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主日礼拝説教要旨
「受難と賛美」(4/2)​

ルカによる福音書19章28~40節

​ この物語の違和感は2つ。「イエスの受難がまさに始まろうとするその時にもかかわらず、勝利の凱旋のように語られている」と言う点。そして誤解による賞賛や賛美がこれまではいさめられていたにもかかわらず、ここではイエスによって肯定されている」という点です。38~39節。ここで語られているように、イエスがエルサレムへと入ろうとされる時、弟子たちを中心としてイエスをたたえ、神を賛美する声によって、大変な熱狂の中でその歩みが進められました。弟子たちの賛美する声はあたかも、凱旋の先触れのように人々に伝えられるようなものであったように思います。39節を見ると「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。」とあるように、イエスと弟子一行がエルサレムに入るその場面には多くの人々が集まっていたことがわかります。そしてその多くの人々が弟子たちに囲まれて、道が整えられて、ろばに乗って進んでくる光景を目にしているのです。そんな集まった人々の目を通しても、それは民族の解放をもたらしてくれるかもしれない人物、「メシア」の到来を思わせるものだったかも知れません。そういった期待を抱いてその場に集まったことは想像に難くありません。しかしそのイエスの進まれる道が、大変な苦しみと辱めが待つ道であり、また最期には十字架上での死を迎えると言うことをわたしたちはこの聖書を通して知っています。そしてイエスもまた、それを予期していることが弟子たちに語った言葉からもわかります。このエルサレム入城の場面。イエス以外の弟子たちを含む人々の熱狂と、そして苦難を覚悟し、ころばに乗って静かに進まれるイエスの静寂。この相反するかのような二つの状況が二分されることなくこの場に同時に存在しています。先にお話しした曼荼羅のように、神の栄光を求めるイエスと、地上の栄光を求める人々、聖俗一体となった世界観がここにおいても現出していくのです。この現出する世界は、神の救いの業において、喜びの先取りであると語られます。それは、この受難の道を進んでいくことこそが、救いという大いなる恵みにつながる道であるからこそ、それは、死への勝利の道であり、大いに賛美・歓迎されるべき出来事であると言えるのです。このようにして、この人々の歓迎と歓喜と賛美が受難という運命にあるイエスの歩みに重なり合い、聖俗一体となった世界が現出するのです。先にこれは神の救いのみ業の先取りであると、御業実現の喜びの先取りであると語りました。このエルサレム入場の場面において、人々は意図せず、それこそキリストを誤解し理解できないという弱さや罪を抱えたままで、この喜びの先取りの場に立ち会うことが赦されていく。イエスを通して救いの御業の実現への道を整えていくものとして用いられていると言うことがこの聖俗一体となった世界観によって示されているのです。

                                       (髙塚記)

受難日礼拝説教要旨
「アッバ、父よ」(4/7)​

マルコによる福音書14章32~42節

 このゲツセマネでのイエスの祈りは、飾られた、誰もが感心するような祈りではないのかも知れません。それでもこの祈りには真実があると思わされるのです。神学者の田川健三は批判的主体の形成という著書の中で祈りについて、「今のところ、自分がどんなにじたばたしても越えることができない。自分一人だけでなく、われわれみんなが集まっても、今のところどんなにじたばたしても、なおかつ越えられない。・・・そういうような人間の矛盾の現実が、何としても、われわれの眼の前にある。だからこれは越えなければならない。われわれがそれを乗り越え、そういう矛盾をなくすことができようとできまいと、ともかくやらなければならない、という現実がある。その現実と何とか取り組もうとするときに、それが祈りになる。」と語ります。この視点からイエスの祈りを見るならば、やはりそこに真実を見ていくのです。すでに避けることの出来ない受難、十字架での死への道。それを前にして、また、神に従う道を進まなければならない使命を負って、進み続けるために、歩みを止めないために、なんとかその現実に取り組んでいこうとしたときこぼれでた言葉です。すべてを語るには簡潔すぎる言葉かも知れない。しかしそこには、イエスの神に対する絶対的な信頼を見るのです。言葉に出来ずとも、神はその言葉に出来ない思いをも見抜かれる。だからこの先の道への恐れや不安だけをただこぼれ落ちるような言葉に、絞り出すような呼びかけにのせていく。それがイエスの祈りであったのです。

