主日礼拝説教要旨
「キリストの言葉を聞く」(6/2)
ローマの信徒への手紙10章5~17節
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方をどうして信じられよう。また宣べ伝える人がなければ、どうして宣べ伝えることが出来よう」。これはキリストの福音がどれだけ素晴らしいものであったとしてもそれを伝える人がいなければ知られる事は無いということを示しています。パウロは異邦人、外国に対して中心にその福音宣教の活動を拡げて行ったと言われています。そしてこの手紙はローマという異教の神を信ずるギリシア世界の中心都市にあてて記されています。そのローマにも当時キリスト教徒の共同体があったと言われています。そこで信仰を同じくして異教の地で信仰を育んでいる人々に励ますような言葉を語るのです。ローマという異教の地であってもキリストの福音を語るものがいればそこには必要な種が蒔かれていく。宣教活動にあって、その種まきの活動をしている人々を祝福するのです。その芽というのはいつ芽吹くのかはわかりません。いつまで経っても芽吹かないこともあります。その危惧を実際パウロも語ります。16節「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」。この言葉はユダヤにおいても福音を聞きながらそれを受け入れる事が無かった人々がいたことを示しています。活動を頑張って続けてもそれが拡がっている、受け入れられているという実感を得ることが出来ないことは当然あるとパウロは語るのです。それでも、そうであったとしても、福音が、「キリストの言葉」が宣べ伝えられなければ何にもならないのです。だからこそそのような場所で「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と表されるのです。土埃が舞い、ゴロゴロと大小の石が転がっている。そんな山の中を歩けば足は汚れ、場合によって傷だらけになるかも知れない。しかしなおその足は美しいとここでは語られているのです。この「汚れて傷だらけになってなお美しい足」は、ここで困難の中にあってなお「福音を宣べ伝える」ことを続ける人々の働きに重ね合わされているのです。宣教の働き、その道は平坦なものではなかったでしょう。様々な困難が拡がり、山を登るように苦しく、谷底を歩むように寂しくつらいような状況も多くあったことでしょう。それでも自ら語る「喜びの知らせ」、「福音」の言葉に励まされてその足は歩みを止めることなく進んで行く。「わたしは一人ではない」。それはイエスが語り示してくださった事です。それは信じるにたる「キリストの言葉です」。だから私たちは、当時の宣教者たちは「あなたは一人ではない」と語る事ができたのです。敵を前にしたとしても、「あなたを愛している」と語る事ができたのです。それをなさしめるのが、そのように私たちを押し出していくのが「キリストの言葉」であるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「空の鳥、野の花」(6/9)
マタイによる福音書6章25~34節
「自分の命の事で何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体の事で何を着ようかと思い悩むな」と語られておりますが、ここであげられる思い悩みについて、L.ショットロフ、W.シュテーゲマン著『ナザレのイエス、貧しい者の希望』という本の中では、「日雇い労働者たちの心配事と金持ちのそれとは同じものではない。日雇い労働者は生存のために必要最小限のもののために心を労さねばならない。ここで語るのはほかでもないまさにこの根源的な心配についてなのである」と語られます。「その日、あるいは明日、何を食べ、何を飲み、何を着るのか」。これらは、当時のユダヤにおいて、貧しさの中にあり、たくわえを持つ余裕のなかった人々にとって、自らの存在をおびやかす、大きな心配事であったのです。しかしこのような心配に対してイエスは、26節「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」と語っていくのです。このようなイエスの言葉に対し、ショットロフとシュテーゲマンは「これらの訓言は神の力と配慮に無条件に信頼する態度を要求」していくと語ります。自らの目の前、現実の大きな悩み、不安に対して、私たち人間は前に続く道が閉ざされてしまったかのような思いに陥ってしまうことが時にあります。それは、これから先がどうなるかわからないような状況、目の前の事態に対して自分がどうすればよいのかわからない状況、そのような時に前へと進むための光が失われ、立ち止まり、うつむいてしまうのです。しかし26節の「種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない鳥をも神は養ってくださる」とのイエスの言葉は、神はその存在を受け入れ、必要をすべて備えてくださるということを示し、だから神に信頼し、ゆだねて、歩みを勧めて行きなさいという力強い励ましでもあるのです。このようなイエスのメッセージはその柔軟な感性による自由な自然理解、神理解の中から語られていくものであります。神の存在を柔軟に受け入れ、日々の日常の出来事から、そこに神の働きを見ていく。そして素直な受容と感謝をもって、信仰としていく。そのようなイエスの姿もここで私たちは学ばされるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「まことの礼拝」(6/16)
ヨハネによる福音書4章19~24節
正統的な信仰を受け継ぐというユダヤ人達は「エルサレムの神殿での礼拝」が正しいものであって、「サマリア人が建てた神殿での礼拝」は正しくないと主張していました。そんな状況に対してこの女性は、場所の隔てによって、また人間的忌避感という隔てによって神と断絶させられていくのかと訴えているのです。その訴えに対してイエスは21節で次のように答えていきます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで父を礼拝するときがくる」。イエスはこの答えにおいて、神を礼拝するということは、「場所にとらわれていくものではなくなる」と宣言されるのです。またその後、23節においては「まことの礼拝をするものたちが、霊と真理をもって父を礼拝するときが来る」と続けられます。そしてそれは神御自身が求めておられると語るのです。これを語るとき、イエスはユダヤ人やサマリア人について言及しながらもこの「まことの礼拝をするものたち」について限定された民族としては語りません。