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説教要旨
「主の晩餐にあずかる」(10/2)​

マルコによる福音書14章10~25節

 「世界聖餐日」ははじめ、世界の対立を背景に、主による一致を求める思いによって始められました。それは現在でも同じ思いを持って続けられています。この一致とは、互いの違いを認め合い、許し合うことのようにも思えます。しかしここで、聖書で語られているメッセージを聞くならば、聖餐の、主による一致とは、「他者の違いを認め、あるいは許して受け入れる」のではない。「他者の有り様を認め、あるいは許して受け入れる」のではない。「自らが主によって許されて招かれている」ということを思い起こし、「許された者として」互いに席を共にしていく。この地上における文化・言語・人種・歴史の違いや政治上・思想上などの対立、そのすべてを乗り越えて、自ら個人の本質的罪、弱さを受け入れられた者同士で同じ晩餐にあずかっていくことが大切です。「わたしが他者も晩餐にあずかることを許す」のではないのです。今日の箇所で示されるように主が罪や弱さ、悲しみ、苦しみなどそのすべてを受け入れ、背負い、招いてくださったから、わたしも許され、この晩餐にあずかることができる。主による一致とはまさにその一点であるのです。

 今世界では戦争や貧困・差別・災害・感染症。様々な要因によって多くの人々が苦しみ、悲しみ、苦難の中にあります。そして多くの対立や分断が現実としてそこにはあります。このような時であるからこそ。この聖書によって語られる、主による招きの声に深く耳を傾けていきたいと願うのです。苦しみも悲しみも、対立や分断すらをも、その身に受け、になってくださるイエスのその姿に、招きに応えて一致の道を模索していきたいと願うのです。共に豊かな招きに応え、この後主の晩餐にあずかりたいと思います。

(髙塚記)

説教要旨
「イエスの苦難」(10/9)​

マルコによる福音書14章26~42節

 イエスの苦しみと覚悟の時、弟子たちはどのようにしていたか。37節「戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた」と語られるのです。悲しみの時、苦しみの時、共にいてほしいと願いながらもそれがかなえられないイエスの孤独がここで強調されます。ゲッセマネの祈りで表わされたように、イエスはその生涯においてただ一人神の僕としてのその道をまっすぐに歩み抜かれました。その先に与えられたのはなんだったか。それは孤独でありました。弟子たちからも民衆からも真の意味で理解されず、ただ孤独の内に寄り添うものなく、その道を歩まれていくのです。この孤独もまたイエスの受難の一つであったのです。ではなぜ、これほどまでの苦しみをイエスは受けなければならなかったのか。それが私たち人の神の前に正しく生きることのできない弱さ、過ちを繰り返す罪の故であるのです。旧約の時代。その罪の報いは直接人々に与えられていきました。時に国の滅亡という苛烈さをもって裁きが与えられていきました。しかしそれでも人は神の前に立ち帰って正しくあり続けることはできず、過ちを繰り返すのです。その弱さゆえに与えられたのがイエス・キリストです。このすべての人の罪科を、すべての人に与えられるはずであった大いなる裁きをその身にすべて受けられるのです。旧約に語られた神が新約において優しくなったのではない。その苛烈さをすべてになってくださったのがイエスという存在であったのです。だから再び眠りに落ちてしまう弟子たちを見てイエスは41節でこう言うのです。「もうこれでいい。時が来た」と。本来私たちは、自らの罪ゆえに神にすがることさえも許されないほどの存在であったはずです。いや弱さゆえにそれができないという方が正しいでしょうか。そうして滅びるしかなかった私たちに代わって、イエスはその生涯を正しく生きたにもかかわらず、その身にすべての裁きを受けて、孤独と苦しみ、悲しみの道を歩まれたのです。そのことによって、今イエスを通して私たちはこうして神に祈ることが許されているのです。私たちでは担いきれない重荷をイエスは担われ、その道を開かれたのです。旧約聖書を綴ったかの時代の人々は、自分たち人間の神に対する背きを忘れないように、そして繰り返さないように、歴史をひもといていきました。私たちも今、この聖書の言葉より、自らの罪ゆえに、弱さゆえに、イエスにすべての苦しみを担わせてしまった、その出来事を読み返します。このイエスの苦難・苦悩を私たちは忘れてはなりません。感謝と悔い改めの思いを持って歩んで行かなければとそう思わされるのです。そしてそれと同時に、キリストゆえに私たちは自分たちではどうすることもできなかった罪が許されているという喜びもまたこの胸に希望として抱きたいのです。

(髙塚記)

説教要旨
「イエスに従う」(10/16)​

マルコによる福音書1章16~20節

 シモン・ペトロとその兄弟アンデレは漁をしています。ヤコブとその兄弟ヨハネ、彼らは船の中に座り込んで網を繕っています。ごく日常的、のどかな風景でした。この様子をイエスが「ご覧になった」のです。人々はイエスに注目していませんが、イエスがその人びとを注目しています。新しい生活への招きがここにありました。

