実を見いだせなくなってしまいます。しかし、ピカソがこの子どもの感性と自由な表現と出会い、それが人の心を動かす真実であると感じたのと同様に、また、サンテグジュペリが「ほんとうに大切なものは目に見えない」と語ったように、ほんとうは私たちがこれまでの生活の中で失ってしまった、この「子どものような感性」こそが大切であったのではないかと思わされるのです。この「感性・物事の柔軟な捉え方、自由な受け入れる心」によってこそ、真実に神の恵みを感じ、福音の喜びを受け取り、感謝をすることができるのではないかと思わされるのです。「子どものように神の国を受け入れる」。このイエスの言葉からもそのことを強く感じさせられます。私たちはこの感性や考え方を子どもたちを拒絶した弟子たちのように切り捨ててきてしまったかも知れません。しかしこのようにして聖書の言葉から、イエスの言葉から気づきを与えられていきます。ほんとうに大切なこと、真実に神を受け入れる姿勢を私たちはこの時また学び捉え直していきたいと思うのです。子どもたちが想像の世界で見えないものを受け入れ豊かに生きるように、見えなくとも、私たちの中で、背後で、いつでも働き守ってくださる神の存在を感じ、受け入れていく感性を大切にして感謝を持って歩んで行きたいと願います。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「愛された者」(8/10)​

ローマの信徒への手紙9章19~28

 旧約聖書を通していうことが出来ることですが、聖書で語られている神と人との関係性、物語は繰り返しの失敗と挫折の物語です。弱さゆえに神から離れて、神の道をそれて、間違いばかりを繰り返してしまう人間とそんな繰り返し過ちを繰り返してしまう人間を正しき道へと引き戻そうとする神の姿。それが旧約聖書においては様々な物語によって語られています。これまでの歴史をイスラエルの人々は物語や詩、格言などの形にして残し、まとめ伝えることによって、これ以上過ちの道へと進んでしまうその繰り返しを食い止めようとします。そしてのちの時代の人々が神と共に歩むことが出来るように道筋を示そうとするのです。そうした先人たちの努力によって現在においても聖書という形でその繰り返すことがないようにという願いはこの日本にも伝えられました。しかしそれでも間違えてしまう弱さを持つのが人間です。過去の出来事が伝えられながらもその思いは薄れ、忘れられ、風化する。そうした中でまた過去の過ちを繰り返してしまう。そんなことがこれまで何度もあったことは歴史が証明しています。そうした弱さを持つ私たちに対して神は怒るのか。ただ罰を与えるのか。そうではないということをこの聖書は語っています。25~26節「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」。この言葉は過ちによって神のもとを離れ、神を裏切り、神を忘れた人々のことを決して神は忘れず、必ずその関係を新たに完成させるという約束が語られているのです。これは預言者が語った当時には神から離れていったイスラエルの人々に対する声でありましたが、パウロがこれを引用した時その言葉は、これまで神の恵みの外に置かれているといわれていた異邦人たちにも神の恵みが注がれていることを証明する言葉となりました。そして現代において私たちがこれを聞くとき、過ち、間違いを繰り返してしまうような弱さを持ち、神の前に正しく生きることが出来ないような、決して神に「愛されている」と自らは語ることが出来ないような自分を「愛している」と語ってくださる神の慈愛に触れるものとなるのです。私たちを神は「愛された者」とし、「いける神の子」としてくださる。それは私たちの弱さ、かけを神自らが補ってくださるということを示しているのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「こうして教会は」(8/17)​

使徒言行録9章26~31

 今回お読みいただいた箇所は使徒たちの困難な歩みの先に示されたものであるのです。しかもこの「こうして教会は発展し、信者の数が増えた」という報告が示される直前に置かれているのは後の異邦人世界におけるキリスト教宣教の先導者となるパウロ、「使徒サウロ」の加入についてであるのです。皆さんが知るようにこのサウロという人物はキリストを信じ伝えるものとなる前には逆にキリストを信じる人々を迫害し、捕まえて、場合によってその命を奪う出来事の片棒を担ぐようなこともあった人でありました。自らも語ることですが、キリスト者を捕まえて尋問することに熱心であった人物です。そんな人物がキリストを信じるようになったといってキリスト者の共同体に入ろうとしてももちろんなかなか受け入れられるものではありません。実際26節には「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」と記されています。これまで自分たちを迫害していたのに仲間になるなんて信じられない。きっと自分たちを捕まえるために来たんだと恐れているわけです。そのようにキリスト者の共同体でも拒否されつつ、さらにはユダヤ人たちからも「裏切者」「道を外れた者」としてほかのキリスト者と同様かそれ以上に厳しい迫害を受けていたことも報告されます。実際に直前の23~25節には命を狙われて、そこからなんとか逃げ出したという報告も記されます。そしてキリスト者の仲間にも完全にはなれず、ユダヤ人から命を狙われるような状況の中で、パウロは新しい宣教活動の場として異邦人の土地、外国へと渡っていかざるを得なかったのです。しかしこの決断があったからこそキリストの福音は世界へと拡がっていったのであるというのが今回の「こうして教会は」世界に拡がるに至ったのであるという報告につながるのです。「こうして」という短い言葉には、本当に多くの苦難、困難を乗り越え、たくさんの人々が少しでも多くの人に希望を伝えるために歩み続けたその道が込められているのです。

