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主日礼拝説教要旨
「祝福の逆転」(10/)​

ルカによる福音書16章19~31節

 聖書時代のユダヤの人々は地上での富や地位、権力は神の祝福によって与えられる恵みであると考えていました。だからそれを享受することは権利であるとさえ考えられていました。しかし実際神の下においてはそれらは祝福の証しではなかった、という事実がこの「金持ちとラザロ」の物語によって突きつけられているのです。それどころか祝福が与えられていないと思われていた人に実際には神のもとにおいては豊かな祝福が与えられていく事を知らされるのです。人の価値観、地上の価値観における祝福はこうして逆転させられていくのです。そして、この物語は単なる地上の富の否定ではありません。単に富を持っているからだめとか、幸せであったら神の前で不幸になるとかいう話ではありません。人の価値観、在り方を示すものです。金持ちが生前に門前に横たわるラザロに目を向けようとしなかったその姿勢が冒頭で強調される。そして今度は自分がその立場に落とされて助けの手を伸ばされることがなくなってしまう。それらの描写によって自らの富、豊かさ、地位の維持やそれを享受することに執着して、周りを省みることのないような視野狭窄に陥ってはならないという警告が語られていくのです。自分を中心に置いた価値観で、それが正しいと盲信してはならないと警告されるのです。あのとき、ラザロに手を差し伸べることが出来ていれば、目を向けることが出来ていれば、この金持ちの運命は少し変わっていたのかも知れません。何が本当に大切なことなのか、豊かな道につながるのか考えなければなりません。

 現代日本における「個人主義」的在り方の拡がり。他者との繋がりの希薄さや関心の低さ。自分を中心に置いていく視野の狭まり。困難がある時、この視野の狭まりは顕著に表われます。しかし困難がある時こそ、本当に助けを必要とする声がある。伸ばされている手があるのです。地上の価値観における、「利己的な在り方」から転換して、イエスがそうされたように、人と共に歩む道を選び取って行きたいと願うのです。多くの判断を求められる場面において、聖書の言葉から聞きながら、自らの歩みを問い続けて歩んで行きたいと思います。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「七回の過ちと赦し」(10/)​

ルカによる福音書17章1~4節

 そんな何度も自分との関係を切ろうとしてくる人を何度だって赦して受け入れようというのは大変難しいことのように感じます。その関係性が近しいほどに、一度でも裏切られるような事があるともう信用出来なくなってしまうこともあります。それなのに何度でも「受け入れる」というのは私たちには到底出来ないように思われるのです。この何度裏切られても受け入れる姿勢。これは神の救いの在り方を示すものです。人は弱さを抱えています。間違えることなく、迷うことなく、揺らぐことなく、主の備えられた道を歩むと言うことは私たちにはなかなか出来ないものです。何度だって間違えるし、神からの恵みを忘れるし、神に恨み言だって言うんです。それでもいつでも神のもとに戻ってくれば、また同じように受け入れてくれる。というよりも、自分が切ってしまったと思っている神と自分との関係性さえも神は切らずにとどめておいてくださるのです。その何度裏切ろうとしても、関係性を切ろうとしてもつなぎ止め続けてくださる神の姿がここにあるのです。そして神にそのように赦され続けている私たちは、その神に与えられた大きな慈悲と恵みにあって、簡単に他者を切り捨てるような事があってはならないと言うことが示されているのです。受け入れられているものであるにもかかわらず、その恵みを忘れて、他者を切り捨てる、他者との繋がりをとどめようとしないのは、受け入れられていることへの感謝と喜びを忘れる行為であるからです。私たちは弱さの中にあります。だから何度も裏切られるような事があれば、心が折れてしまうかも知れません。神のように赦し続ける事など出来ないかも知れません。でもそうやって自分が受け入れられている事を知って、少しでもその恵みへの応答として自分も倣っていきたいと思うのです。引き留め、引き戻すまでは出来ないかも知れない。でもその人がいつでも戻ってこられるように、自分の前の扉は開き続けていく。受動的ではありますが、そこからはじめて行きたいと思うのです。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「愛の所在」(10/15)​