 このイエスの呼びかけ、祈りに対して、神からの応答があったとは記されません。ただ神はここで沈黙されます。それでもイエスはその後、十字架への道をまた歩んで行かれるのです。自らの不安や恐れを、悲しみを神に委ねて、自らの使命を全うされるのです。イエスはキリストでありながら、わたしたちと同じ人として歩まれ、苦しみや悲しみ、恐れや不安などすべてを抱えながらも、その道を歩み続けられました。すべての人の赦しのために、わたしたちが神の前に立つことが許されるために、その道を歩んで行かれました。その中で、その最期を前にして語られたこのイエスの祈りをわたしたちは忘れてはなりません。「アッバ、父よ」と、絞り出されたこの言葉をわたしたちは自らの罪と共に胸に刻まなければならないと思うのです。イエスがどうすることも出来ない現実を前にして、そこから逃げることなく、避けることなく、向き合い、乗り越えて行かれようとした真実がこの言葉、祈りに示されるのです。わたしたちもまた、このイエスの歩まれた道に従っていかなければなりません。何度も間違えるかも知れない、道をそれるかも知れない。神の支えを、守りを願う言葉を紡ぐことは出来ないかも知れない。それでも、イエスが示して下さったように、「アッバ、父よ」と言葉を絞り出し、言葉に出来ない思いをのせて、神と向き合う歩みをしていかなければと思うのです。

                                       (髙塚記)

イースター礼拝説教要旨
「行間に見る赦し」(4/9)​

マルコによる福音書16章1~8節

 ペトロはどの福音書においても、基本的に弟子たちの代表としての立場で語られてきました。イエスに質問するのも、イエスに意見するのもいつもペトロが代表して行いました。そして弟子集団を表現するときには、「ペトロと他の弟子たち」という言葉や、「ペトロをはじめとした弟子たち」というような表現が用いられ、「ペトロ」という名前が弟子の筆頭を表わすようにかたられているのです。しかし今回の箇所ではどうか。「弟子たちとペトロに伝えなさい」と語られます。ちょっとした違いですが、これは大きな事、ここで語られていない背景を知る大きな手がかりです。この言葉は「弟子たち」と「ペトロ」が分離して語られているのです。そのことから推測するならば、この時ペトロは他の「弟子たち」と行動を共にしていなかったのではないかと言うことです。一緒にいたならば「弟子たち」という言葉だけで良かったでしょうし、また弟子の代表として「ペトロ」の名前を頭に持ってきて指定すれば良かったはずです。しかしそうはしなかった。それはペトロが弟子たちの集団から離脱し、ただ一人で他のところに隠れ潜んでいたことを示す言葉ではないでしょうか。先の遠藤さんの考察においては、ペトロだけではなく、他の弟子たちもイエスを裏切る行為を行ってしまったと言うことで苦しみと後悔の中にあったことは想像に難くありません。しかしペトロはその弟子たちの代表として直接イエスの裁判の場に立ち会い、そしてそのイエスの前で、「そんな人は知らない」と「わたしには何の関係もない」とイエスを切り捨てる発言をしてしまいました。そのような事をして命が助かってしまったペトロの心情は苦しみはいかばかりであったか。他の弟子たちよりも深く、自らを軽蔑するような、後悔するような状態にあったのではないでしょうか。自分のしてしまったことを後悔しながら、それでもなお愛し続けてくださろうとしたイエスを切り捨ててしまった自分を許すことが出来なかったのではないでしょうか。だからこそ、他の弟子たちが固まって隠れているところに一緒にいることは出来なかった。もしかしたら福音書に伝えられるユダの最期のように、自らの命を絶つことも考えていたのかも知れません。そのような状況の中でイエス復活の知らせを伝えるようにと指定された言葉が語られています。「弟子たちとペトロに告げなさい」と。この言葉に主の深い愛と赦しを見ていくのです。また、イエスを理解できなかった弟子たちでしたが、イエスは、そのような弱さを持つ弟子たちのことを深く理解していたということを思わせる言葉であるのです。きっとあのようなイエスを、自分を切り捨てるような行為をしてしまったペトロは、今頃その罪悪感に押しつぶされそうになりながら一人苦しんでいることであろうと、そう考えられた。もしかしたら、ユダが命を自ら絶っておらず生きていたならば、ここにユダの名前も付け加えられたのかも知れません。この「ペトロに伝えなさい」という言葉は、その背後に、「わたしはあなたを見捨てない」「繋がりは断ち切られていない」というイエスの赦しと招きが示される言葉であるように思えるのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「心は燃えていた」(4/16)​

