主日礼拝説教要旨
「ナザレの人イエスこそ」(6/4)
使徒言行録2章22~36節
当時のユダヤの人々が待ち望んでいた「メシア」は、民族をローマの圧政という状況から解放し、独立した国家を導くような指導者としての力を持った存在と考えられていました。そのようなメシア像をイエスに対しても投影していたであろう事は福音書の記述からも読み解くことが出来ます。だからこそ、そのイエスがローマによって政治犯として十字架で殺されていったという出来事は多くの人々に失望を与えたことであると思います。期待を寄せていたけどやはりだめだったかと。人として苦しみながら死んでいったイエスの姿を人々は、イエスが「メシア」ではないことの証しとして見ていたのです。しかしペトロは語るのです。この十字架で殺されていった、イスラエルの人々に捨てられた「人間イエスこそ」がキリストであったのだと。あなたたちが死に引き渡したイエスこそがキリストであったのだと語るのです。このペトロの証しは、それまでの「メシア像」を打ち壊し、本当の意味での救い、命につながる道を示す力強い言葉です。人は弱く、ただ自分の力のみでは神の救いに、その命にあずかることは出来ない。神の備えるその道をまっすぐと歩むことが出来ないのです。しかしそんな人に、人間に代わって、自らも人となり、多くの人の弱さを背負ってイエスはその道を歩みきりました。この歩みによって神と人の和解がもたらされる事となります。その証しとしてこのイエスの復活という出来事があります。さらには神と人との間に立たれる仲介者であるイエスによって、ただ一人では歩むことが難しい、神の道を歩むための力として、支えとして聖霊が与えられたと語られているのです。32節をご覧ください。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」。この救いの道は、イエスが人間としてこの地上での生涯の歩みを進まれたからこそ開かれたものです。本来人には出来ないことを、イエスが人としてわたしたちの代わりに担ってくださったからこそ開かれたのです。汚れ一つ無く、神聖な光をたたえて、穏やかな微笑みを浮かべるだけの超常的な存在としてではなく、額に汗をして、土埃に汚れて、肌は日にさらされて、怒ったり泣いたり、時に豪快に笑う。そんな人間イエスがその道を歩み、そして死んでくださったからこそ、今わたしたちはその恵みにあずかることが出来るのです。
(髙塚記)
花の日・子どもの日合同礼拝説教要旨
「賜物として」(6/11)
使徒言行録2章37~47節
この箇所は聖霊を受けたペトロが最初に行った説教の後に続く場面が記される箇所です。37節を見ると「人々はこれを聞いて大いに心打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たちわたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」と報告されます。それに対しての返答が38節の言葉です。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語っています。今日はこの「賜物として聖霊を受けます」という言葉に注目したいと思います。この賜物。ギリシア語では「ドーレアン」という言葉が使われています。英語訳では「ギフト」や「プレゼント」という訳が与えられているものです。日本語の「賜物」も、「いただき物」や「賜ったもの」との意味がありますから直訳に近いと思います。この贈り物、プレゼントである聖霊について39節で次のように説明されます。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」。ここで語られているのは、聖霊が与えられるのは、誰か特別な、選ばれし者にだけというのではなく、イエスの招きと同様にすべての人に与えられていくものであるということです。この「聖霊」の働きについては、パウロがコリントの信徒への手紙やその他の書簡においても言及しているように、人々に対して、それぞれの役目に応じた必要な能力や働きを支える力を与えていくものであると考えられています。そしてそれだけでなく、そうした働きをなす人々を常に支え、導く存在であると理解されます。人が折々に決断をしていく中で、また迷い道を見失ったときに、選ぶべき道筋を指し示してくれる存在です。この「賜物としての聖霊」がすべての人に与えられていく事が、このペトロの言葉において宣言されているのです。この「赦し」の証明である「恵み」を与えられたわたしたちはどのように生きるのか。それは、この恵みをただ自分のためだけに用いるのではなく、与えられた分だけ他者にも分け合うこと、あるいは与えられたものを他者と共に生かし合ってさらに育んでいくことの中に見いだされていくのです。そういった相互の交わりの中で豊かに生きていくために用いるべきであるとこの箇所では語られているのです。「ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを割き、喜びと真心を持って一緒に食事をし」たという最初の教会の人々と同様に、賜物、恵みを与えられた喜びを持って、相互の交わりを大切にして、感謝を持ってそれを生かす歩みをする事が進められているのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「ほかのだれによっても」(6/18)
使徒言行録4章5~12節