 そしてこの漁師たちに「人間をとる漁師にしよう」と言われます。人間を形成していく、自己を獲得することと同時に隣人を獲得すること。それが福音の宣教、人間に与えられたミッションなのでしょう。「人間をとる漁師に」というイエスは、私たちに真実な人間になれと呼び掛けておられるのです。私たち自身がイエスに従い、キリスト者となることによってイエスの福音を証しする。そのミッションがイエスの弟子たち、そして私たちに託されています。

 さらに、「私について来なさい」。弟子たちが従い、女たちや無名の群衆の中から従う者たちが生まれました。今もその人たちが続きます。この「ついて行く」という言葉は「出て行く」という意味を含みます。

 考えてみれば、聖書は外に出かける書物でもあります。信仰の父と言われるアブラハム、出エジプトのリーダーであるモーセ。そしてイエスは家にいませんでした。何よりも神様が「お前たちのところに行く!」と言われるのですから。

イエスが弟子たちに出会われたのは海辺でした。海は平安な時があれば荒れる時もあります。それが人の働く場所、生活の場でもあります。その場こそが人間を回復する、「人間をとる」場なのです。私たちのところに来られたイエスの降誕は馬小屋でした。きれいな応接間ではありません。私たちの知られたくないところにもイエスは訪れ「ついて来なさい」と招かれます。そのイエスとの出会いを大切にし、イエスに従い、イエスに聴き続けたいものです。

(前島宗甫記)

説教要旨
「病める者に」(10/23)​

マルコによる福音書1章29~34節

 安息日、会堂での礼拝を終えて、シモンたちはイエスと共に自宅に向かいます。そこはシモンとアンデレの家庭でした。まったく日常的な場でもあり、時として問題を抱える場でもあります。シモンのしゅうとめさんが病気でした。それを人びとがイエスに知らせます。シモン・ペトロは妻の母親を引き取っていたようです。家族を大切にするペトロの姿が見て取れます。

 多くの人たちが「病める者」としてイエスの前に登場しています。このテキストも病人で満ちています。「汚れた霊に取りつかれた人(21)」、「熱病(30)」、「ハンセン氏病(40)」、「中風(2:1)」。病の先に見えるのは死です。人間にとって死は絶対向き合わなければならないのですが、その前で人は無力です。人は確実に死に向かって歩んでいるのですが、死は狂暴であり、正視するのが恐ろしいことでもあります。聖書はイエス・キリストの復活のいのちにあずかること、死を克服したイエス・キリストのいのちが私の内に生きることを知らせます。聖書は死を克服する道を示します。

 イエスは病人のそばに行き、手を取って起こされました。手を取るとは、関係をつけることでしょう。手を取り合うものとして近づきます。病むものに近づき、病むものと共に生きる姿がここに見られます。「癒し(34)」はセラピー、手当てを意味します。病む者の苦しみを共有する関係が癒しをもたらします。

 熱が引いたペトロの義母は「一同をもてなした(31)」とあります。手当され回復された健康を、新たな奉仕のために用いたのです。彼女は若くはありません。その老人が、自らの手で人びとをもてなす者とされたのです。

 イエスがガリラヤの海辺で若いシモン・ペトロたちを召されました。今、家の奥に横たわる老人を召して働き人とされます。

(前島宗甫記)

説教要旨
「農はこれ、たぐひなき愛」(10/30)​

マタイによる福音書13章1~9節

 「『種を蒔く人』のたとえ」は、当時のイエスさまの話を聴きに集まった多くの人々にとって、自分が直接携わっている、あるいはごく身近な所で行われている農業のことが題材にされました。

種を蒔く人が蒔いた種が、様々な場所に落ちたという話です。当時のこの地方の種蒔きは、まず畑を耕して、そこに種を蒔くという方法ではなく、先に種を蒔いてから、そこを耕すというやり方でした。ですから、種は耕された畑だけでなく、様々な所に落ちます。道端に落ちれば、そこは耕されることなく、種は鳥の餌になってしまったでしょう。石だらけで土の少ない所に落ちることもあります。そこは一応耕されて芽を出しても、根がしっかり張れないので、そのうちに枯れてしまいます。あるいは茨などの雑草が周囲にあると、そちらが先に伸びて囲まれ、育たないこともありました。良い土地に落ちるとは、しっかり耕された畑のことで、そこに落ちた種は実を結ぶのです。

このたとえ話は「種を蒔く人」が「神様」、「種を蒔かれた土地」が「人間」に比喩されています。ですから、私たちはここを読む時、種が蒔かれた先である「人間」=「わたし」という土地が、道端であり、石だらけの地であり、茨の間でありと、良い土地ではなく、悪い土地であることが強調されていることが気になります。

しかし、神様はたとえ蒔かれた種がそのまま鳥についばまれてしまうしかないような、私たちがそんな頑なな心でいる時にも、表面的には芽を出しても、心の中には堅い石がごろごろしていて、神様からの愛が深く根を下ろすことが出来ない弱い者であっても、この世の様々な思い煩いや誘惑に捕えられ、神様の愛を忘れ、愛の茎がやせ細ってしまう者であっても、神様自身が汗を流して、一生懸命に、愛の種を蒔き続けていて下さるのです。その神様の熱心な、情熱溢れる愛の種蒔きの結果、私たちは自らを大切にし、他人をも大切にする愛が根付いていくのです。

(尾島信之記)

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