主日礼拝説教要旨
「今日リンゴの木を植える」(8/6)
テサロニケの信徒への手紙二3章6~13節
第二テサロニケの著者は共同体としての歩みを進めようとしている人々に対して、怠惰な在り方を避け、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことを(12~13節)」するようにと勧めます。これは、「終末」に対する誤った理解に流されることなく、また、刹那的で、自分本位な在り方に流されてしまわないように、今一度示されたキリストに結ばれた者としての自覚を思い起こさせようとしているのです。周りをかえりみず、無秩序に刹那的で、自分本位な在り方というのは、深く物事を考える必要がないあり方と言えます。この先どうなるかは考えなくていい、もうあとは自分が良ければそれでいい。誤解によって生まれた未来への放棄という状況において、楽な方、楽な方へと流されてしまった結果がこの「怠惰、無秩序な生活」の在り方であります。このような在り方に対して著者は「落ち着いて仕事を」、「たゆまず善いことを」していくことを命じていくのです。誤った教え、考えに流されることなく、惑わされることなく、これまでと変わらずに与えられた仕事、役割を果たしていくこと、また、「善いこと」なすようにと命じていきます。この「善いこと」はキリスト・イエスが地上において示され、命じられたように、共に歩む人々と互いに愛し合い、仕え合い、支え合い生きていくことであります。いつの時も愛を持って他者と関わり、自分の事だけでなく、自分の事のように他者に思いを寄せていくということであります。このような在り方は「怠惰、無秩序な生活」の自分本位な、利己的な在り方とは対極にあるようなものであります。「終末」が近いとか、あるいはいつ来るのかわからない不安。そのような事柄に心を惑わされ、今共にある人々の事を放棄し、ないがしろにしていくような在り方を戒め、先のわからないこと、人の力では理解の及ばない事柄については神にすべて委ね、「落ち着いて」、命じられたように互いに愛し合い、仕え合い、支え合う、他者とのつながりの中で、キリストに倣う歩みを進めていくようにと語られているのです。
(高塚記)
主日礼拝説教要旨
「助け求める叫び」(8/13)
マタイによる福音書14章22~33節
神的存在として顕現したイエスが叫び声をあげて助けを求める弟子たちやペトロに応えていくという物語は、断絶されていた神と人との関係がイエスによって回復され、そしてイエスを通してその救いが為されていくのであるということを示すものなのです。わたしたちは自らの力ではその信仰の揺らぎをとめることのできない弱い存在であります。その弱さこそが自ら神から離れていってしまった人間の罪の本質であるのだと思います。そんな弱さという罪を持つわたしたちが出来ることと言うのは神に対して切に助けを求めて叫び声をあげていくことだけなのであります。その切なる叫びは必ず聞き届けられ、救い出されていくということが聖書のメッセージに語られているのです。わたしたちの弱さは神の前に正しいものではありません。しかしながらそんなわたしたちの罪をイエスは担って十字架上の死により贖ってくださいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。このようにわたしたちに語りかけ、弱さを担ってくださるキリストの存在にわたしたちはより頼み、十字架上の贖いという恵みに感謝しつつ日々歩まなければならないのです。キリストは復活の後、マタイによる福音書において「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」といってくださいました。わたしたちは現実の困難、苦しみにさいなまれ、不安とおそれの中で神とのつながり、イエスとのつながりを希薄に感じてしまい、信仰が揺らいでしまうものであります。しかしだからこそ、この苦しみの満ちる、信仰の揺らぎを感じる世にあるわたしたちは、ペトロや弟子たちがそうしたように、心の底よりの「助け求める叫び」の声を上げていくのであります。その声に対してイエスは何度でも聖書を通して「安心しなさい」「恐れることはない」と共にいて語って下さいます。そして、イエスのその大きな愛を内に宿すことによってわたしたちは赤ん坊が母親から切り離されていくように神から切り離されてしまったかのようなこの地上の世での日々の歩みを進めていくことが出来るのではないでしょうか。現実は困難で苦しいものでありますがこのイエスの言葉に、聖書から語られるメッセージに支えられて新たな一週間の歩みを進めてまいりたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「共に生きるために」(8/20)