名前を呼ぶことは、その名前の主に、力や庇護を求めることです。自分の信じる神の名を呼ぶこと、そして与えられる力や庇護を信頼すること。それが「信仰」の一つの形です。だから声高に、繰り返し、精一杯に、喚くほどに声を上げれば、神は必ずや耳を傾けて下さるとペトロ達や時のルターは信じたのです。本来人間の側から神に呼びかけることは出来ませんでした。人と神との間に大きな溝が生まれてしまっていたからです。そしてそれは人間が作ってしまった、自ら顔を背けたが故の溝でした。しかし人間の側からは無理であっても、主イエスの名を私たちは与えられています。イエスがその神と人との間の溝に自らを架け橋としてくださったことによってその名を通して呼びかける事が赦されるのです。そして主イエスは私たちが呼びかける前に、ご自分の方から、私たちに呼びかけてくださいます。いつも声をかけ、その手を伸ばし、わたしたちを支え、立ち上がらせ、歩むための力と勇気を与えてくださいます。ペトロもヨハネも、主イエスがまず先に呼びかけ、弟子となりました。「美しい門」に座っていた足の不自由だった人も、ペトロたちに、呼びかけられて、主イエスの名を知りました。呼びかけるための道を知ったのです。誰も自分から、神に呼びかけることはできない。しかし心配ない。主イエスは私たちが呼びかける前に、あなたの名を呼んで、招いてくださるのです。自分の力だけではない。そしてそれに応えたとき、わたしたちには自分ではどうすることも出来ないような状況の中でも、大きな力と勇気が与えられて、立って歩んで行くことが出来るのです。ほかのだれによって実現することはない。ただイエスの名にわたしたちはすがるのです。それに信頼するのです。今日本においても、また、世界においても様々な課題が拡がっています。時に希望を持つことが難しいような状況もあります。そんな中で自らの信じることに基づいて声を上げていくことは大変な勇気がいることです。しかしわたしたちには、この聖書において示されるように、必要な勇気や力、知恵を求めるために呼びかける名が与えられています。その声に応えてくれる存在があります。いつでもわたしたちを支え、あるべき場所に立ち、歩み、語ることが出来るようにしてくださる存在を信じ信頼し、勇気を持って、証しする歩みをしていきたいと思うのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「喜びにあふれて」(6/25)
使徒言行録8章26~39節
フィリポがサマリアを出て、「寂しい道」と言われる道を進む中、導きによって新たな出会いが与えられます。それはエチオピアの高官のひとりで、女王の全財産を管理する程の信頼を得ていた宦官です。エルサレムからエチオピアへの帰り道、馬車の中でイザヤ書を朗読しているところに霊によって導かれたフィリポが来て会話をしていくのです。31節において、宦官はフィリポに対して聖書に書かれていることについての手引きを願います。宦官が読んでいたのは32~33節に示されるイザヤ書53章7~8節の引用です。この箇所について宦官はフィリポに、「これはだれのことを言っているのか」と問いかけていきます。そして続けて「自分についてですか」と聞いていきます。先に引用されたイザヤ書の言葉は、抵抗することも出来ずに、滅ぼされていく、殺されていく苦難の道に進まされていく人の姿が描かれています。この箇所を読んで「自分のことが言われているのでは」と自分の現在のありよう、心に抱える不安を投影させています。羊のように屠り場に引かれていく様。苦難を受けたその人の姿、その姿に少なくとも自分が経験するみじめさであったり、辛さであったり、ぼろぼろになっている自分の姿を見出したのではないでしょうか。だからこんなにも苦しんでいるのは「自分のことですか?」とフィリポに尋ねたのではないでしょうか。この宦官もまたエチオピアの高官という地位にいながらも思い悩みや不安にとらわれていたと言うことが、このイザヤ書の言葉を読んだときの「これは自分のことではないか」という思いにとらわれていることから感じられます。宦官が不安の中にあってこの寂しい道を進んでいたのに対してフィリポはそうした不安を抱えずに恐れにとらわれずにこの道を進んでいるのです。そのフィリポは宦官の問いに対して、大胆にイエスの福音を語ります。それはイエスの生涯における苦難の道や十字架での死という出来事をイザヤ書において語られている苦難を歩む人の姿に投影する教えです。イエスがすべての人の苦難や困難、思い悩みを代わりに背負い、それを解放するための道を全うされたという救いの業を示す教えでした。そしてそれだけでは終わらない。わたしたちの地上での歩みを支えるための、導くための存在である聖霊を送り、今もなお助けてくれているという励ましの教えです。この福音の喜びを携えたフィリポは、たとえ自分を慕う、受け入れてくれる人がいない「寂しい道」でも恐れを抱くことなく、不安を抱くことなく歩みを進めることが出来ました。そしてその幅員の喜びを伝えられた宦官もまた、この喜びを受けるひとりとならされて行くのです。36節です。「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」」。福音の喜びを受け入れた宦官はこうしてイエスの招きに応えていく決意をしていくのです。そしてその身のうちにイエスの愛と勇気、そして真の命の希望を抱いていくのです。洗礼を受けた後、宦官の歩む旅路はもう「寂しい道」ではありませんでした。39節最後の言葉です。「喜びにあふれて旅を続けた」。「寂しい道」を進む宦官の旅はもう不安や恐れに駆られるものではなくなりました。イエスの支えが、聖霊の導きが豊かにあることを確信する、それに信頼する、喜びにあふれた旅路となったのです。
(髙塚記)