主日礼拝説教要旨
「妨げることが出来ようか」(7/2)
使徒言行録11章1~18節
今回の聖書の箇所、使徒言行録11章1~18節の物語は、その前の10章で語られている物語を前提としています。10章ではペトロとコルネリウスという異邦人との交流が記されています。このコルネリウスとペトロが出会う前、ペトロはある幻を見たと語れています。それは今日の箇所でも記されるところです。5~10節で記されています。この幻では律法において定められているところの、「清くない物、汚れた物」でありました。それを神はペトロに食べなさいと命じられます。ペトロはそのような神のことばに対して、「とんでもないことです」と神のことばに応えず、律法において「清くない物、汚れた物」とされるものは口にできないと断ります。そういったことが三度あったとペトロは語っています。三度もペトロは神のことばに従うことなく、その食べ物を口にするのを断ったというのです。しかしこの幻においては、この食べ物をペトロの前に差し出し、食べるようにと命令しているのは神です。本来なら、神のことばに従い生きることこそが尊重されるべきであるはずなのに、そのことによってこれまで「正しい」とされていたところ、律法を守るという在り方から外れてしまうことにペトロは恐れをなすのです。自分のこれまでの価値観、「正しい」と考えるところを覆していくことができない、意固地な在り方、ある意味人の弱さともとれるような姿勢が垣間見えるのです。
このようなペトロの姿勢と同様、ペトロが異邦人と食卓を共にして、交わりを持ったという報告を受けた、同じくユダヤ教の伝統の中に生きていたユダヤ人キリスト者であるエルサレム教会の人々はペトロを批判的に問いただすのです。3節に記されます。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と。律法においてはユダヤ人ではない、異邦人と共に食卓を囲むことまでは禁止されているわけではありません。しかし、律法を守ることのない人々と食卓を囲むことによって、汚れを負うことが無いように、交流を持たないようにすることが「正しい」とされていました。そのような伝統の中でのペトロの行為は、ユダヤ人キリスト者にとっては看過できるものではなかったようです。しかしペトロはそのような非難に対して先の幻の話をするのです。先の幻は、ペトロに対して神が、人の勝手な判断によって、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないことを示す幻であったのです。そしてこれは、本来の福音、救いの拡がりを示す事でもあります。それを示すように、ペトロは異邦の地において、神の民ではないとされていた異邦人に対してもまた、自分たちと同じ、神の恵み、ギフトである聖霊が与えられる光景を目にするのです。これまでの伝統、価値観においては、神の前に「正しい」と思っていたユダヤ人だけでなく、異邦人にもまた福音は拡がりゆくと言うことを知らされていくのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「放蕩の先に」(7/9)
ルカによる福音書15章11~32節
20節からのところを見てみます。「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」放蕩の限りを尽くし、財産を食いつぶし、戻ってきた息子を父親は拒絶することはありませんでした。それどころか、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて」さらには「走り寄って」行くのであります。財産を持って出ていった、自分との関係を否定し、つながりを破棄した息子を、父親はずっと待ち続けていたのであります。「今日帰ってくるかもしれない」「明日には帰ってくるかもしれない」そのような思いでいつもいつも息子が帰ってくるかもしれない方角を気にして、待ち続けていたからこそ、まだ遠くにいる息子に気づき走り寄っていくことが出来たのであります。そして父親は息子に近づき「首を抱き、接吻をし」ます。これは赦しを示す行為であります。息子の言葉は何も聞かず即座に赦しを与えるのであります。この父親の行為の後、息子はすぐ懺悔の言葉を口にします。しかしその続きの言葉を最後まで息子に言わせることなく父親は息子に対していちばんよい服を着せ、手に指輪をはめるのです。赦しに続けて行われたこれは、帰ってきた息子を、自分とのつながりを切った息子をまた真に自分の息子として迎え入れ、その立場を改めて与えることを意味しています。そして「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って祝宴を始めるのであります。
放蕩の先にこの息子は絶望的な状況に陥り、苦しさと貧しさの中で、自らの「本質」に立ち帰らされていきます。そして20節の「彼はそこをたち、父親のもとに行った」と記されるように、絶望の淵よりたって自らを守る存在の、神のもとへと立ち帰っていくのであります。この20節の「そこをたち」というところで使われるのはαναστας(アナスタシス)という単語です。これはキリストの「復活」を表す際に用いられている単語であります。神との関係が断絶したその絶望の淵より、また神のもとへと立ち帰っていくことによって、その関係が、そして彼自身の「本質」が復活させられていくことを示しているのであります。「一番いい服を着せられ」「指輪をはめられて」、「祝宴」へと招かれていくことによって示される息子という地位の復活は、この神とのつながり、本質の復活を示すものなのであります。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「キリストに結ばれて」(7/16)
ガラテヤの信徒への手紙3章26節~4章7節
