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説教要旨
「捨てられた石」(9/4)​

マルコによる福音書12章1~12節

 ぶどう園のたとえ話と捨てた石が隅の親石になるという詩。これらは必要ないもの、価値のないものとして拒絶、切り捨てられたものに信仰の本質を見ていくという奥深さを感じさせられていくものであります。イエスのその生涯の歩みとは、常に社会において切り捨てられようとしていった者達と共にあるものでありました。当時のユダヤには病のゆえに、障がいのゆえに、職業のゆえに、生まれのゆえに。様々な状況の中で社会からはみ出し、切り捨てられようとしていった人々がいました。社会の中に生き、自分たちは救われると考えていたような人々からは見向きもされず、時には汚れたものとして避けられるようにうつむきながらうずくまりながら生きていた人々が多くいました。ユダヤ社会の中で必要とされず価値のない者として切り捨てられるように疎外された人々が多くいたのです。社会的地位のある人々、宗教的権威のある人々、そして、そうではない人々と当時のユダヤ社会は現代では考えられないほどに格差のある状況でした。人間的価値が人間的枠組みの中で決定づけられそこから逃れようにも逃れることのできないような状況がありました。そのような中でイエスはどのように生きたのか。宗教指導者的上位者として綺麗なところ、汚れなきところを清潔な服を身にまとって、高潔な振る舞いで語ったのか。そうではありません。人々が避けて通るようなところを、汚れることもお構いなしに、人々が触れないようにする人を、関わりを避けようとするような人と共に手を取り合い、食卓を囲み、時に豪快に笑い、時にその顔を涙にぬらしていくのです。人から目を向けられないようなところにこそイエスは目を向け、人が足を向けないようなところにこそイエスは足を向け歩み寄って行かれたのです。イエスがこうして共に歩まれ続けた人々は当時のユダヤにおいては神に救われることはない存在として考えられていました。しかし、イエスはこのような人々こそが神に救われていく、神の国に入ると語り、また、その救いの希望をそこでこそ表わしていったのです。そして、そのイエス自身もまた、人々から拒絶され、十字架刑という当時最も忌み嫌われる処刑方法で捨てられていくように殺されます。このようなイエスの生涯はこのたとえや捨てられた石の詩で語られるように、人々が目を向けないような、無価値として切り捨ててしまうようなところにこそ救いが、希望があると言うことを示していくのです。

(髙塚記)

説教要旨
「愛がなければ」(9/11)​

コリントの信徒への手紙一12章27節13~12節

 イエス・キリストはこの地上に人として生まれ、そして神の道をその最後までまっすぐに歩み抜かれました。そしてその生涯を通して、苦しみ、悲しみ、孤独の中にある人々に寄り添われ、そして最後にはすべての人のために、自らの命を差し出しました。そのようなキリストの生涯とは、神の愛の体現であったと言えます。ここで語られる「愛」とはまさにキリストの姿勢そのものを示す言葉でもあるのです。すべての人々が失われることがないように、その生涯と命を捧げて愛を持ってその最後まで歩まれたキリストこそ「神の愛」の姿であります。その大いなる愛をキリスト者は、私たちは受けているのです。そしてパウロは先の箇所でこう語りました。「あなたがたはキリストの体」であると。キリストの体としてこの地上において神の業、平和を実現していくのがキリスト者の共同体、教会に与えられた使命です。であるならば、キリストによってその命と愛を与えられた教会はキリストが示してくださったその道を、その歩みに倣って歩んで行くべきであるとここで語られているのです。誰が偉いとか、誰が尊いとか、そんなことは何一つ重要ではないのです。キリストが愛してくださったそのすべてが尊く、大切であるのです。私たちとキリストの間にあるこの「愛」という絆は誰か特定の人に特別に与えられるものではない。ならば、私たちが他者に自分と同じように与えられているその「愛」を、キリストとの絆を否定することができるでしょうか。そしてキリストが愛を持って寄り添われたのに、それをないがしろにすることができるでしょうか。キリストに倣うものとして、「互いに思い合うこと」「互いに受け入れ合うこと」「互いに愛し合うこと」をなにより、どんな業よりも大切にしていかなければならないとここで語られているのです。どんな業もその「愛がなければ」本当の意味ではなしえないと言うことが示されているのです。

