主日礼拝説教要旨
「キリストによる裁き」(7/7)
ヨハネによる福音書5章19~27節
神は私たちが模範とするべき、また私たちのことを本当の意味で、経験と言うことも含めて理解してくださっている、イエス・キリストに「裁きのための権能」を与えられました。21~22節に「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と語られている通りです。27節には神がキリストにこの「裁きのための権能」をお与えになった理由が簡潔に記されています。「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」。ここで言われている「人の子」。他の箇所でも何度か用いられる表現です。他の所においてこれは「キリスト」を指す言葉として理解する場合もありました。しかし、「人の子」とは本来、その字に示されているように「人間」であるということを意味する言葉です。イエスが頻繁にこの言葉を使って自らの事を表現したので、「人の子」イコール「キリスト」という理解が生まれましたが、今回の箇所においては、この「人の子」はまさに「人間」であるということを意味しているのです。そして「人の子だからである」とは、イエス・キリストが本当の意味での私たちの理解者であり、模範とするべき存在であるということに起因する言葉なのです。イエスが、キリストがそんな存在であるからこそ、「人を裁く」に適任であると神は判断するのです。初めの19節には「父がなさることはなんでも、子もその通りにする」と語られています。この「父がなさること」や後に示される「お遣わしになった方の御心」とは、旧約から通して示され続けている、人間が正しく生きる事が出来るように、悩みながら、なお諦めず関わり続けようとされた神の行い、思いを指しています。神の人としても正しくあられたイエスは、その神の思い、願いを受け継いでそれを十全に反映させる働きをなします。そしてそれだけでなく、人の弱さもまた本当の意味で理解し、その弱さのままに神のもとに立つことが出来るように道を整えられていくのです。それが、双方の立場に立つことが出来る、全き神であり、全き人であるイエス・キリストのあり方なのです。だからこそ、「人の子だから」こそ「裁き」を行うのに適任であると神によってその働きを委ねられていくのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「苦しいときの神頼み?」(7/14)
使徒言行録27章33~44節
「苦しいときの神頼み」的な神に対する願いや祈り。日常的に行われている願い事というのは、何もしないですべてを神任せにして放り投げるというわけではないかと思います。先ほど言ったことわざのほかに「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。これは自分にできるすべてのことをして、準備をして、そのうえで、天から与えられる運命を待つということです。受験の成功を祈るときも、なんらかの成功を祈るときでも、病からの回復を祈るときでも、何もせずにただ祈るわけではないと思います。自分にできる限りのことをしたうえで、「どうかそんな自分に報いる結果を出してください」と祈っていく、願っていくのです。私たちは完璧な存在ではなく、弱さもあって、間違いもして、欠けがあるそんな存在です。だからどんなに頑張ってみても、どんなに努力してみてもなかなか届かないような時もあります。完璧にこなすことが出来ない時があります。そこで挫折みたいなものを味わってしまうこともあります。ここから先に進めないんじゃないかと絶望してしまいそうになります。自分にできる限りのことはした。それでもあとちょっと足りなそう、まだ不安がある。そんな足りないところ、不安な気持ち、負けてしまいそうな気持を、自分がやってきた、頑張ってきたことを含めてすべて神様にゆだねる。この先どうしようもないと思えることもすべて神様にゆだねる。「精一杯のその先」、自分ではもはやどうすることも出来ない所の「神頼み」。そこには大きな意味があると思わされるのです。
今回の聖書箇所に示されたのもまたこの「精一杯のその先」を神に委ねるというものであったと思います。生き残るために出来る限りの事をして、その先に後、人の力ではどうすることも出来ない状況があっても、「きっと神が助けてくれる」という信頼において、自らの内にある不安も恐れも委ねていく姿が示されているのです。私たちも現代において教会の働きを担っていくとき、その与えられた使命を果たそうとするときに大きな困難を感じるときがあります。出来る限りを頑張ったけれども、どうしても不安が残る。たくさん考えたけれども、こべりつくように残ってしまう恐れによって一歩踏み出すことが出来なくなってしまうことがあります。そんな時に。精一杯のその先の、これ以上どうすることも出来ないという「苦しいときの神頼み」をすることが大切なのではないかと思わされるのです。最後のところで、後は神に委ねていく。不安も恐れも委ねて、最後の一歩を踏み出す勇気を与えられていく。パウロ達が最後に食料を捨てたように、私たちもまた教会の働きを大胆に行っていくための一歩を踏み出す勇気を求めて、神の支えを祈りたいと思うのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「キリストゆえの義」(7/21)