ルカによる福音書24章13~35節

  ルカはエマオへ向かう弟子たちの場面で「目が開」かれるとの表現を用いております。閉ざされている弟子たちのこの目を、また心を開くためにイエスは言葉を尽くし、手を尽くされます。エマオに向かっていた二人の弟子たちに対しては聖書全体を語り教えることでありました。25~26節をご覧ください。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と語りながらも、27節「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」ます。イエスとの思い出を、語られたその言葉を、その存在自体を過去のものとしておいていこうと、忘れようとする弟子たちにイエスは根気強く話し続けるのです。教え続けるのです。目が、耳が閉ざされた弟子たちに語り続けるのです。そうして、宿に着き、食事の席にイエスと弟子たちがついた時。イエスが祈り、パンを裂き、弟子たちにお渡しになります。この光景はイエスの生前。弟子たちが何度も目にした光景であったことでしょう。ユダヤ教において食事の席を共にするというのは、大変親しい間柄であることを示すと共に、礼拝を含める食事は、弟子共同体においては大変重要なものでありました。だからイエスと弟子たちの思い出の一つとして、食事の場面というのは大変に重要な意味を持つ、そして深い印象を残したものであったはずです。その時に、パンを受け取った時に弟子たちは、目の前にいるのがイエスであると言うことに気付くのです。イエスの一つ一つの所作が、祈りの言葉が、弟子たちの心の中で、自らの記憶の中で生き生きと甦ってきたのです。しかしその時にはすでにイエスの姿は見えなくなってしまいます。それでも弟子たちには先ほどまでの悲壮感や絶望感はありません。32節「『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と記されます。自らの内にイエスの言葉が、イエスの教えが、そしてイエス自身が生き続けていることに気付かされていくのです。だからもう悲壮感はない。絶望感はない。たとえイエスを目の前に見ることが出来なくとも、弟子たちには見えない声が聞こえているのです。語り続けてくださるイエスの言葉が聞こえている、自らの内に生きるイエスを感じることが出来るのです。「わたしたちの心は燃えていたではないか」と。イエスの言葉によって、招きによって、閉ざされていた心と目は開かれていくのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「疑いの中で」(4/23)​

ルカによる福音書24章36~43節

 一度はイエスを慕って従った弟子たち。しかしそのイエスを裏切り、イエスは十字架上での死を遂げる。そして、その後復活しても弟子たちはすぐには信じることが出来ず、一度信じてもまた疑いの中にとらわれてしまう。そうした弟子たちをイエスはどうにかこうにか信じることが出来るように試行錯誤します。わたしたちのために、わたしたちの罪、弱さゆえに主イエスは苦しみと十字架上での死を受けられました。しかしそれだけではない。それほどまでの苦しみを受けられたのにもかかわらず、わたしたちはまだ、その主を信じることが出来ない弱さを抱えています。また、一度信じてもその信仰は揺らぎの中に、疑いの中にとらわれてしまいます。その信じることと疑いに入ってしまうことの繰り返しは、わたしたちの信仰の本質であり、罪の本質であるのです。そんな信じる思いと疑いの思いの間で揺らぐわたしたちをどうにかこうにか信じる者とさせようと試行錯誤するイエスの姿。今日の物語に示される、自分の手足を示して、弟子たちの前で魚を食べて、「わたしだ」と「本当にわたし、イエスがあなたたちの目の前にいる」と、必死になって伝えようとするその姿は、何度も疑いの思いにとらわれてしまうわたしたちを見放すことなく、何度でも許して、自分のもとへと招き続けるというイエスの、神の許しの本質が示されているのです。

