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説教要旨
「使命を果たす」(12/4)​

イザヤ書55章1~11節

1節で神は「渇きを覚えている者」や「銀を持たない者」を招いています。異国における捕囚生活の結果、物質的にも精神的にも飢えと渇きにあえいできた人々を、神は招いているのです。神が招いているのは、十分な支払いが可能な人たちばかりではありません。むしろ、「銀を持たない者」貧しい者が優先的に招かれています。神は、イスラエルの民と、「とこしえの契約」を結ぶと言います。ダビデ王朝が滅亡して半世紀もたった今、「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」と語られているのは注目に値します。ところが、次の4-5節で、この約束された神の慈しみは、ダビデ王朝の復興を意味していません。むしろ、イスラエルの民全体としての契約であり、しかもそれは諸国民の世界という普遍的な視野のもとで交わされる契約です。その契約に基づいて、イスラエルはある使命と役割を与えられます。それは、55:5「今、あなたは知らなかった国に呼びかける。」という宣教の役割であり使命です。6節からは、再び預言者が語りかけます。「主を尋ね求めよ」「呼び求めよ」と訴えます。さらに悪から離れて立ち帰ることを求めます。明らかに、イスラエルの民の滅亡と悲惨な出来事の原因は、神に逆らい、神の道から離れ、悪を行ってきたことにあることを指摘しています。自分自身を見つめることなく、自分の外側のみに目を向けて、犯人探しをし、預言者を排撃し、神の言葉をないがしろにしてきたことに気づかないなら、そこには真実の悔い改めが生じることはあり得ません。神の思いと人の思いとの間には、あまりにも開きがありすぎます。わたしたちは、神を理解しようとします。神の思いを受け止めようとします。しかし多くの場合、わたしたちの尺度、わたしたちの常識、わたしたちの限界の範囲の内側でしか、神を捉えようとしません。結局、人間の思いに神をすり寄せ、わたしたちの思いを神に従わせようとしないのです。だからイスラエルの民は、神の言葉を誠実に伝える預言者を疎んじて、排除し、抹殺さえしようとしたのです。わたしたち人間の思いと、神の思いの間には、ギャップがあります。しかし、わたしたち人間の思いを遙かに超えて示されている神の思いとの開きを埋め、ギャップを埋めようとする歩みが信仰なのです。そして10-11節。天から与えられる雨や雪のように、大地を潤し、植物を育て、わたしたちのいのちを支える。それと同じように、神さまから発せられる言葉も、神の望むところを成し遂げ、神が与えた使命を果たすと言います。クリスマスは、まさに神の言葉としてのイエスがこの世界に与えられた出来事です。

                                     (相澤弘典記)

説教要旨
「心を備える」(12/11)​

マルコによる福音書1章1~6節

「洗礼者ヨハネ」。このアドベントの時によく登場する人です。キリストの誕生の前にこの世界に現れて、キリストを人々が迎え入れるための備えの教えを語ったと言われる人です。2節からの記述を見ます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ』」。この言葉はイザヤ書40章3節の言葉がもとになっています。この言葉、預言の成就がヨハネの出現であると言われているのです。そしてこの「荒れ野で叫ぶ者の声」と言うのがこのヨハネの「これからキリストがここに来られる」と、「だからその備えとして『悔い改め』なさい」との言葉です。キリストの誕生を迎える時の備えの時期であるアドベントにこの洗礼者ヨハネの物語は読者の心の備えを勧めるものとして読まれるのです。そしてそこで語られているのがこの「悔い改め」なんです。キリストを待ち望む姿として示されるのがこの「悔い改め」です。でも具体的に悔い改めって何?ってところです。どんなことすればいいの?って感じだと思います。それでは旧約聖書にはこの「悔い改め」を行動で示す人が多くいたのでその記述を見てみます。ある箇所では悔い改めについて「自らの衣を引き裂き、粗布を身にまとい灰の上や地べたに身を投げた」と記されています。自分の周りに不幸がおきたとき、困難を前にしたとき、神に自分の間違いを許してもらおうとするときこのようにして、その神への思いを示すようです。自らの弱さや罪によって離れ去ろうとする神を呼び求め、再び自分に顔を向けてもらおうとするための行動が先の「自らの衣を引き裂き、粗布を身にまとい灰の上や地べたに身を投げる」という姿なのです。他の旧約の箇所では、神の前に立とうとするとき、体を綺麗にして、汚れが一切無い綺麗で豪華な着物を身にまとい、厳かな様子でいなければならないとも描いてあります。しかしこの「悔い改め」の姿は同じように神の前に出る姿のありようですが、それとは真反対の姿であると言えます。この姿には着物や姿勢で自らを取り繕うことなどせずに、自らの弱さやもろさ、過ちそのすべてを神の前に投げ出して行く有り様を示しているのです。隠し事も取り繕いも何もない、ただ一人の弱き存在として神の御手にすべてを委ねる姿勢でいることを表わすのです。それが「悔い改める」っていうことなんだってここで言われているんです。

