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主日礼拝説教要旨
「神の霊による解放」(3/5)​

マタイによる福音書12章22~32節

 今回の聖書箇所の28節には「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とイエスによって語られております。ここで「神の国」と訳されている言葉。「βασιλεια του θεου(バシレイア トゥ セウー)」というギリシャ語の文は、元来の意味をたどれば「神の国」のほかに「神の支配」と訳すことが出来ます。よってこの28節で言われている「あなたたちのところに来ている」という「βασιλεια του θεου」は「神の支配があなたたちのところにもおよんでいる」「届いている」と解することが出来ます。「神の支配」、神の力が私たちのもとにも届き、働いているということを示しているのです。この神の支配、神の力が、イエスを通して地上において働いているということが、今日のこのイエスの癒しの奇跡によっても示されているのです。

イエスはその生涯において、語る言葉によって、また、その行いによって、この「神の支配」の到来を人々に宣べ伝えられました。そして、神の力がおよぶそのところでは、わたしたちの内に、神の霊が働き、わたしたちを罪より解放してくださることを示してくださいました。また、神という存在が、決して隔絶された遠い存在ではなく、共にいて守り支えてくださる存在であることを、イエスご自身が、苦しみや迷い、差別の中にある人々と共にある歩みを進められることによって示されました。更には、祈りにおいても、神に親しく呼びかけ、願うことが許されるということを伝えられたのです。イエスによってもたらされたこれらにより、この地上において、罪にとらわれ、自らの弱さゆえに、正しく歩むことが出来ないでいた私たち、弱い存在である人に、神の霊において解放を与え、神に従って歩む自由が与えてくださったのです。さらには、イエスはそれらを言葉や奇跡によってお示しになるだけでなく、私たち自身が、神とつながり、神と共にあることが許される存在となるために、その身を犠牲として、苦しみを負われ、十字架上での死を遂げられたのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「『わたしのメシア』」(3/12)​

ルコによる福音書8章27~38節

​ イエスは31節において自らの受難を「人の子は必ず苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され」と予告した後、それだけで終わらずに続けて「三日の後に復活することになっている」と告げられました。しかし、弟子達、ペトロはイエスの語った言葉をしっかりと聞き入れることなく、イエスが「排斥されて殺される」という部分だけに注目して、それを否定しようとしていきます。「自分を導く存在がいなくなってしまうはずがない」「こんなところで死んでしまうはずがない」。そんなバイアスのかかった視点でしかイエスを見ることが出来ず、そこで語られた本当の希望に気付くことが出来ないのです。この目の前にある地上における解放、地位の向上、状況の改善など、日常的な希望ともいえる所に執着し、その生の先にある、根源的な、本質的な希望に目を向けることが出来ないのです。イエスの言う「人間のことを思う」というのは、まさにこのペトロの状態を的確に示す言葉であります。

 このようなペトロの態度に対してイエスは、34節で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と語られます。「自分を捨て」るとは、「人間のことを思う」、狭まった視点でしか見ることの出来ない価値観を捨てていくということ、そして、「自分の十字架を背負う」とはそのような自分の弱さをも自覚して、なお、イエスの歩まれる道を進もうとする姿勢を指し示す言葉であります。このイエスの言葉は厳しい戒めの言葉であるように感じますが、同時に深い慈しみを持った励ましの言葉でもあります。それは「自分の十字架を背負う」という言葉に表われます。先ほどこれを自らの弱さと表現しましたが、言い換えるならばこれは人間の持つ本質的な「罪」を表わす言葉であります。「罪ある自らの存在」を、それを自らにはらんだ状態で、それでもその道に招いてくださるイエスの御後に進みゆくことが赦されていくことを示す言葉であります。そしてこのような私たちの弱さもまた、イエスは共に担われて、私たちでは到底歩んで行くことの出来ない厳しい道を歩んで行かれます。私たちの罪のために、それを背負って苦しみを受け十字架での死を遂げられていくのです。それは、導き手の喪失としてうつるかもしれません。絶望の出来事のように感じるかもしれません。しかし、そうではない。その先にこそ本当の希望があると言うことを私たちは聖書の言葉によって知っているのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「これに聞け」(3/19)​

