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説教要旨
「拡がりゆく福音」(7/3)​

使徒言行録13章1~12節

「ユダヤ人の魔術師、偽預言者のバルイエス」とローマの地方総督であるパウルス。この二人は当時のユダヤにおいては、受け入れられることのないまさに「敵」といえる二人でありました。「バルイエス」に対してパウロはどのように対したか。11節「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」とパウロは宣言します。そして、その言葉の通りにバルイエスは目が見えなくなってしまいます。この目が見えなくなってしまうことというのは真実に神を見ることのできない信仰的盲目を象徴するものであり、神を真実に知ることによってその目が開かれていくということが、「その時が来るまで」とのパウロの言葉から理解することができます。実際パウロは目が見えなくなってしまった後、使徒と出会い、目からうろこのようなものが落ちたのち、キリストの福音を告げ知らせるものとして新しい歩みを始めていくのです。そして、ローマの地方総督であるパウルスは異邦の民であり、ユダヤを抑圧する側の人間であります。しかし、この人は神の言葉を聞こうとする人物であったことが先に紹介されます。この二人の人物は、福音をすぐには受け入れないユダヤの人々の姿と、福音を受け入れていく異邦の民の姿を象徴する存在として描かれるとともに、当時のユダヤであれば、その存在が認められることはなく、排斥されてしまうはずであったところを、キリストの福音はなおその人々の上にも語られていくという、すべての人に拡がりゆく福音の在り方を示すものであるのです。この根底には、決して神の前に立つことの許されるはないはずの罪ある人間が、イエスの十字架による死という出来事によって赦されて、神に招かれる存在とされたという福音の中心点があります。キリスト者は自らがキリストの死による赦しの上に立つ存在として、キリストによって神との和解を与えられた存在として、それを自身が受けたように、すべての人に対して、その赦しと和解がもたらされることを証していくことが神への応答の姿であるとここで示されているのです。このようにしてユダヤの地を超え、世界へと「拡がりゆく福音」とは、大いなる赦しと和解の知らせであるのです。キリスト者を迫害していたパウロがそうであったように、赦された存在としての感謝と応答の在り方が、この二人の排斥されるはずであった存在が招かれるという出来事から示されていくのです。

(髙塚記)

説教要旨
「歴史に生きる神」(7/10)​

使徒言行録13章13~25節

 ユダヤの人々にとって歴史を確認するという作業は、単に自分たちの過去を知るという意味ではなく、神が自分たちと、人とどのようにかかわってくださったのか、どのように働かれたのかを知り、悔い改めて神に立ち返るための大切な営みであるのです。パウロはこの大切な営みを思い起こさせるように、まずイスラエルの民の歩み、歴史を語っていきます。そしてそこにいつも働かれた神の姿をあわせて確認していくのです。イスラエルの民を選び出した姿、約束を果たして土地を与えられた姿、それらを統治して導く存在を与えられた姿。そのことを示していくことによって、どのような状況の中にあっても、いつも働かれていく、歴史の中に生きる神の姿を明確に示していくのです。そして、23節「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と語ります。この宣言はユダヤ人には簡単には受け入れられないものであったかもしれません。自分たちを救うメシア、キリストは力強さをもって自らの国を反映へと導く存在であると考えていたからです。それが、ローマによって十字架にかけられ、惨めな死を迎えたイエスという男が救い主だなんてと、そう思ったかもしれません。しかしパウロは、力強く宣言するのです。「イスラエルに救い主イエスを送ってくださった」と。神のなさることは私たちにはすべてを理解すること、知ることはできません。それは過去に起きた苦しい出来事、悲しい出来事、つらい出来事もそうであります。なぜあのような経験がなければならなかったのかと思ってしまいます。このイエスの死という出来事もその一つであると思います。しかし、神はどのような時にもその背後に働かれている。歴史に生きる神の姿をパウロはここで力強く語っている。そのことから私たちはまた、今を生きる私たちの背後にもきっと働いてくださる神の力というのを信じる思いが与えられていくのです。

(髙塚記)