                                       (髙塚記)

説教要旨
「別の道を通って」(12/18)​

マタイによる福音書2章1~12節

 マタイによる福音書によれば、イエスの誕生を最初に訪れたのは東方の占星術の学者たちでした。ルカによる福音書では羊飼いたちです。占星術の学者たちにしても羊飼いにしても、当時重んじられた正統派の人びとではありませんでした。東方から来た異教徒、当時の人びとが好まなかった夜の仕事をする人びとです。

 この学者たちは、ベツレヘムではなくエルサレムを訪問しました。「救い主はやはりエルサレム」という先入観があったのでしょうか。このエルサレム訪問が「幼児虐殺」という大事件を引き起こすのですが、ヘロデ王に送り出され外に出ます。彼らは東方で見た星に再び導かれてベツレヘムに向かい、幼子イエスに出会いました。そして場違いとも思える贈り物を捧げます。彼らの理解は、イエスは「イスラエルの王」でした(2節)。だから「エルサレム」であり「宝物の贈り物」(11節)だったのでしょう。飼い葉桶のイエス(ルカによる福音書2:7)に出会った学者たちは「別の道を通って自分たちの国に帰っていった」とあります(12節)。

 クリスマスのメッセージ、福音は罪人が神の子とされることです。聖書は率直に人びとの弱さを示します。学者たちも理解が違っていたようですし、後の弟子たちにしてもイエスに対する無理解が聖書から読み取れます。私たちも含めて、そのような人々こそがイエスによって救われ、支えられ、導かれるのです。

 「他の道を行く」とは、修行を積んで立派な人になれとか強い人になれと求められるのではありません。他の道を示され、それを通って自分の場に帰るのです。本来の自分に戻ることでもあります。神に、ありのままの自分が受け入れられることを喜びたいと思います。罪深い私が、神によって進むべき道を示され、歩まされることを喜びたいと思います。

                                       (髙塚記)