ローマの信徒への手紙4章13~25節
今回の最後の言葉25節。ここの言葉がこのパウロの主張の中心格となります。「イエスはわたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」。前半部分にある「わたしたちの罪」とは、人間の本質にある「弱さ」です。神から離れ、正しくある事ができない。正しくあろうとしてもどうしても出来ないという矛盾を抱える。それがわたしたちの弱さ、「罪」です。その弱さ、罪をイエスはわたしたちの代わりに背負い、本来わたしたちが受けるべき「報い」をその身に受けられるのです。その上で、イエスの生涯の歩みと神への従順ゆえに神はイエスを復活させられます。このイエスの死と復活においてわたしたちの罪の赦しがあるということをパウロは示します。わたしたちの弱さのために死に、わたしたちが神の前に立つために復活されたイエス。このわたしたちと神との間に立ってくださる存在がなければわたしたちは「義」とされることはないとパウロは語っているのです。イエスが弱さを担うからこそ、そのイエスと共にならば神の前に立つことが出来る。そのしるしはイエスの復活によるのだと。だからこそパウロは置くべき信頼の先を「主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば」と語るんです。ただ「神を信じる」のではない。イエスという存在ゆえに、キリストという存在ゆえに救いの道を開かれた「神を信じる」のです。「信頼」するんです。わたしたちの信頼や信仰といったものは、絶対的に揺らがないというものではありません。今もなお、わたしたちの本質には弱さがあります。神を信じる心は時に揺らぎ、時に疑いを抱きます。しかしそんなわたしたちと共に神の前に共に並んで進み出てくださる方がいます。それがわたしたちの弱さを担ってくださるイエスです。罪の束縛にあって、わたしたちは到底自らの力では神のもとにまでのぼることは出来ない存在です。そんなわたしたちが神の前に立つにはどうすれば良いのか。その方法はただ引っ張り上げてくれる「キリスト」という存在を「信じ、信頼」するのだとパウロは語るのです。わたしたちが何をしたから正しいのではない。ただ「キリストゆえに」「義」という所に引っ張り上げられているということを今この聖書から知るのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「ふさわしくないままで」(7/28)
コリントの信徒への手紙一11章23~29節
23~26節の「主の晩餐の制定」の言葉は、共同体における「食卓」にどのような意味があるのかと言うことをあらためて確認するものです。食卓で共有される「パン」と「杯」はキリストの死、十字架の出来事を思い起こすものであり、また自らの罪が赦されるというその約束を覚えるものであることが示されます。そうした大切な儀式という側面を持つ食卓につくために重要な事柄、心構えなどが後に語られるのです。27節「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」と語られます。ここの「ふさわしくないままで」という言葉が時に誤解されるような解釈で語られる場合があります。「ふさわしくない」とは、信仰の深さとか清い姿であるとか、その人自身の性質としての「善」や「悪」に対して言われているものではありません。そもそもこの晩餐の儀式は、人間の罪が赦されるというその喜びを覚えるものであって、そこに与る人間は、みな誰もが変わらず「罪」という弱さを抱えているのです。だから信仰にあつければならないとか、宗教的な汚れを持っているとか、そうした事柄はまったく関係ないのです。この「ふさわしくない」とは、先にお話しした身分の違いによる溝にかかわることを指しているのです。すなわち、後から来る信仰の同労者の事を省みることもせずに、自らの欲求に従って振る舞うことを指しているのです。食卓を共有するというのは先にも確認したように、それぞれの罪の赦しを覚えるための大切な儀式の要素を持つ時です。にもかかわらず、自分勝手な振る舞いをして、その恵みに与る機会を他者から奪うようなあり方は、本来の意義を失わせる行為に他なりません。28節「だれでも、自分の事をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」とは、自分の振るまいが他者をないがしろにするものではないか、イエスが人のために、他者のために命を捨てられたことを思い、自らもまたイエスに倣って他者のためにある事ができているのかと言うことを省みるべきだという教えです。そして29節。「主の体のことをわきまえずに飲み食いするものは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と語られるように、他者と共にというあり方を理解せず、振る舞うことは、神の望まれるあり方ではないと示されるのです。主の身体たる教会、共同体において、他者を省みないようなことはあってはならず、他者の思いに立ち、自らの欲求に従うのではなく、「共に支え合い、助け合い生きていく」と言うことをあらためて身に刻むべきだと語るのです。
(髙塚記)