説教要旨
「羊の名を呼ぶ」(5/1)
ヨハネによる福音書10章1~18節
10章1節からで語られる「羊の囲い」のたとえで「羊飼い」はその囲いの中から自分の羊の名を呼んで連れ出していきます。これはイエスが、自らの元へと集まってきた、そのしるしを信じて、その言葉を信じて集まってきた人々を、その一人一人を、覚え、そのうちに抱き、導いていかれるということを表しているのです。こども賛美歌に「ひとりひとりの名を呼んで」という賛美歌があります。その曲の一番ではこう歌われています。「ひとりひとりの名をよんで、愛してくださるイエス様。どんなに小さな私でも、覚えてくださるイエス様」。この賛美歌に歌われるように、無力で、導く存在がなければどこに進んでいいかもわからなくなってしまう羊のような私たちのことを、イエスはその一人一人を大切にして、愛してくださっているのです。イエスという開かれ、招く門を通り、さらに、そこから、イエスという「良い羊飼い」に名を呼ばれて、ともに歩むことが許されていく。その幸いがこのたとえによって語られているのです。
福音書とあわせて読まれました箇所。詩編23編は大変有名な箇所で、また、神への信頼をうたった素晴らしい詩であります。ここでは、どんな苦境に立たされようとも、それこそ「死の陰の谷をゆくときも」「敵を前にしても」神によって導かれ、守られるとの信頼が語られていきます。そしてこの絶対の信頼は人生という旅路を歩む旅人の神に守られた安心感をも表現しています。「良い羊飼い」「主」によって導かれ、守られていくこと、その行く道にすべてが備えられていること。その安心感の中で、全幅の信頼を持って、その歩みを進めていく姿が示されていくのです。この導く存在への信頼は、今日のヨハネ福音書によるたとえによって、イエスが私たちの良い羊飼いであられることを示され、今この物語を読む私たちにも与えられているものであります。イエスの導きに自らを委ねつつ信頼を持って歩むことの大切さが示されていくのです。
(髙塚記)
説教要旨
「先行する愛」(5/8)
ヨハネによる福音書13章31~35節
ユダやペトロは罪から免れることの出来ない存在の象徴であります。私たちもまた、多くの間違いを犯し、神の心に背き、迷い惑う存在であります。そして時にイエスから、神から離れて行って、目を背けてしまうこともあります。それでも、イエスは「わたしがあなたがたを愛した」と語られているように、そのように罪から免れることの出来ない存在をも愛され、そのために、苦しみを受け、十字架での死を受け入れられて行くのです。その結果たとえイエスに返されるものが、裏切りや離反であったとしても、見返りを求めることをせずに私たちにそのすべてを与えていかれるのです。私たちはイエスの歩みによって救いが与えられることを聖書の言葉より知らされております。また、様々な人生の歩みの中での備えられた出会いが与えられます。そこで私たちは知らされます。「イエスが私たちを愛しておられる」と。「神が私たちを愛しておられる」と。何も返すことの出来ない、それどころか目を背け、道を踏み外してしまう弱さを持っている存在である私たちをイエスは、神はなお「愛しておられる」と知らされるのです。この「愛」は何の見返りを求めることのない「無償の愛」であり、また、私たちが神を知る前にはすでに与えられている「先行する愛」であるのです。神にとって私たちは生まれたばかりの赤子のように無力な存在であります。しかし神はイエスが生涯においてそう示してくださったように、子を守る母のように私たちの手をひき、支え、必要を与え、その道を歩ませてくださいます。私たちはこの「先行する愛」、すでに与えられた愛に気付かされたとき、そこに感謝を持って、信仰を与えられていくのです。イエスは決して私たちを見放すことなく、「愛している」と語ってくださいます。その「愛」という、イエスは、神は見放すことはない、見捨てることはないという「希望」をもって日々の証しする歩みを進めて参りたいと願います。
(髙塚記)
説教要旨
「イエスを通して」(5/15)
ヨハネによる福音書15章1~17節
今回の聖書の箇所の前半部、1~10節では、「ぶどうの木」のたとえが用いられつつ、その教えが語られていきます。1~2節には次のようにあります。「わたしはまことのぶどうの木。わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる」。ここでは、イエスが「ぶどうの木」として例えられて、イエスの言葉を聞く者がその「枝」であると語られていきます。まず注目いただきたいのが、2節の「わたしにつながっていながら」との言葉です。この言葉は直訳で見るならば「わたしの中の枝で」となります。この新共同訳の「つながっていながら」との訳はぶどうの木につながる枝というイメージから意訳された言葉であり、その後の4節の「わたしにつながっていなさい」という言葉に連想されるからこのように訳されたと思われますが、しかしこれでは本来の意味が見えづらくなります。ここで「つながる」と語られる言葉は、こちらも少し意訳であり本来「留まる」ですが、この言葉はある種の積極性を見せる言葉であります。イエスに対して主体的に自らつながろうとする、イエスの中に留まろうとする姿勢をこの4節では、「わたしにつながっていなさい」という言葉において語られているのです。しかし2節の言葉もこの命令において語られるように「つながっていようと」しているのに、実を結ばなかったら切り捨てられてしまうような印象を受けます。しかし、そうではない。イエスはすべての人を自らのもとに招かれました。そして罪ある状態の、十全にイエスに従うことが出来ない弟子たちすらをも「わたしの友である」と語ってくださいました。