燭火礼拝説教要旨
「暗きその影に」(12/24)​

ルカによる福音書2章1~20節

​ 羊飼いたちが幼子イエス。キリストと出会うのは、どこであったでしょうか。神殿の奥深くの聖所でしたか。それとも王宮であったでしょうか。綺麗で清潔な病院のような場所でしたでしょうか。どれも違います。牛や馬などの動物がつながれる馬小屋の中でした。しかも動物の餌箱である飼い葉桶の中に寝かされているのです。その姿は決して裕福でもなければ、権威ある姿でもありません。貧しく、弱く、はかない姿です。しかし羊飼いたちはそのキリストの姿に落胆しません。むしろ大いに喜ぶのです。それは力強く自分たちを守る姿ではありませんでした。理知的に自分たちの権利を地位を保証してくれる姿ではありませんでした。何の力もない幼子の姿で、ねむるための暖かなベッドもない風の入る馬小屋でねむる貧しき姿。そのキリストに出会って羊飼いたちは喜びあふれて神を賛美するのです。キリストもまた弱い姿で生まれて、貧しき中にあって、なお希望の光を宿す。そのことによって、光あふれる社会ではなく、暗き影にあって弱くされ、貧しさの中であえぐような人々の上にこそ注がれる希望の光となるのです。暗きその影にこそ宿る救いの希望であるのです。キリストは人々の苦しみや悲しみ、痛み、悩みと言った、この地上の暗闇を取り払う希望の光としてこの地上に神によって与えられました。すべての人々の希望の光となるために、この地上で貧しき、弱き姿でお生まれになりました。すべての人の「不安」や「恐れ」を取り払うために、キリストが代わりとなって、すべてを捨て去って、神の子であったその地位も、得られたであろう名誉も、平穏な生活も、そのすべてを捨て去って、人となり、後に「痛み」と「苦しみ」、その「死」を受けられるのです。このキリストの暗きその影に宿るような誕生とその生涯における苦難があるからこそ、すべての人に対する「希望」となるのです。このキリストの降っていく姿が、その後の苦難があるからこそ、この誕生の出来事は「喜び」であるのです。私たちがキリストの誕生に感謝し、それを希望として歩もうとするとき、このキリストの降っていく姿を忘れることはできません。

 キリストの誕生は喜びの出来事です。しかしこの喜びには、キリストのすべてを捨て去った姿が、また「痛み」があることを忘れてはならない。その姿ゆえに、その痛みゆえに、暗きその影に希望の光が宿ることを私たちは信じています。私たちはこの冬の夜。キリストの誕生を覚える礼拝において、存在をかけて暗きその影にこそ注がれる光があることを示してくださったその喜びを覚えたいと思うのです。そしてそれに感謝をもって歩んでいきたいと思います。今戦争の中で、貧しさの中で苦しみ、悲しみ、つらい時を過ごしている方々がいることを覚えます。どうかその中の一人でも多くの人がこのクリスマスの時、希望を見据えることが出来るような道が示されることを祈ります。そこに光が差し込み、生きる力が歩む力が与えられることを願います。

                                       (髙塚記)

クリスマス礼拝説教要旨
「人間を照らす光」(12/25)​

ヨハネによる福音書1章1~14節

弱さの中にあって、挫折してしまう事、うずくまってしまう事、道を見失ってしまうことはありますが、それでも、うつむく私たちの上には、神の希望の光がキリストが私たちを照らしているということを聖書の言葉は示してくれています。「決して閉ざされてはいない」「希望はある」「道はある」と語り、励ましているのです。わたしたちはその光を受けて、自らの暗闇に閉ざされそうな心が照らされて、温められて、顔をあげまた立ち上がっていくことが出来るのです。この私たちを照らし出す希望の光、救いとして、神はその独り子であるイエスをこの地上に送ってくださいました。イエスはその生涯において、貧しさの中で、差別のなかで、苦しみの中で、暗闇に閉ざされている人々のそばへと自ら足を運ばれました。そしてその一人ひとりに語り掛け、ふれあい、時には笑い、時には泣いて、「あなたは一人ではない」「神は共にいてあなたの進む道は照らされている」と励ましてくださいました。私たちは、そのイエスの示して下さった光を今なおこの聖書によって示されています。そして、この示された私たちを照らす光によって、また、わたしたちも進むべき道が、イエスに従って歩む道が与えられているのです。

私たちは弱さを持っております。その弱さは今日の箇所に記されるように、キリストを、光を拒絶してしまう弱さも含みます。キリストを受け入れることの出来ない弱さです。しかしキリストはその弱さをもつ心をその「愛」、「光」によって包み込んでくださいました。それが私たちに与えられた許しです。そのキリストの姿ゆえに、わたしたちはまた他者の弱さをも感じ取り、寄り添う思いが与えられていきます。このコロナ禍、閉塞感によって、暗闇に閉ざされるような現状の中でも、この与えられた温かい思いを、この「光」を広げていく歩みが進められることを願います。うつむくような中でも、きっと私たちの上には光が差し、希望があることを信じて、主によって進むべき道が照らされていくことを信じて、この歩みを進めていきたいと思います。

                                       (髙塚記)

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