 苦難の道をも乗り越えて伝えられた言葉の数々はそれを伝えた多くの人々が一人でも多くの人に伝えたかった希望が込められているものです。それはすべての人に語られる「愛」であり「赦し」であり「喜び」であり「慰め」です。悠久の時を越えて今私に、私たちに語られる「あなたは一人ではない」というメッセージであるのです。この「愛であり希望であるメッセージ」を現代の教会を形成するキリスト者である私たちはしっかりと受け継いで、これからも語り継ぎ、繋げていかなければならないと思わされます。うずくまる人に、困難に見舞われる人に、孤独を感じる人に、悲しみにとらわれる人に、痛みを抱える人に、迷いの中にある人に。「あなたは決して一人ではない」と。私たちが与えられたこの豊かな「希望」を伝えるための歩みを進めていかなければならないという想いを新たにさせられます。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「敵を愛せよ」(8/24)​

マタイによる福音書5章43~45

 「隣人を愛し、敵を憎め」(43)。「隣人を愛し」は旧約聖書に記されています(レビ記19:18)が、「敵を憎め」は記されていません。しかし旧約聖書には「敵を憎む思想」が少なからず見られます。詩編には「復讐詩編」と呼ばれる程多く見られます。

 「隣人」。当時のユダヤ民族にとって「隣人」とは「同族」を意味しました。しかし聖書を読んでいると「同族」であってもサマリア人、ガリラヤ人、徴税人、罪人と呼ばれる人たちは「隣人」ではありません。「敵」でしかないのです。当時のユダヤ教は、この憎悪、敵対意識を煽り立てて信仰を確立しようとしました。なぜイエスが「敵を愛せよ」と言われたのか。それはこの背景を無視しては語れないと思います。

 この状況の中でイエスは言います。「敵を愛しなさい」。よく見ると、この言葉の前に「しかし私は言っておく」(44)とあります。この言葉は5章のキーワードでもあります(18,22,28,32,34,39節)。イエスは伝統的な教義に従って教えるのではありません。自分の言葉で語り、教えます。イエスにとって「敵」は当時の宗教体制、神殿体制、律法主義でした。そしてそれをかざして、差別を正当化する宗教とその指導者たちです。だから、それに反して「私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害するために祈りなさい」(44)。

 二つの意味を考えます。①「解放の言葉」です。今まで、伝統の力で閉じ込められていた人びとの解放です。②同時に人を差別、抑圧している側の人びとに対する解放でもあります。人に対して憎しみや恨みを抱けば、自分の心の自由が失われます。

 イエスは敵を見抜いていました。そして闘います。しかし「剣」は取りません。愛をもって抵抗します。敵と妥協するのではなく、敵を変えてしまうのです。今まで食卓を共にしなかった人を食卓に招きます。「悪人にも善人にも」(45)全ての者に同じ恵みがある。これが「福音」です。「しかし私は言っておく」の内容です。これを受け止め証しすること、そして実践すること、それが教会に託された宣教・ミッションなのでしょう。

(前島宗甫記)

主日礼拝説教要旨
「捨てられた石」(8/31)​

マルコによる福音書12章10~12

 このたとえ話と捨てた石が隅の親石になるという詩。これらは必要ないもの、価値のないものとして拒絶、切り捨てられたものに信仰の本質を見ていくという奥深さを感じさせられていくものであります。イエスのその生涯の歩みとは、常に社会において切り捨てられようとしていった者達と共にあるものでありました。当時のユダヤには病のゆえに、障がいのゆえに、職業のゆえに、生まれのゆえに。様々な状況の中で社会からはみ出し、切り捨てられようとしていった人々がいました。社会の中に生き、自分たちは救われると考えていたような人々からは見向きもされず、時には汚れたものとして避けられるようにうつむきながらうずくまりながら生きていた人々が多くいました。ユダヤ社会の中で必要とされず価値のない者として切り捨てられるように疎外された人々が多くいたのです。社会的地位のある人々、宗教的権威のある人々、そして、そうではない人々と当時のユダヤ社会は現代では考えられないほどに格差のある状況でした。人間的価値が人間的枠組みの中で決定づけられそこから逃れようにも逃れることのできないような状況がありました。そのような中でイエスはどのように生きたのか。宗教指導者的上位者として綺麗なところ、汚れなきところを清潔な服を身にまとって、高潔な振る舞いで語ったのか。そうではありません。人々が避けて通るようなところを、汚れることもお構いなしに、人々が触れないようにする人を、関わりを避けようとするような人と共に手を取り合い、食卓を囲み、時に豪快に笑い、時にその顔を涙にぬらしていくのです。人から目を向けられないようなところにこそイエスは目を向け、人が足を向けないようなところにこそイエスは足を向け歩み寄って行かれたのです。イエスがこうして共に歩まれ続けた人々は当時のユダヤにおいては神に救われることはない存在として考えられていました。しかし、イエスはこのような人々こそが神に救われていく、神の国に入ると語り、また、その救いの希望をそこでこそ表わしていったのです。そして、そのイエス自身もまた、人々から拒絶され、十字架刑という当時最も忌み嫌われる処刑方法で捨てられていくように殺されます。このようなイエスの生涯はこのたとえや捨てられた石の詩で語られるように、人々が目を向けないような、無価値として切り捨ててしまうようなところにこそ救いが、希望があると言うことを示していくのです。

(髙塚記)

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