ルカによる福音書9章28~36節

​ 33節でペトロが語ったモーセとエリヤとイエスのために仮小屋を建てるという言葉と、その後35節で語られた「これに聞け」との神の言葉。この二つは対照的な言葉です。35節の言葉は、イエスが洗礼を受けた際に語られた神の言葉を彷彿とさせるものです。ルカ福音書3章22節の言葉です。「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。この3章の場面では「あなたはわたしの愛する子」と語られるように、この対話が神とイエスの間で行われている事がわかります。しかし今回の箇所の35節では「あなたは」ではなく「これは」とイエスを指し示す言葉によって始められ、最後には「これに聞け」と宣言される。そのことから、3章の出来事が神とイエスとの内的な出来事であるのに対して、35節はイエスという存在が神の独り子として公に世に示された、開かれた出来事であることがわかります。誰か個人に、限られた人々に示された事ではなく、すべての人に対して開かれた啓示として語られているのです。そしてこの出来事を経た後、イエスはその場に留まることなく、その身に負う、福音を携えて、人々に語り伝える、人々と共に歩むための道を進まれるために山を下りていくのです。ペトロはモーセ、エリヤ、イエスが語り合う場面を見て、それをその場にとどめたいと願いました。イエスが特別な存在であり、それを示す出来事が素晴らしいことであると感じたがゆえに、それをこの場にとどめて、大切にしまっておきたいと思いました。しかし神は、そしてイエスはそうはしません。留まることなく、福音は語られ、拡がっていかなければならないことをその行動によって示していくのです。歩みを止めることのないイエスに従い、その言葉に聞いて、実践していく歩みを促していくのです。開かれた福音の体現者であるイエスの言葉に、「これに聞け」と歩むべき道を指し示していくのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「弱さを身にまとう」(3/26)​

ヘブライ人への手紙5章1~10節

​  自らの弱さを排除すると言うことは、「弱さ」という存在を否定する行為です。人は自らの弱さを否定したとき、他者の弱さもまた受容できず否定してしまいます。福音書に語られる律法学者やファリサイ派の人々がその典型と言えるでしょうか。完璧な存在にも思えるイエスはそうはされませんでした。自らの苦しむ、悲しむ、もだえるような内に潜む弱さをイエスは否定されませんでした。だからこそ、他者の、人の持つ弱さをもその存在すべてと共にイエスは包み込むように受け入れられて行くのです。弱さを、罪を排除するのではなく、それらを内包したままで共に歩む道を示してくださるのです。イエス以前、それまでは、神の前に立つときには自らの「弱さ」「罪」はできる限り排除し、隠していなければなりませんでした。「弱さ」「罪」は否定され、排除されなければならないものでした。しかしイエスはその生涯において、その弱さを持つ人々共に在って、なおその弱さを共に担われる歩みを進められました。そして、弱さ抱えるままで、神の前に立つことが出来るようにするために、神と人との間に立たれる仲保者としての役割を担われたのです。わたしたちのこの弱さが否定されるでも排除されるでもなく、「赦される」ための救いの業をイエスキリストは担ってくださったのです。それが、この受難と十字架による死であります。これによって、わたしたちは、自らの弱さをその存在すべてと共に、神に委ねることが赦される道を歩んで行くことが出来るのです。その道を共に歩んでくださるイエスゆえに、自らの弱さを隠すこと無く、排除、否定することなく、弱さを明け渡すことが出来るようになったのです。「弱さを身にまとって」なお、その受難の道を歩み抜かれたイエスゆえにこの豊かな恵みが与えられているのです。だからこそわたしたちも、イエスがそうされたように、様々な点において弱さを抱える存在でありますが、それを否定することなく、排除することなく、同じように弱さを抱える方々と共に歩んでいく道を模索していきたいと願うのです。そして共に、その弱さを受け入れてくださる、包んでくださる方の示された道を喜びを持って歩んで行きたいと願うのです。

                                       (髙塚記)

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