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主日礼拝説教要旨
「再びの出会い」(4/)​

ヨハネによる福音書21章1~14

 今回の箇所における復活のイエスと弟子たちとの出会いの描写はルカ福音書に記される、イエスと弟子たちのはじめの出会いの描写を彷彿とさせるものです。夜通し漁をして何も捕れなかったペトロ達に対して、イエスがもう一度網を下すように言う。そして引き上げてみるとそこには網が破れそうになるほどの魚がかかっている。イエスが現れた時点では弟子たちはそれがイエスだということがわかっていませんでした。復活物語にはよくある描写です。弟子たちの心が神に対して、またイエスに対して閉ざされてしまっていることによって、目の前にいるのがイエスだと気づくことが出来ないのです。しかしこの再びのイエスとの出会い、奇跡との出会いを経験した弟子たちは目の前にいるのがイエスだと気づくのです。ペトロはイエスだということに気づくと、すぐに上着を着て、湖へと飛び込んでいきます。舟から陸までは「200ぺキス」、現在の値に直せば100mほど離れていたようです。ほかの弟子たちは、魚のかかった網を引っ張りながらすぐに舟で陸に戻ってきておりますので、そこまで遠い距離ではありませんでした。しかし舟が陸につくまでの間を待っていることも出来ないほどにペトロは急いでイエスの下へと向かうのです。この描写は舟や父、使用人たちを置いてイエスに付き従っていった、弟子たちの物語を彷彿とさせていく場面です。何をおいてもイエスの下へ、そんな思いに駆られてペトロは行動を起こしていったのです。そして、陸へと戻ってきた弟子たちとも合流したのち、イエスの促しに従い、イエスと食事を共にするのです。イエスは、パンと魚を取って弟子たちに渡していきます。これは生前のイエスと弟子たちが何度も共にした食事の風景であります。その時点ではもはや誰も「あなたはどなたですかとは問いただそうとは(12節)」しません。自分たちを招き、教え、導いたイエスが、「主」が今共にあることを弟子たちは「知っていたから(12節)」であります。弟子たちは一度はそれが恐怖や迷いによって見えなくなってしまいました。しかし、再びのイエスとの出会いによって、奇跡との出会いによって、立ち戻らされて、改めてイエスという存在を、自らの原点ともいえる存在を知らされていくのであります。そして、14節「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と語られます。イエスはくり返し弟子たちと出会われていくのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「わたしを愛しているか」(4/14)​

ヨハネによる福音書21章15~19

 復活のイエスとの再会とは弟子たちの裏切り、弱さによって途切れてしまった関係性をあらためて修復する「出会い直し」の出来事なのです。復活の描写で最初に弟子たちがイエスのことを認識できないことはこの「関係性」がリセットされた状態であることを示すことなのかもしれません。今回の箇所の「ヨハネの子シモン」というイエスの呼びかけ。これもまた、イエスとペトロの関係性がフラットの状態に戻っていることを示しています。これまで積み上げてきた関係性が、自らの弱さによって崩れてしまったこと、自らが捨て去ってしまったこと。その弱さをペトロは自覚させられて「悲しむ」のです。しかしイエスはそのように自らの弱さを自覚させて、罪を自覚させて断罪するために弟子たちの前に現れたのでしょうか。弟子たちの裏切りによってこれまで築かれてきた関係性はなくなってしまったと示すために来たのでしょうか。決してそうではありません。そもそも弟子たちは恐れのためにイエスから離れ去り、裏切り、見捨てました。イエスが弟子たちを捨てたわけではありません。イエスが弟子たちに「もうあなたたちは私の弟子ではない」といったことなどありませんでした。その自らの死の運命を自覚した最後の時でさえも「あなたたちは友である」と弟子たちに語ったイエスでした。だからこの関係性が崩れてしまったという状態は、弟子たちからの一方的な認識であったように思うのです。弟子たちは自分が裏切るような行為をしてしまったからもうイエスに合わせる顔がないと一方的に心を閉ざし諦めてしまっているだけなのです。そんな弟子たちに、ここではペトロにイエスはどのように声をかけられたか。ペトロに三度同じ質問として「私を愛しているか」と問われます。それに対してペトロは「私があなたを愛していることはあなたがご存じです」とペトロも三度応えます。イエスはこうしてペトロと積み重ねられてきた関係性、互いのことをよく知るその関係性を再度認識させるのです。そう、聞くまでもなくあなたは私を知っており、私もあなたを知っていると確認されるのです。そして最後に一言、19節「わたしに従いなさい」と言われる。この言葉は弟子たちがイエスに最初に出会ってそれぞれ言われてきた言葉です。イエスとの関係性の始まりの言葉です。こうしてまたあらためて、その関係性を再構築、積み直すように、イエスはこの言葉をかけられるのです。崩れてしまったと、崩してしまったと思うなら、また最初から積み重ねれば良い。共に生きれば良い。そういってイエスはまた弟子たちと出会い直し、招き直してくださるのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「心の目を開いて」(4/21)​

