説教要旨
「人を用いて」(6/5)
使徒言行録2章1~11節
聖書によればその昔、人々は同じ言語を扱っていたといわれております。バベルの塔の物語であります。この物語では神が人々の言語をばらばらに混乱させることによって、人々が散り散りになっていく姿が描かれています。そうして散り散りになっていった人々がまた、一つとなることが出来るように、キリストによって一つとされるために、福音宣教が始まります。それではばらばらの言語をもう一度一つにするという奇跡でもよかったのではないかと思ってしまいます。そうすればすべての人に同じ言葉で福音を伝えることが出来ます。しかしそれはされなかった。言葉が通じることよりももっと重要な点があるのです。半端に言葉によってつながりを得るのではなく、本質的な、つながり。心のつながりを得るために「愛によって一致」していくことが重要であるのです。キリストの愛が、すべての人々に注がれる愛が、それぞれの土地で、ゆっくりと、しかし確実に伝わっていくためにこの弟子たちがさまざまな国の言葉で語りだすという奇跡が示されたのです。言葉よりも重要な「愛」によって人々が一致していくことによって、「バベルの塔」の物語で語られるような人々の間違いはもう起きることはなく、そして、人のために生き、そして死んだイエスのように、私たちも歩んでいくことが出来るのです。その寄り添い、歩み寄り、語り掛けていく。その姿がこの奇跡に示されているのです。
そしてこの聖霊降臨の物語で大切なのは、神がその力によって、裁きを与えたり、奇跡を行うことで人間を一つにすることを目指したのでは無く、「人を用いて」その業をなそうとすると言うことです。福音書に語られる弟子たちの姿。またイエスを賞賛しつつ、急にその態度を変えて十字架へとかけていった人々の姿。それらを見ていると、やはり人間の弱さというのは変えがたいものであると思わされます。それは私たちも同様です。現実の様々な困難や苦難を前にしたとき、あるいは逆に成功を体験したときなどは、神の存在を忘れ、道に迷い、立ち止まってしまったり、自らの力を過信して神に頼る思いを失ってしまう時もあります。そんな弱さを持つ私たちを神はそれでもこの業のために用いようとしてくださっているのです。何度も間違えるかもしれない、道に迷うかもしれない。しかしそれでも、神は赦し、正しい道へと引き戻し、また歩み始められるようにしてくださるのです。そして、神の備える道を歩むための、また、福音を伝えるための力を私たちに授けてくださるのです。それが、この聖霊降臨の物語によって示されていくのです。
(髙塚記)
説教要旨
「神の子とする霊」(6/12)
ローマの信徒への手紙8章12~17節
「霊」の働きは私たちを神の御前に立ち帰らせるだけの働きで終わることはありません。私たちは、「神の子とされる霊を受けた」と言われます。聖霊を受けるとは、「神の子」とされることであるとパウロは語ります。イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というみ声があったといいます。ただそれはイエスにだけ語られたみ言葉ではありません。わたしたちもまた神の招きに気付かされたとき、イエスと共に、同じみ声を聞くのです。「神の子」とされるというのは、何も特別な、人間離れした超人になるのではありません。霊を受けたことによって完璧な人になるのではありません。イエスが聞いたのと同じ言葉を、神から聞くことができるようになるということです。「あなたはわたしの愛する子」という神の言葉を。ありのままのわたしを、愛する子、喜びだと言ってくださる。この言葉を聞くことが出来るのです。私たちはパウロに言うところの「肉に従い、死に向かって歩むだけの存在だった」にも関わらずこのみ言葉によって、私たちは、神のみ前に立つことが赦されていくのです。聖霊は「奴隷として恐れに陥らせる霊ではなく」とパウロは言います。聖霊の働きがどのようなものかについて、端的に語られています。おそらく私たちの一番の課題がここにあるだろうと感じます。人間は弱い存在であり、自然の驚異、天変地異など自分の力ではどうにもならないことに対する恐れ、不安があります。また現在の感染症や戦争による先行きの見えない不安にとらわれていくことがあります。人生の過ぎ越し行く末、まだ見ぬ未来。ところが問題は、恐れに陥ってしまい、がんじがらめになって、まったく動けなくなってしまう。あるいは恐れのあまり堂々巡りしてしまうことです。山で遭難し、自分力で何とかしようとして、体力を使い果たしてしまうのと同じことです。しかし私たちは恐れの極まるその時に、神の霊によって、「アッバ、父よ」と叫ぶことが赦されています。おそらく、これが私たちにとって、人生の最初から最後まで、変わらず、失われることのない真の力であるといえます。「アッバ」、主イエスが、そのように祈ることを教えられた。神をこれ以上近くに、これ以上親しく、呼びかける言葉は他にありません。どんな時も、私たちは、神に、近くに親しく呼びかけることができる。そして私たちが「アッバ」と呼ぶときに、霊はわたしたちと共に神に呼びかけてくださるのです。私たちの根底において、私たちが歩むための導きを与え、また、この身を神の子として変え、ともに神に呼びかけてくれる存在。その支えの要と言える存在が聖霊であります。