マルコによる福音書8章31~38節
34節でイエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」といわれます。わたしたちは、先ほどお話したように時に自分本位になって他の人の事を考えず、自分が良ければというような思いに駆られてしまう時があります。それは私たちの弱さの一つであるかと思います。「自分を捨て」なさいとのイエスの言葉は、私たちのそんな「自分の事だけを考えてしまう」弱さを見抜いて語られています。そして、「十字架」はそんな私たちの弱さを象徴する「罪」を表しています。自分を捨てるというのは、自分の利益ばかりを求めてしまう、自分にばかり目を向けてしまうことにとらわれてはいけないという勧めです。そして自らのその弱さである「十字架」。それを背負うということは、そんな「自分の弱さ」を知り、目を背けることなく、それと向き合うことです。ここまで聞くと大変厳しいことを言われていると感じます。しかし聖書の教えは、救いの知らせはそれだけで終わることはありません。聖書には私たちのそのような弱さを持っていて時に間違えてしまうという「罪」をイエスがわたしたちのかわりにその身に負い、十字架にかかったということが言われています。イエスが私たちのその弱さのために、向き合いきることの出来ない事柄を共に担って、重みを分かち合ってくださり、向き合い歩むことが出来るように支えてくれていることが語られています。また、その生涯においては泣いている人が笑い、孤独な人が居場所を見つけ、立ち上げれない人が立ち上がるために歩まれたイエスの愛が数多く語られています。イエスはその生涯を通して、そして、その自らの死を持ってしてもわたしたちの弱さに寄り添い、共に担い、歩んで行くための杖となってくださったのです。先ほどの言葉に続く35節には「私のために、また福音のために命を失う者はそれを救う」とあります。このたくさんの愛をくださったイエスに応えていくように、与えられた愛を次につなげる歩みをするようにとこの聖書の言葉では教えられているんです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「罪人を招く主」(8/27)
マタイによる福音書9章9~13節
イエスの招きには、それと同時に「赦し」が与えられます。そしてまた受容があります。「罪人」として当時人々からその存在を認められず、避けられ、疎まれていた人々にイエスは、「わたしのもとに来なさい」、「あなたはそのままでいいのだ」と「存在」を認め、受け入れ、その立ち帰りの出来事によって赦しを与えていくのです。それは「わたしが何かをしたから」「どんな人間だから」ということには関係がありません。「わたし」が何かをする前に既に与えられた「招き」と「赦し」であるのです。それは人の価値観によるものではありません。決して社会が規定した区別によるものではないのです。イエスはただ人をそのままに受け入れられます。その受容の恵みによって、わたしたちは自らの本当の居場所に気付かされて、真の安らぎを得ていくのです。神のもとに立ち帰る出来事は、自らの存在が認められて、受け入れられる喜びの出来事です。イエスはそのように人々を招かれて、多くの人にとっての居場所となられました。そしてそれはイエスの伝えた喜びを伝える教会の使命の一つでもあります。イエスがそうなされたように、教会は多くの人にとっての居場所たるべき場所です。様々な考え方、価値観の違い、立場の違い。それを乗り越えて教会は多くの人にとっての居場所です。それは特に社会からはじき出されていくような、疎外されたり、孤独を感じたりしている人々にとっての居場所でありたいと思うのです。あなたがあなたのままでいいと、ともに歩もうと手を伸ばすことの出来る働きをなしていきたいと願います。「罪人」とは、違反するものではない。他者を害するものではない。弱さをその内に抱え、孤独に苦しみ、居場所を、道を失った人々であるのです。わたしたちもまたそのひとりです。わたしたちがその弱さのままに存在まるごと受け入れられた喜びを覚え感謝したいと思います。そしてわたしたちがそうされたように、他者に対しても、社会に対してもわたしたちの価値観、社会の規範といわれる一面によって区別するのではなく、判断するのではなく、すべての人を招き、居場所となるような教会形成をなしていきたいと思います。
(髙塚記)