説教要旨
「与えられた恵み」(7/17)​

ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節

 私たちは神の前において正しく生きることは出来ない、そんな弱さを持っております。どれだけ正しく生きようと思っても、日々間違いをおかし、それを悔いることを繰り返します。それは聖書の時代においても、現代においても変わることはありません。現代は資本主義社会において自己利益を上げることを求めていく在り方を是とし、時に他者を蹴落としても自らが成り上がることを認めていく、そんな社会構造があります。さらには、様々な考え方がある中で、それぞれに正しさを主張し争いあう姿もあります。社会的分断により弱くされる人々が多くいながらもそれに対してなかなか声をあげ、具体的な行動を起こしていけない時もあります。そのような現代で生きる私たちは、キリスト者としてイエスの示されたその道をしっかりと歩んで行きたいと思いつつもなかなかそれが出来ないという矛盾に苦しむときがあります。「もしかしたら自分は信仰が弱いのでは無いか」「だから聖書に示される教えに従っていくことが出来ないんじゃ無いか」「クリスチャンとして失格だ」そんなことを考えてしまうこともあります。しかし信仰とはそういうものではないんだと言うことがここに示されています。5~6節をご覧ください。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを霊により、信仰に基づいて節に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。パウロが言う「割礼の有無は問題ではない」との言葉は、私たち自身のありようがどうであろうとも、私たちのために死んでくださったキリストにつながっていくことによってこの救いの業は成し遂げられると言うことを示しています。だからこの5節の「義とされた者の希望を待ち望む」とは、弱さ抱える私たちが、自らの力によらずその大いなる恵みを受け、そこで語られる救いの業がなされるその時を喜んで待ち望む在り方を示していきます。そしてその先で語られる「愛の実践を伴う信仰」は、私たちが豊かに与えられた恵み、神とイエスの大いなる愛に感謝を持って、それに応答していく歩みを示しているのです。

(髙塚記)

説教要旨
「今や、恵みの時」(7/24)​

コリントの信徒への手紙二5章14節~6章2節

 コリントの共同体にパウロの資質を疑う考えが入り込み、これまでに築いてきた関係性に亀裂が走り、その心はパウロに対して、また、パウロの語る福音に対して頑なになってしまっていました。そのような頑なな思いは神に対してさえも向けられてしまうものでありました。でももしかしたら、コリントの人々はパウロを一度疑ったことによって、その過ちを認め、また心を開くということが難しくなってしまっていた、間違いを認めることの苦しさによってその心が頑なになってしまっていたのでは内でしょうか。「自分は間違っていない」と。「自分が正しいんだと」そのような思いで頑なになっていたのではないでしょうか。人と人との関係性ではこの頑なな思いは大変に和解を困難にさせるものであります。そして時が過ぎてしまえば、和解を望むことは出来なくなってしまいます。しかし、パウロはそんな頑なな思いにとらわれる人々にこう語ります。「今や、恵みの時。今こそ救いの日」と。この言葉は、頑なになっている人々を断罪する言葉ではありません。ましてや非難する言葉でもありません。今こそがあなたがたが救われるにふさわしいときだと。あなたがたが神によって受け入れられるのにふさわしいときだと、そう語るのです。頑なになったことを裁くのではない。非難するのではない。そして、心が離れようとしたとき、それは神の救いからこぼれ落ちる時、もうその救いがかなわなくなってしまう時ではないと。どんなときでも、神の恵みに気付いた時こそが、救いの時であるのだと語り、パウロは力強い愛の言葉を持って和解を勧めていくのです。

 これは今を生きる私たちも同じです。苦しいとき、悲しいとき。神は共にいてくれないのでは無いかと思ってしまうとき。神を疑うような、その関係性に亀裂が入ってしまうような経験をしていきます。しかしパウロはこう語る。そのようなときこそ「今や、恵みの時、今こそ救いの日」と。神はいつも人々との和解を望んでおられます。私たちはその招きの恵みを受けて、感謝をもって日々の歩みを進めたいと願うのです。「今や、恵みの時。今こそ救いの日」という言葉に希望を抱いて、勇気を抱き日々証ししていきたいと願います。         (髙塚記)

※先週の説教で紹介した「フランダースの犬」の舞台は「イギリス」のアントワープではなく、正しくは「ベルギー」のアントワープでした。お詫びして訂正いたします。

説教要旨
「信仰のないわたしを」(7/31)​

マルコによる福音書9章14~29節

 吉本隆明さんの言葉を紹介します。「信仰者やイデオロジストの群れにいるものが、「信」を「不信」よりも上位のものと思いちがえて、知らず知らず創造や懐疑の労力を一切捨てて、じぶんはなにものでもないのに、ひとをみくだした与太話にふけりはじめる。その瞬間から一切の「信」は滅亡に向かう」。私たちにとって信仰とは、まず自らの「不信」を、「信じることができない心」を自覚し、そしてなお神に、イエスに向き合っていくことから始まるのです。その弱さをもイエスは共に担い、神の前に立つことが出来るように執り成してくださるのです。その恵みに感謝する思いを与えられることこそが私たちにとっての「信仰」と言うことができるのではないでしょうか。私たちの「信仰」とは常に与えられた恵みへの感謝の応答を示すものであります。私たちが神の目にかなうほどの「信仰」を持つから恵みが与えられるのではありません。このように事実「不信仰」であるにも関わらず、恵みはすでに私たちに与えられている。その助け手は伸ばされている。私たちはこの「不信仰」な心を自覚し差し出してその手を取っていくことが信仰者の在り方であると今日のこのエピソードで語られているのです。この物語は日々、自分の信仰に不安になってしまう私たちに戒めを与えるものではありません。それどころか大きな慰めと励ましを与えてくれるものであります。不信仰なわたしすらをも受け入れてくださるキリストの姿に勇気を与えられながら、このキリストの恵みに感謝を持って、日々の歩みを力強く進めて参りたいと願います。(髙塚記)

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