イエスの時代のユダヤ教、特にファリサイ派と言われるグループの中では、律法を守る事によって、律法を破らないように日々生活することによって、自らの清さが保たれ、正しい人としていることができると考えられておりました。それをできない人たち、律法を破るような、守ることをしないような生活を送る人たちのことは「罪人」「正しくない人々」と断じられていたのであります。このような律法主義、律法を「守る」ことに固執していく、そんな考え方に対して、イエスは批判をしていきました。律法主義的な考え方によって、「正しい人」「正しくない人」という枠組みによる区別、差別がなされていく。そしてそれは、どうすることもできない現実の中で苦しんでいる人々をさらに苦しめていくようなものです。そのことに対してイエスは「否」とはっきり言っていくのです。イエスはその生涯にわたり「罪人」と言われる人々と関わり、その一人ひとりに寄り添い、時には共感し、時には癒しをお与えになりました。これは、神の救いは人間の定めるところの「正しさ」によって与えられるのではなく、ただ神を、救いを求める思いのある所に、叫びのある所に与えられるということをイエスが体現していったのです。本日の聖書箇所、ガラテヤの信徒への手紙3章において、パウロは律法について自らの見解を語っております。22節から「万一、人を生かすことが出来る律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべての者を罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって信じる人々に与えられるようになるためでした」。ここでパウロは律法とは、人間の本質的な罪を明らかにし、ただキリストによってでしかその罪が贖われることはなく、その罪の贖いを本心より求め、救いへと導かれるためのものであると語るのです。律法に定められているところのことを本来的な意味でわたしたち人間は、自らの力によって行っていくことはできません。神の前に正しく生きていく、まっすぐと歩んでいくということは、弱さを持ったわたしたちには到底することが出来ることではありません。この本質的な人間の弱さが律法によって明らかにされていくことによって人々の中に悔い改めの思い、神へと立ち返っていく思いが与えられていくのです。律法がそのような役割を果たしたのち、25節「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係のもとにはいません」とパウロが言うように、キリストを求め、それによって救いへと至る道が与えられたわたしたちは、その罪の呪縛に陥ったとも言える状態から解き放たれていくのであります。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「イエスに招かれて」(7/23)
マルコによる福音書2章13~17節
イエスが湖のほとりに行かれた途中、収税所の前を通られました。そこに徴税人のレビが座っています。徴税人は当時の社会で徹底的に嫌悪されていました。領主の権力を笠に思いのままに税金を収奪していたのですから。多くの人びとがイエスのそばに集まったのですが、レビは座っています。
座っているレビに、イエスは目を注ぎます。そして「私に従ってきなさい」と呼びかけました。人びとは税金を納める時以外、レビと関わろうとはしなかったでしょう。挨拶を交わすこともあまりなかったことでしょう。挨拶を交わしてもレビの心は冷え切っていたことでしょう。礼儀正しさとか少しの善意では人の心は開かれません。自分の心を開かないと、心が響きあうことはありません。イエスの眼差しと呼び掛けに、レビは心を開きました。イエスに呼びかけられたレビは、立ち上がってイエスに従います。この「立ち上がる」という言葉は「甦り」を意味します。新しいレビの誕生でした。
レビはイエスを食事に招きます。食事は共に生きることの証明。新しい交わりの表われです。そこには多くの「徴税人、罪人」が招かれていました。それを見た教会のリーダーたちが攻撃を仕掛けます。それもイエスに直言するのではなく、弟子たちを詰問します。
教会のリーダーたちにとって、食事は信徒間の聖なる交わりです。したがって「罪人」と食事をすることは、許されないことでした。
それに対してイエスは「丈夫な人に医者はいらない」と言います。自分が正しい、健康だと思っている人に医者、イエス・キリストはいらないと言うことでしょう。人にとって、病んでいることの自覚はむつかしいことです。レビにとっては、この食事は古い自分との決別でした。まさに、主のみ国が訪れたのです。
(前島宗甫記)
主日礼拝説教要旨
「敵を愛する」(7/30)
ルカによる福音書6章27~36節
わたしたちは不完全さ、弱さによって日々多くの間違いを犯してしまいます。神の前に正しく生きていくことは出来ないと感じさせられてしまいます。しかし、聖書は、そんな不完全で、弱さを持つわたしたちを神はそのままで招き、受け入れてくださると語っております。破れの中にあって、間違えてしまうわたしたちを神は許して下さると語っております。大切なことはその弱さを自覚することであると語られているのです。わたしは不完全である。弱さを持っている。そのような自覚をもつことによって、だからこそ、神の恵みによってでしか生きていくことは出来ないと、知らされていくのであります。そのうえで神の赦しを語るイエスの言葉に、行いに励まされていくのです。自らの弱さを克服することはわたしたち自身には、自らの力のみでは出来ません。神によってその弱さを肯定され、許されていくことによって、はじめて新たに歩みを進めていくことが出来るのであります。そのようなわたしたちでありますから、このルカ福音書6章27節から語られる「敵を愛する」という教えは、ただ自分の力のみでは難しいことであると思います。しかしここで語られる愛は、すでにわたしたちに対しても注がれている神からの愛であります。その愛によってわたしたちは励まされ、歩みを進めているのであります。自分たちだけの力では難しいかもしれない。でもそんな弱さ、不完全さも含めて神にゆだねていくことによって、本来憎しみや恨みとなるそんな感情も神にすべてゆだねていくことによって、与えられた区別のない愛を、わたしたちも実践していくことが出来るのではないでしょうか。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」とのイエスの言葉は、神の愛に対するわたしたちに出来る応答の道を示すものであるのです。
神にゆだねて生きる。そのうえで、憎しみを恨みを「愛」へと転換していく。そんな歩みを大切にして、明日からの新しい一週間を進んでいきたいと思います。
(高塚記)