主日礼拝説教要旨
「これがわたしの掟」(5/7)
ヨハネによる福音書15章12~17節
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、その生涯において示されたすべての人に寄り添う神の姿を体現されたイエスの歩み、「愛」であり、また、すべての人の罪のために自らの命をも捧げられた大いなる「愛」です。しかもそれは無条件に与えられた、見返りを求めることのない愛です。イエスが「掟」として語り伝えたのは、私があなたがたを愛したのだから、あなた方もその愛を私に返せと言うような見返りを求める命令ではありません。私を愛せではなく、「私はあなたを愛した。そしてあなたの前にいる、横にいる人もあなたと同様に愛している。だからこの愛の内にあるあなたがたの間でもまた相手を自分と同じように、愛される存在として、受け入れなさい」という勧めです。誰かだけが特別に愛されるのではない。何かをしたから特別に愛を与えられるのではない。すべての人が無条件に受け入れられている。神は、そしてイエスは無条件に受け入れてくださっている。そのようにして愛されたわたしたちが、どうして他者を愛さないでいられるのか。自分は特別で他者は違うと蹴落とせるのか。無条件に受け入れられ、愛された存在として、同じように受け入れられた人々と共に歩むための道が示されているのです。それは与えられた課題をクリアするような形ではなく、何かを得るために行動を起こすためでなく、すでに与えられている愛の存在に気付き、すでに自分が大切にされていることに気づき、その同じ愛に生きる者として受け入れていくのです。それは特別な事ではない。神は私のことを、自分のことを大切だと受け入れてくださっています。そして他者のこともわたしと同じように大切だと受け入れています。だからわたしたちも自然に、自分という存在を受け入れるように、他者も受け入れていくのです。もちろん自分と他者は違いがあります。考え方も大切にすることも違うかも知れません。時に意見の食い違いで反発することだってあります。それでも、神が受け入れた存在である、愛した存在であるという根本は変わることなく、動くことのなくあり続けます。互いに愛し合うこと。これはイエスが見返りを求めるように、自分の与えた分を返すようにと命じられたものではありません。わたしはあなたがたを同様に愛している。だからわたしが愛するもの同士で争うことなく、平和にあって、互いに思い合うようになってほしい。そんなわたしたちへの大きな「愛」故の願いであるのです。わたしたちはすでに与えられているこの大きな愛の存在に気付き、感謝の思いを持って、ここで示されている神の、そしてイエスの大きな「愛」ゆえの願いに応えていくための歩みを進めていきたいと願うのです。与えられた愛を少しでも拡げて行くための働きをなしていきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「権威のもとに」(5/14)
ルカによる福音書7章1~10節
イエスが百人隊長のいる家の近くまで来たとき、百人隊長は自分の友達をイエスの下に送って次のように伝言を届けます。6~7節です。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」。ここで最初に呼びかける「主よ」という言葉はギリシア語で「クリエ」が用いられています。これは権威を持つ者、支配する者との意味合いで用いられる言葉です。この言葉を用いて、百人隊長は自らを低くして、イエスを迎えること、またその前に立つことすらもふさわしくない者であるとへりくだるのです。そして、その支配の下にある身にあって権威者に従う者であることを表明するのです。そして語られるのが8節の言葉です。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」この言葉は、自らもまた、イエスに従う者であり、その権威の下にあって、そこにおいては、主イエスの言葉が実現することを信じて疑わない姿を示すものであるのです。だから権威者であるイエスの下にある自分、そして、その自分の権威下にある部下もイエスの力の実現がおよぶであろう事を信じています。このような百人隊長の姿勢をイエスは次のように評します。9節です。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」」このイエスの言葉は、大変な評価であると感じます。そしてこの百人隊長のへりくだる姿勢を「信仰」であると語っています。イエスを絶対なる権威者としてただ従う者として語られる言葉のみを待つ。それがいかなるものであろうとも、ただ従うのみであると、皇帝と一軍人という関係性の中での命令を受ける姿と等しく、あるいはそれ以上のへりくだりを持って、すべてを委ねるのです。ここで示されるのは、イエスが人の中にあって、真に権威を持つ存在であると言うことです。権威とは元のギリシア語の単語を見れば「ウーシア(本質)」と「エクス(外に)」の二つの単語から構成されており、「本質から溢れ出た」という意味合いを持って用いられます。その権威は社会的信用やその背景にある知識や経験と言った後からつけられた、取り入れた力ではありません。その存在の本質に宿す権威を見いだし、ただそれにへりくだって従う百人隊長の姿勢はイエスが評価するところの「イスラエルの中でさえ見たことがない」と言わしめる「信仰」であるのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「派遣と約束」(5/21)