イエスは神への礼拝が「場所」を限定された状態ではもはや行われなくなると語ります。さらに続けて示される言葉によって、それが「場所」だけでなく、「民族」、ユダヤ人なのかサマリア人なのか、あるいは異邦人なのかに関係なく行われていくようになると提示するのです。では「まことの礼拝」においては場所でも血筋や伝統でもなく何が重要なのか。24節です。「神は霊である。だから、神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。イエスは「礼拝」において重要なのは、社会的・外面的・この世的要素ではなく、自らの内、内面的・本質的要素であると語ります。この「霊」とは「プネウマ」というギリシア語の単語が使われていますが、これは人間の存在の根本、その中心を意味する言葉です。そして「真理」とは「アレテイヤ」、「まこと・真実」とも訳しますが、「そのままの姿」「ありのまま」という意味を持っています。そこから解釈するならば、礼拝において重要であるのは、豪華な場所や着飾った身体、人間的に清めた姿や偽善的な行い、社会的地位や伝統的血筋などではなく、ただ神の前に自らの存在そのもの、なんら隠し事をせずにすべてをさらけ出して神の前に投げ出すようなあり方であると言うのです。社会的背景など関係ない。場所も関係ない。ただありのままの隠し事も着飾りも一切しないそのままの自分を神の前にさらけ出して神に願う、神を求めることが大切であるとイエスは教えるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「自分で聞いて」(6/23)
ヨハネによる福音書4章39~42節
40節において、イエスの事を信じたサマリア人たちがイエスのもとに来て自分たちのところに留まってほしいと願います。この「とどまる」という言葉ですが、これは単に自分たちの所にいるとか、ただ一緒に過ごすという意味だけを示しているのではありません。この「とどまる」は、「自分たちとの繋がりを保ってほしい」「関係をつないでほしい」ということを願う行動です。そしてこの願いにイエスは応えてさらに二日間サマリアの町に滞在しました。41節にはその出来事があって「さらに多くの人々がイエスの言葉を聞いて信じた」と語られて行きます。この二日間の滞在においてイエスは、これまでと同様に、また他の場所でもしたように、大いに教えを語られたということがよくわかります。そしてここで「さらに多くの人々が」と記されているのは、先の女性の言葉を聞いて「信じた人々」とは別に増えたというニュアンスと共に、先に信じた人たちもさらに深く信じたという意味合いがあります。二日間の滞在においてイエスはその言葉を語り、ここでサマリアの人々とより関係を強固に結ばれたのです。サマリアの町の人々の「とどまる」「関係を繋げる」という願いを最大限叶えていくのです。そして重要なのがここの最後の言葉。42節。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです」と語ります。サマリアの町の人々は、女性から話しを聞いてイエスに関心を持ち、関係をつなぐことを願いました。そして実際にイエスとの出会い、語られる言葉との出会いを経て、真実に信じる者とされて行きました。それは、前の箇所で、人を避けるように生活していた女性がイエスとの出会いによって大いに変えられていったのと同様の出来事です。イエスが語る教えの言葉を「自分で聞いて」、その言葉を通じて真実のイエスとの、また神との出会いを人々は経験していくのです。イエスとの出会い、言葉との出会い。それはその先にいる、つながって存在している神との出会いの経験です。だからこそ、「自分で聞いて」というのはとても大切なポイントとなるのです。もちろん、神との出会いを経験した女性の証言に触れることも、サマリアの町の人々にとっては大変重要な出来事として刻まれました。その証言の先にいるイエスや神との出会いが与えられるような思いがあったことでしょう。しかしその出会いにとどまることなく、実際にイエスを求めて、言葉を求めていきます。そして自らの身をもって、自らの耳で、身体で、その言葉との出会いを経験することが出来たのです。そのことによって「さらに多くの人が」「より深く」信じさせられていったのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「豊かさに満たされて」(6/30)
コリントの信徒への手紙二8章1~15節
9節ではキリストの恵みについて語られます。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とイエスの業について語ります。「主は豊かであったのに貧しくなられた」とは、神の独り子でありながら、この地上に人として生まれ、人と同じように生き、その苦難の道を歩まれたことを示しています。そしてその生涯がすべて、人の罪のため、またその罪を持つ人が皆救われるためのものでありました。このキリストが貧しくなられたことによって与えられた大いなる恵みは今まさに私たちのうちに与えられ、生き生きとあふれているのです。
コリントの共同体の人々はその教会成立の際には多くが貧しい人々であったといわれております。その中には奴隷もいたと報告されております。しかしそのコリントの人々をさしてパウロは7節で「豊かなのです」と語ります。この豊かさとは、この世的な、経済的な「豊かさ」を示すものではありません。7節では豊かさについて「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛」のすべての点で豊かであると説明されます。この「豊か」とここで訳される単語、原語のギリシア語では「ペリッシュマー」が使われておりますが、これは「祝福」とも訳すことが出来るものです。あるいは「満ちあふれる」となります。コリントの人々の内にあるキリストの愛の業によって与えられたその「豊かさ」、「満ちあふれる」ものは、「祝福」であることがこの単語からも示されています。そしてこの「祝福」とは人から出るものではなく、パウロが9節で語っているように「主イエス・キリストの恵み」によるものであるのです。これは決してこの世的な、パウロ的に語るならば「肉的な」ものではないのです。このあふれ出る恵み、祝福は我が身の内に与えられ、そしてそこからさらに広げられていくべきものであるということが、ここで示されるのです。7節でも「慈善の業でも豊かな者になりなさい」と語られるように、この愛に促されて行動していくことによって、この与えられた「祝福」に応えていく者とされていくのです。
(髙塚記)