主日礼拝説教要旨
「あなたがたを愛したように」(5/4)
ヨハネによる福音書13章31~35節
私たちはイエスの歩みによって救いが与えられることを聖書の言葉より知らされております。また、様々な人生の歩みの中での備えられた出会いが与えられます。そこで私たちは知らされます。「イエスが私たちを愛しておられる」と。「神が私たちを愛しておられる」と。何も返すことの出来ない、それどころか目を背け、道を踏み外してしまう弱さを持っている存在である私たちをイエスは、神はなお「愛しておられる」と知らされるのです。この「愛」は何の見返りを求めることのない、自らの命すら差し出して与えられた「無償の愛」であり、また、私たちが神を知る前にはすでに与えられている「愛」であるのです。神にとって私たちは生まれたばかりの赤子のように無力な存在であります。しかし神はイエスが生涯においてそう示してくださったように、子を守る母のように私たちの手をひき、支え、必要を与え、その道を歩ませてくださいます。私たちはこのすでに与えられた愛に気付かされたとき、そこに感謝を持って、信仰を与えられていくのです。
イエスは弟子たちに対して「わたしがあなたがたを愛しように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語り、それを新しい掟として授けられます。それに続けて、35節で「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆知るようになる」と語ります。これは、弟子たちの間で、また、弟子たちからさらに繋げられて、イエスが与えられたその愛が多くの人々に拡がっていく様を示しております。弟子たちをはじめとして私たちは、イエスから、また神から与えられた愛を同等の価値を持ってお返しすることは出来ません。しかし、その与えられた愛を信仰によって育み、またそれを拡げていくことが出来るということをここで示されます。イエスが私たちを愛しておられた。また、すべての人を愛されて、虐げられる人、低くされる人、悲しむ人、愛ゆえにそういった多くの人々と共に在られた。そのことを私たちはこのイエスの「互いに愛し合いなさい」との掟において、ならい従っていかなければなりません。それが私たちに出来る応答の業であるのです。イエスに倣って歩むことは私たちにとって多くの困難があることであると思います。時に間違え、時に迷い、くじけそうになることがあります。しかし、それでもイエスは決して私たちを見放すことなく、「愛している」と語ってくださいます。その「愛」という、イエスは、神は見放すことはない、見捨てることはないという「希望」をもって日々の証しする歩みを進めて参りたいと願います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「一つの体となる」(5/11)
コリントの信徒への手紙一12章3~13節
信仰の歩みというのは時に苦しく、時に耐えがたく、時に孤独に感じてしまうこともあるかもしれません。しかしそんな時わたしたちは、日々の礼拝の中で、また、聖書を開くときに、イエスがその生涯の中で示された共にある神の姿を再確認させられるのです。そして神によって励まされ、支えられわたしたちはまた歩みを進めることが出来るのではないでしょうか。これまでの歴史の先達者たちがそうであったように、時には悩み、自分のやっていることが正しいのかどうか迷い、実現することが出来るのかという葛藤と闘いながら現実の矛盾に対して、神への叫びとも取れるような祈りをもって神の助けを求めることによってはじめてわたしたちは立ち向かっていくことが出来るのです。そしてそのわたしたちの歩みは常に共におられる神の姿としての聖霊によって導かれ支えられるものとなるのであります。
最後の13節には次のように語られます。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分な者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。先にわたしたちが時に立ち向かうべき厳しい現実において神の助けが与えられていくと語りました。そしてそれは個人によってのみで行われるのではなく、一つの霊によって、神という中心を持って、わたしたちがつなぎ合わせられていくことによってなされていく業であります。パウロが設立に関わったコリント教会の背景を見たときそのメンバーの多様性を語りました。様々な社会的地位、思想、背景がある人々が集まり、持っている力も違う。その人々が神の与える一つの霊によってつなぎ合わされ、キリストを頭とした一つの身体が形成されています。このことは現代の教会においても同様に言えることです。わたしたちもまた様々な背景を持った個人の集まりです。何事においても、わたしたちはこの霊の力に支えられ、霊の導きによって一つの身体、共同体となり、霊の力の発露としての伝道の業をなしていきます。どうすることもできない。成し遂げることができるように思えない。そんな現実の前で、わたしたちはあらためてこの古代の共同体に豊かに働かれた霊の働きを思い起こしたいと思います。そして今なおその霊は働いて、この共同体の中心となってわたしたちをつなぎ合わせてくださっているということを信じたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「おびえるな」(5/18)
ヨハネによる福音書14章15~27節