(髙塚記)

説教要旨
「銅貨二枚の信仰」(9/18)​

マルコによる福音書12章38~44節

私たちが普段人や物事を評価するとき、注目するのは目に見える事柄が多くを占めます。たくさんの時間をかけること、たくさんの金額をかけること。世間的に認められる地位を持ち、一般的に権威を持つ人々。そういった事柄を評価して時に賞賛や尊敬を送るのです。それは人間的価値観による賞賛や尊敬です。しかし、今回の物語が伝えるのはこの人間的価値観による賞賛や尊敬ではありません。ここで語られているのは、神の価値観、神の道に生きる者の価値観であるのです。銅貨二枚を献げるやもめの物語の後、13章1~2節で短いイエスと弟子たちのやりとりが報告されます。それは神殿の境内を出たとき、神殿の外側を見て弟子たちが神殿を大変に褒めていく言葉から始まります。「先生。ご覧ください。なんと素晴らし石、なんと素晴らしい建物でしょう」と。そのように賞賛していきます。それに対してイエスはどう答えたか。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」そう厳しく返答していくのです。このエピソードは先の「やもめの献金」の物語の続きとして記されています。だから弟子たちは聞いているはずのなのです。43~44節の言葉。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。みなは有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っているものすべて、生活費を全部入れたからである」との言葉を。ここでイエスは、人間的価値観で評価することによって、表面上しか見ることができず、神と向き合う時に本当に大切な内面が見えていないことに対する警告を語っています。本質的に大切なのは他者の評価ではない。どのように神と向き合うのかであるということを語っているのです。

(髙塚記)

説教要旨
「主の大いなる恵み」(9/25)​

コリントの信徒への手紙二9章6~15節

コリントの信徒への手紙の著者パウロは、彼の残した手紙の中で「恵み」という言葉を大変多く用いております。パウロにとってこの「恵み」「神の恵み」とは大変重要なものであったのです。パウロはキリストの福音を広めるための使徒となる前はユダヤ人として、ファリサイ派のものとして、キリスト者の迫害を行っていました。キリスト者をとらえ、拷問し、死に追いやることに関与したこともあったのではないでしょうか。そのような過去を持つパウロが、その時の立場とは真逆の、キリストの福音を宣べ伝える立場になって、しかも異邦人宣教に関して多大な貢献をするほどまでになっていきます。そのような自らの変化についてパウロは、十字架上のキリスト、復活のキリストとの出会いが契機であったと語っております。そして、それまでの間違った自らの歩みについて赦しが与えられ、こうしてキリストの福音を宣べ伝えるものとして、用いられることについて、それはすべて神の恵みによるものであると語るのです。このように、自らの神に反逆するかのようなこれまでの歩みについて、赦され、さらには福音を語るものとされたパウロは、それらが自らの意思において、また判断において行われたものではなく、すべては神の愛と恵みによって与えられたものであることを何度も語っていきます。だからこそ、パウロがさまざまな苦難に見舞われながらもキリストの福音を伝えていく活動に邁進していくのは、この無条件で与えられた恵みに対する応答であるのです。パウロの働きの原動力はここでも語られるように、ただ自らの立場、利益を求めるものではなく、自らの満ち溢れるように与えられている神からの恵みによるものであるのです。神によって自分たちに満ち溢れるように与えられているその恵みを応答の業によってさらに豊かにし、その恵みの輪を広げていくことが勧められているのです。今ある我が身はわが力によるものではない。ただ神の恵みによって生かされている。では、その恵みによって生かされるこの我が身は、恵みを与えられる神のために用いよう。この神の恵みに対する感謝によって、困難の内にあっても、苦しみの内にあっても、たとえその時報われていないように感じることがあっても、喜んで今あるすべてを差し出していくのです。

(髙塚記)

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