マタイによる福音書28章16~20節
「ひれ伏す」という言葉があります。これは「礼拝をする」という意味であります。イエスを信じ、「祈り」「礼拝」しながらも、どこかに疑いの思いが残る。その疑いとは現状の「不安」と「恐れ」から出てくる。現代のわたしたちもこの初期の弟子たち、信徒たちと同じではないでしょうか。イエスを、神を身近に感じられない。そのような中でわたしたちはやっていけるのだろうか。語れるのだろうか。そんな不安、おそれによって疑いが生じてしまうのではないでしょうか。イエスによってわたしたちには使命が与えられています。19節を見てください「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」この大宣教命令と言われるイエスの言葉によって、わたしたちには福音を宣べ伝え、神を証ししていくという使命が与えられています。その使命を果たすことはわたしたちだけの力では到底為しえないと感じてしまいます。「不安」「恐れ」によって疑いが生じてしまう弱い存在であるわたしたちには荷が重いと感じてしまいます。それでもそんな破れのあるわたしたちをイエスは招き、使命を与えているのです。しかしただイエスは使命を与えて悩み多く、苦難に対して負けてしまいそうになるわたしたちを放り出しているわけではありません。20節後半の言葉をお読みいたします。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この言葉はわたしたちにとって最大の励ましの言葉であります。イエスが共にいてくださると言ってくれている。自分たちは一人ではない。その生涯をもってイエスは「神共にいまし」という言葉を体現してくださいました。そのイエスが「いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっているのです。イエスの語りかけは日々の中でいつもわたしたちと共にあって、必要な時に与えられていきます。苦しんでいるとき、悲しんでいるとき、悩んでいるとき、迷っているとき。あなたは一人ではない。私が共いる。一緒に歩んでいこう。そのような語りかけに日々の中でふと気づかされて、励まされて、この現代という困難さを感じる道を何とか歩んでいくことが出来るのです。この繰り返しの気付きという体験が現代を生きるわたしたちにとってのイエスの復活であります。この喜びの復活の出来事に繰り返し繰り返し、何度でも日々の中で体験していくことによって、信仰を新たにされ、また歩みを進めていくのです。
(髙塚記)
ペンテコステ礼拝説教要旨
「言葉によって」(5/28)
使徒言行録2章1~11節
聖書によればその昔、人々は同じ言語を扱っていたといわれております。バベルの塔の物語であります。この物語では神が人々の言語をばらばらに混乱させることによって、人々が散り散りになっていく姿が描かれています。そうして散り散りになっていった人々がまた、一つとなることが出来るように、キリストによって一つとされるために、福音宣教が始まります。それではばらばらの言語をもう一度一つにするという奇跡でもよかったのではないかと思ってしまいます。そうすればすべての人に同じ言葉で福音を伝えることが出来ます。あるいはそれ以外の大きな奇跡によって強制的に一つとすることも出来たのではないかと思ってしまいます。しかしそれはされなかった。言葉が通じるだけであることよりももっと重要な点があるのです。半端に言葉によってだけつながりを得るのではなく、本質的な、つながり。心のつながりを得るために「愛によって一致」していくことが重要であるのです。キリストの愛が、すべての人々に注がれる愛が、それぞれの土地で、ゆっくりと、しかし確実に伝わっていくためにこの弟子たちがさまざまな国の言葉で語りだすという奇跡が示されたのです。「愛」によって人々が一致していくことによって、「バベルの塔」の物語で語られるような人々の間違いはもう起きることはなく、そして、人のために生き、そして死んだイエスのように、私たちも歩んでいくことが出来るのです。その寄り添い、歩み寄り、語り掛けていく。その姿がこの奇跡に示されているのです。実際に福音が拡がっていくためには、言葉によって救いの意味や福音が語られなければ伝わりません。それをつたえるために言葉によって語られて行ったはずです。そしてその中で初期のキリスト教会はもちろん、その後の時代、また現代においても多くの苦労や困難があります。言語を統一するのではなく、それぞれの国の言葉で福音が語られるというのは、そういった困難や苦労をする厳しい道のりであります。しかし神はその方法をとられる。不自由や困難があることが明確にわかりながらも、それでも人を用いて、言葉によって伝えようとされる。それはその言葉の壁を必死な思いで、また必死な行動によって乗り越えた先にある本当の愛による繋がりを得るためです。言葉によって困難ながらも伝えられていき、その背景にある心を砕くような寄り添いによって実現していく「愛による一致」が大切である事が伝えられているのです。
(髙塚記)