そこから考えるならばすべての人がイエスにつながる枝としてあるはずですが、しかしそれでもその招きに応じず、自ら離れ去る人々のことを指して、実を結ばないものであると語られているのです。では、実を結ぶとはどういうことか。聖書において語られる、「愛」。イエスから、また神から与えられる愛は、私たちに対して無条件に、先行して与えられていくものであります。これは繰り返し語って参りました。そしてこの愛とは、ただ一方的に与えられて終わりというものではありません。この愛はそれを受け取った人がその愛に気付き、そしてそれに応答していくことで豊かに働いていくのです。私たちは誰しもがイエスの中に招かれています。大きなイエスの愛に抱かれております。その恵みに気付き、自らがその愛に留まろうとすること、そしてイエスが12節で語られる「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟の通りに、与えられた愛をさらに豊かに拡げていくための働きに用いられていくときにイエスと私たちの間に相互の行き来する関係性が生まれていくのです。私たちがつながるイエスから豊かな神の愛が注がれて、それに応答する思いを持ってその愛を拡げていくことによって、豊かな実を結んでいくのです。
(髙塚記)
説教要旨
「心の中のうめき」(5/22)
ローマの信徒への手紙8章22~27節
パウロはこの希望を待ち望む私たちの姿勢として、23節において「心の中でうめきながら待ち望んでいる」と語ります。ここで「うめき」と訳される言葉は「ステナゾ-」というギリシア語ですが、「うめき」の他に「ため息」という意味がございます。私たちは「ため息」と聞くとマイナスなネガティブなイメージを抱くかも知れません。わたしが好きな歌手の歌に「あぁ」というものがあります。そのさびではこう歌っています。「暗闇をずっと、さまようの。どこかに潜む強さを探し続けて」、「溜息で遠く吹き飛ばせ。やるせない思いは夜空へ解き放てばいい」。暗闇にあって、さまよい続けてもどこかに強さが、光があることを求め、また、ため息という一見マイナス思考にも思えるものに、自分の暗い感情をこめて夜空へと解き放っていく。自分の他者には吐き出せない、そんな弱さもため息と一緒に解放されていくような、さらに、その先に、これからまた歩み始められるような強さを求めていく、そんな励ましを与えてくれるメッセージが込められています。今日の箇所のすぐ後26節には次のようにあります。「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。自分の心の中にあるよどみのような思い。ため息として出てきてしまうような、言葉にも言い表すことの出来ないような悩み、つらさ、困難。それらすらも私たちの内に働く霊によって、祈りとして神が聞き届けてくださる。そのこともまた、「希望」「勇気」として私たちを力づけてくれることがここで示されているのです。
このパウロの励ましを私たちもまた、現代の困難を生きる者として受けながら、どの様な時にも「希望」を携えて、「勇気をもって」、この証しする歩みを進めて参りたいと思います。
(髙塚記)
説教要旨
「あなたがたと共にいる」(5/29)
マタイによる福音書28章16~20節
弱さを持つ私たちに対してイエスはここで語られている宣教命令によって派遣するだけではなく、続けてこう語って下さるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この言葉から思い出されるのはマタイ福音書のイエス誕生物語で天使が語った言葉であります。マタイによる福音書1章23節「その名はインマヌエルと呼ばれる」。「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味の言葉です。イエスはその生涯においてこのような社会から疎外されていった人々に寄り添い、その苦しみ、悲しみを共有し、多くの言葉と行いを持ってこの人々を救われました。時にイエスが言葉をかけることによって、時にその苦しみに共感し寄り添うことによって、時に手を触れいやすことによって。社会から疎外された人々に「あなたは一人ではない」「あなたと共に神はいてくださる」と示して下さるのです。このイエスの言葉と行いは、ただの癒しでもただの慰めでもありません。すべてから孤立させられてしまっているように思ってしまっている人々に対して他者との関係の回復、また神との関係の回復を与えるものであるのです。この生涯において示された、体現された人々に寄り添う神の姿、私たちとともにいてくださる神の姿。このイエスの歩みによって「神ともにいまし」との言葉が証明されているのです。そして改めて復活のイエスの言葉として「あなたがたと共にいる」と語られることによって、弟子たちは、また私たちは疑いの思いを捨て新たに歩みを進めることが出来るのです。
教会とはキリストの体であると言われます。使徒パウロもその書簡の中で、この地上において宣教の業をなす使命を負った教会に集う一人ひとりはそれぞれの役割を持ったキリストの体であると語ります。このキリストの体との表現はただ比喩として、それぞれの役割の違いを示すために用いられるだけのものではありません。キリストの体とは、キリストを中心、頂点として、キリストを信ずる私たちがつながっているということを示しているのです。キリストにあって私たちが一つであるということを示しているのです。人に共感し、寄り添い、共に歩んだその生涯によって神は共にいてくださるということを示してくださいました。そして、十字架上での死とその後の復活によって、イエスは神と人との間の架け橋、神と人とつなぐ存在となられました。さらにはこの復活されたキリスト・イエスを通して祈りを、思いを一つとすることが許されています。
(髙塚記)