十字架でイエスが殺された時、弟子たちは自らを導く存在を失って歩むための力や希望を持つ事ができなくなってしまいました。恐れや不安にとらわれて立ち止まり隠れ潜むしか出来なくなってしまいました。それでも復活したイエスと出会った弟子たちはあらためてその出会いによって勇気と力が与えられて前を向くことが出来るようになりました。しかしその後のイエスが離れてからの福音宣教の歩みは多大なる困難を伴うものでした。これまではイエスが導いてくれていた。イエスが語ってくれていた。それに従えば良かったし、誰かに語る言葉もまたイエスによって示されていた。しかしこれからは自分の言葉で、また行動でイエスが伝えられ、与えてくれた喜びと恵みを拡げて行かなければならない。そのような状況を前にしたとき弟子たちもまた、今日の私たちのように尻込みしてしまったことでしょう。そうなることはイエスからすれば容易に想像できることであったのです。だからこの約束をされた。「弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と。そしてこの約束の通り弟子たちのもとに降されたのが、最初にお話しした「聖霊」であると聖書において語られています。弟子たちをはじめとしたキリスト者たちによる宣教の歩みは多大な困難を伴うものでした。実際にその働きの中で多くの犠牲も出ています。そしてその働きを中心的に担っていた人々はそれまで人を導く経験をしていたような立場にあった人ばかりではなく、当時のいわゆる普通の職業、農業や漁業に携わる人が多くいました。そうした人々が時に自分たちを敵視する人が多くいるような場で、時に裁判にかけられるような場面で、時に社会的地位の頂点にいるような人の前で、イエスが伝えた福音を語っていったのです。26節にこのように語られます。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。イエスが伝えた教え、福音を各地で、様々な場面で語った人々はその全員が特別にすぐれた人というわけではありませんでした。聖書に名前の残る人々もそうですが、その働き人の中には名前すらも残らない多くの宣教者達がいたことでしょう。先の言葉において示されるのは、そのような人々が堂々と与えられた教えと福音、喜びの知らせを語る事ができたのは、そして勇気ある行動によって人々に示すことが出来たのは、この「聖霊」の働きによるものであるということです。そしてイエスは最後に27節「心を騒がせるな。おびえるな」と力強く語ります。「あなたたちを支え、導く存在はすぐそばにある」「あなたがたを一人にはしない」。そんな励ましの言葉が語られているのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「祈る時には」(5/25)
ルカによる福音書11章1~4節
イエスが教えられた祈りはとても簡潔な内容でなされております。そしてその内容は、決して高尚なものではなく、しかし、この地上で神に従い歩もうとする者にとっての必要を満たしてもらうことを願う祈りとなっております。第一の願いとして神の御名があがめられ、その御心が地上において行われる事が願われます。「み国」とは、「神の支配」を示す言葉であります。神の手が及ぶところとの理解をしてもいいかもしれません。神への呼び声が聞き届けられ、その助けの手がのばされることを願っていくのです。どこにいても神様が守ってくれるようにという願いです。そして次の願いとして挙げられる3節の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」との言葉はまさに、日々の生活に直結する願いであります。ルカによる福音書においては、貧しさにあえぐ人々に対して焦点を当てていくような描写、表現が多くなされます。イエス自身が貧しさにあえぎ、差別に苦しみ、弱さの中でうずくまる人々と共に歩まれていく姿や、その口から語られる教えに世俗世界における地位が神の国においては逆転していくとう思想など。そうした描写には現実に苦しむ人々が神によってまず救われる、そうあるべきだという信仰と願いが込められているように感じます。このイエスが教えられた簡潔な祈りにおいても「必要な糧」を願う言葉はより強い思いが込められているように感じます。特に「毎日与えてください」という表現の部分は原文を見ると切実な思いが強く込められていると感じさせられます。マタイにおいては同じ祈りを原文で見ると「今日、日々のパンを与えてください」となっています。それに対してルカにおいては「日毎に、毎日、パンを与えてください」となっているのです。先にこの祈りは神に対する絶対的な信頼においてなされていると語りましたが、マタイにおける「今日、日々のパンを」という表現は、神への変わらぬ信頼においてその日その日にあって生かされていくということを表わしているように感じられます。それに対してルカの「日毎、毎日」という言葉が重ねられて願われる祈りは絶えることなく、今日も、これから続く日々においても必要が満たされ続けることを強く願う思いが現れています。先に言いましたが、貧しくされるもの、地上における苦しみを強いられている人々の救いを願うルカにおいては、現実にその日一日の糧すらも満足に得ることが出来ない人々が存在しました。どうかその人々が報われんことをと、神が目を注ぎ手を伸ばしてくださることをと切に願っているのがこの「毎日」という表現からも伝わってくるのです。続く4節も弱さにあって間違えてしまう「罪ある存在」として自分の許しを、誘惑からの守りを願う言葉が切実に語られていく。このように簡潔な言葉で、短くまとめられた祈りには、短くとも人間の弱さに根差した切実な言葉が示され、さらに信頼において言葉にならない思いまでをもゆだねていく信仰が語られているのです。
(髙塚記)