ルカによる福音書24章44~49

 心の目が開かれる状態というのは、イエスや神を受け入れるため、神と向き合うために必要なものです。弟子たちはイエスが十字架で亡くなってしまったという現実の前に、イエスと、また神と向き合い、共に歩む道から離れていこうとしてしまいました。神と向き合うことができなければ、そこに相互の関係は生まれず、神の愛も、救いも私たちは受けることができません。しかし、私たちは日々の暮らしの中で、思い煩いや、現実の苦しさの中で、心が閉ざされ、神に目を、また心を向けることができなくなってしまうことが多くあります。そのような状態であるときには、どれだけ神が私たちに手を差し伸べてくださっていようとも、語り掛けてくださっていようともその手や声に気づくことはできません。私たちと神の間に相互の関係性が、向き合い、与えられ、受け入れていき、感謝する。その相互の関係性は生まれえないのです。そのような相互の関係性が生まれるために働いてくださっているのが主イエスであります。その大きな愛によって、理解せず、自分本位な希望を映し出し、また、疑いの思いを持ってしまう弱さをもった私たちを、神と向き合い、その言葉と愛を受け入れることができるように私たちと神とをつなげる仲保者としての働きを担ってくださるのです。それは今日の聖書の物語で示されているように、私たちの心の目を開くことによって私たちが神と向き合い、受け入れていくことができる状態になれるよう促して下さるのです。

 弟子たちもまたイエスのこの促しによって心の目が開かれ、立ち上がり、不安とおそれを拭い去って、イエスのその生涯によって、十字架上での死とその後の復活によって示された福音を伝え広めるための歩みを進める力が与えられました。イエスの促しと支えによって、弟子たちにとって「恐れ」の象徴であった「エルサレム」はこの時、「希望」と「救い」の象徴へと変えられていったのです。また、イエスが捕まり殺された終わりの地「エルサレム」は、弟子たちが福音を携えて歩み出した「始まりの地」となっていったのです。恐れが勇気に、絶望が希望にイエスの復活という出来事によって塗り替えられること。それは恐れの場にこそ、不安の場にこそ、絶望の場にこそ光であるイエスの支えがあることを示しているのです。恐れや不安によって、また孤独や迷いによって、「心を閉ざしてしまう」その弱さにこそイエスは手を差し伸べて力と勇気を注いでくれると言うことが示されるのです。私たちも、この弟子たちがそうであったように、イエスによって、心の目を開かれ、神に繋がれることによって大きな愛を与えられていることを知っています。知らされています。そのことに感謝しつつ、励まされつつ、日々の歩みの中で、神と向き合い、聖書の言葉に聞く歩みを進めてまいりたいと思います。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「神に属する」(4/28)​

ヨハネによる福音書15章18~27

 18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」とのイエスの言葉。イエスは人々のために教えを語り、手を差し伸べて、導くための歩みをされましたが、結局それは人々に受け入れられず、拒絶され、排除されることになりました。この拒絶と排除は、イエスの働きや教えの正しさが自分たちにとって都合が悪いと感じられた人々によるものでした。イエスは常に神の前にあって正しく、人の前に立って良き道を指し示す存在でした。しかしそのあり方は、自らの利益のために、名声のために、民衆をだましたり利用したりしていた人々にとっては大変邪魔な存在となったのです。イエスの行いや教えによって民衆が正しき道に気付くこと、世のあり方の間違いに気付くことを恐れたわけです。18節でイエスが語るところの「世が憎む」とはそのような利己的なあり方、この世の地位や名誉に固執するあり方から拒絶・排除されるということを示すのです。イエスが語る教えは確かにこの世的な利益を追求するためのものではありません。時にそのような富に執着するようなあり方とは対立する場合もあります。そうしたとき、自らの立場を揺り動かされた、自らの価値を壊されそうになった人は反発してその空間から反発要因を排除するのです。イエスはここで「イエスに従う限りにおいては」このようなこの世的立場からの反発は避けることは出来ないと語っています。

 では、そのようなこの世に生きる弟子たちにイエスは何を語ったか。19節「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである」。この言葉はある意味で厳しい現実を突きつけるようなものになるのかも知れません。「世はあなたがたを受け入れない」。そう宣告されているようです。これは「この世的な価値観に執着するあり方」にとって拒絶される対象となるということです。この言葉によって明らかにされるのはただ「迫害を受ける運命」という事ではありません。これは弟子たちのひいてはヨハネ共同体や今現在を生きるキリスト者である私たちの自らの立ち位置を明らかにしていく言葉であるのです。「あなたがたは世に属していない」。これはイエスが示された道に従う者として、イエスに倣うものとして、「この世的な価値観に執着するあり方」から解放されているということを示しています。さらには「わたしがあなたがたを世から選び出した」と続く言葉は、弟子たちを初めとする、主によって信仰を与えられた私たちはこの世的立ち位置ではなく、イエスの守りの内に、神の守りの内に立たされているということを示しています。

​(髙塚記)

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