(髙塚記)
子どもの日(花の日)合同礼拝説教要旨
「空の鳥、野の花」(6/19)
マタイによる福音書6章25~34節
マタイによる福音書6章25節からの記述は、5章から始まる「山上の説教」というイエスの教えの中で語られた言葉です。ここでは、空の鳥や野の花に目を向け、そこから神の守りや支えを見いだしていくイエスの柔軟な感性による教えが語られていきます。「自分の命の事で何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体の事で何を着ようかと思い悩むな」と語られておりますが、ここであげられる思い悩みについて、『ナザレのイエス、貧しい者の希望』という本の中では、「日雇い労働者たちの心配事と金持ちのそれとは同じものではない。日雇い労働者は生存のために必要最小限のもののために心を労さねばならない。ここで語るのはほかでもないまさにこの根源的な心配についてなのである」と語られます。「その日、あるいは明日、何を食べ、何を飲み、何を着るのか」。これらは、当時のユダヤにおいて、貧しさの中にあり、たくわえを持つ余裕のなかった人々にとって、自らの存在をおびやかす、大きな心配事であったのです。しかしこのような心配に対してイエスは、26節「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」と語っていくのです。このようなイエスの言葉に対し、先の本では「これらの訓言は神の力と配慮に無条件に信頼する態度を要求」していくと語ります。自らの目の前、現実の大きな悩み、不安に対して、私たち人間は前に続く道が閉ざされてしまったかのような思いに陥ってしまうことが時にあります。それは、これから先がどうなるかわからないような状況、目の前の事態に対して自分がどうすればよいのかわからない状況、そのような時に前へと進むための光が失われ、立ち止まり、うつむいてしまうのです。しかし26節の「種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない鳥をも神は養ってくださる」とのイエスの言葉は、神はその存在を受け入れ、必要をすべて備えてくださるということを示し、だから神に信頼し、ゆだねて、歩みを勧めて行きなさいという力強い励ましでもあるのです。このようなイエスのメッセージはその柔軟な感性による自由な自然理解、神理解の中から語られていくものであります。神の存在を柔軟に受け入れ、日々の日常の出来事から、そこに神の働きを見ていく。そして素直な受容と感謝をもって、信仰としていく。そのようなイエスの姿もここで私たちは学ばされるのです。
(髙塚記)
説教要旨
「霊の助けによって」(6/26)
コリントの信徒への手紙一12章1~11節
今回の聖書の箇所、コリントの信徒への手紙には、「同じ一つの霊によって、知恵の言葉や、知識の言葉、預言する力、奇跡を行う力」などが与えられることが示されていきます。これらの力は、聖霊を通して、神がこの地上でその業を実現するために私たちに与えられる力です。先に語ったように人の力、出来ることはそれほど大きなものではありません。また、多くの欠けや弱さを持つ存在であります。そんな存在がこの地上において神の業を実現していくなどという大きな使命をなしていくことが出来るのかと思わされてしまいます。しかし、神はそのような弱さある人間を受け入れ、その業のために用いてくださいます。そして、それに必要な力をお与えくださるのです。私たちの目の前には、自分の力ではどうしようも無いように感じられてしまう課題や問題が立ちはだかるときがあります。教会の歩みとはまさにその連続であると言って良いかもしれません。しかしそんなとき私たちは絶望するのではありません。ここでパウロが語られているように、必要となる力は聖霊を通じて神が授けてくださると言うことを知っています。自分の力ではどうしようも無いように思えてしまうことを前にしたとき、私たちは、立ち止まるのではなく、神の助けを、霊の助けを願いつつ、それを信じて、自分に出来る業を真摯になしていくのです。そうしたこの地上での証しをする歩み自体が「祈り」となっていくのです。私たちはこの日々の歩みを自分の力だけで進めているのではない。霊の助けによって進めていくことが出来るんだという感謝を持って、また支えられているという安心感を持って、日々与えられた使命に務めて参りたいと願います。
(髙塚記)