 困惑する弟子たちの前で、必死に手足を見せながら、これでもだめかと目の前にある魚をムシャムシャと食べて、どうだこれで信じたかと悪戦苦闘するイエスの姿。そこには滑稽とも思える、ユーモアにあふれた光景が広がるのと同時に、そのようにしてまで、必死に信じる者とさせてくださろうとするイエスの深い愛と赦しの恵みを思わされるのです。

 わたしたちは日々の歩みの中で、様々な困難や思い悩みにとらわれてしまうことがあります。そして今世界においても日本の中でも希望を持つことが難しい、様々な課題がわたしたちの目の前にはあります。そのような状況の中で、わたしたちは神の存在を忘れ、語りかけてくださる声を聞かず、迷いの中にとらわれてしまうことがあります。また、この信仰が揺らいでしまうこともあります。しかしそんなわたしたちにイエスは何度でもその手を差し伸べて、これでどうだ、こうしたらどうだと悪戦苦闘しながら、わたしたちを導いてくれようとしてくれています。そのことを今日、この聖書の箇所からわたしたちは学びました。そのイエスの、神の深い愛をわたしたちは受けている事に感謝すると共に、この受けた優しさと愛を拡げて行くことが出来る歩みを進めていきたいと願うのです。

                                       (髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「わたしがいのちのパンである」(4/30)​

ヨハネによる福音書6章34~40節

 さて、今回の聖書日課によって選ばれました箇所、ヨハネによる福音書6章34~40節。この箇所の前にある6章1節からでは、有名な「五千人に食べ物を与える」という奇跡物語が語られています。群衆は奇跡を起こした力ある存在であるイエスを求めて、探し出します。しかしイエスは人々の心の内を見抜いて「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と語るのです。この言葉は、イエスが神の御業を地上において実現することの出来る特別な存在であることを奇跡、しるしによって信じ、従う思いを持ってイエスを捜し求めたのではなく、満腹するという現在的な、物質的な欲求を満たしてくれる存在であると考えたからであるということを示しています。これはある種の象徴的な示し方であり、五千人に食べ物を与えるエピソードの最後、15節に「自分を王とするために連れて行こうとしている」群衆の行動が関係しています。ここで「満腹」という物質的な欲求を満たすということが何を示しているかというと、当時のユダヤ人たちが求めていたローマの圧政からの、民族的な解放という悲願を果たしてくれる政治的な力を持った指導者を求めていくという現在的な、この世的な欲求です。それはイエスがこの五千人に食べ物を与えるというしるしという神の御業の実現において示されていく、真の命への道とは全く異なるものであります。だからこそイエスはここで自分を捜し求めた人々に対して、「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と語って、物質的な、この世的な希望や欲求に目を向けるのではなく、真の命につながる道にこそ、目を向けなければならないと語っているのです。そして語られて行くのが今日お読みいただいた聖書の箇所の言葉です。35~36節。「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」。ここで言われている「いのちのパン」。これはキリストが自らの命を犠牲として捧げられる贖罪を示すとともに、神から与えられていく多くの言葉、福音を示しているのです。イエスが語っても、人々はその本質を知ることはなくただ、自らの願望、この世的な希望を叶えてもらうことを求め続けます。目の前にある現実にとらわれて、イエスの示す、人々共に生き、神と共に生きる道を進もうとしません。それはイエスが言うところの「朽ちる食べ物」であり、また次の欲求を願望を持って求め続けてしまうのです。しかしイエスの示す道はそうではありません。物質的な、一時的な満たしではなく朽ちることのない、かけることのない真の満たし、霊的な充足を与えるものであるのです。

                                       (髙塚記)

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