ルカによる福音書17章20~21節

 イエスが語る「バシレイア トゥ セウー」とは「神の支配」という捉え方です。さらに言うならば「神の力、その手の届くところ。神の意志が実現される場所」を指すものです。ファリサイ派やユダヤの人々が待望する「神の国」は地上世界における現世的な願望の実現を指しています。しかしイエスの語る「神の支配」はそのような現世的な願望の実現ではありません。ましてそれは力によって他者を打倒することによって実現されるようなものではないのです。イエスは21節において「神の国、神の支配は見える形では来ない」と語りました。この言葉こそ、現世的な願望の実現としての「神の国」理解を否定する言葉、あるいはそれをこえたところにある「神の国、支配」の在り方を示す言葉です。そしてそれに続けて「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と語りました。ファリサイ派の人々のイエスへの問いただしは「神の国はいつ来るのか」というものでした。しかしイエスはこれまでも語ってきたようにはっきりと「あなたがたの間にある」と断言します。「ある」は「エスティン」というギリシア語が用いられていますが、「現在形」で語られているのです。今まさにそこに「神の国」は「ある」とイエスは語っているのです。しかし人はそれを見ることは出来ない。「あなたがたの間に」と言う訳ですが、正確にはあなたがたの「中」にあると語っています。これを聞いていたファリサイ派の人々、ユダヤの人々は「バシレイア トゥ セウー」を「国」であると理解していたので、このイエスの言葉の真意を読み取ることは出来なかったことでしょう。人間の内にある「バシレイア」とはなんなのか。そもそも「神の支配、神の力がおよぶ」とはどのような事を、状態を表わしているのか。イエスのその生涯において示された神の姿、人の間にあって共に歩まれようとするその姿。さらにすべての人を招き、赦す慈悲深い姿。それらから知る事が出来る神の在り方とはまさに「愛」であるのです。神の招きと赦し、恵みによって生かされるその命。その人間の内に豊かに息づくのは神の愛です。人が神に愛される者として他者と関わるときに、神がそうされたように他者を受け入れ、共に支え合って生きることによって、その与えられた神の力の象徴であるところの「愛」は豊かにその場に拡がっていくのです。人と人との関わりの中でその「愛の力」が満ちるとき、そこには「神の意志が実現される場所」が現出していくのです。それこそがイエスの語る「神の国」の在り方です。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「生涯の日を数える」(10/22)​

詩編90編1~17節

 この夏、私は肺がんが見つかり左肺の大半を切除する手術を受けました。この歳(86歳)になって死が身近であることを、再確認させられることとなりました。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。(略)朝に死に、夕に生まるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」。鴨長明による方丈記です。その千数百年前のユダヤ人の詩(詩編90)と何とよく似ていることでしょうか。しかしそこには大きな差異も読み取れます。

詩編90には没落,無常を嘆く一方で、神への祈りが記されています。「生涯の日を正しく数えるように教えてください」(12)。自分に与えられたいのちの日を数えさせてください。「知恵ある心」(神のみ心)を教えてください。という祈りです。

 

二つのポイントを学びます。

 

  1. 神のみ心(知恵ある心)を求めます。

人生の悲哀が詠われています。「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ枯れて行きます」(6)。その中で人生の意味を学びます。知恵ある心を学ぶ。悲哀の中に神のみ心を学ぶことです。

 

2. 希望を求めます。

「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(14)。人生の悲哀、無常を自覚しながら、それを突き抜けるいのちの喜びを求めます。歳を重ねて、昔のように思いどおりに動けない自分がいます。でも、何もできないのでしょうか。何かが「手の業」(17)として与えられている筈です。祈ることができる自分がいます。祈られている私がいます。これは希望の源です。

 

自分の身に起きることを、たんたんと受け止めて生きることを教えられます。この夏の私の手術体験の中で、この詩編の言葉に励まされてきました。“どうにもならない”と感じるその時に、そっとして自分の日を数えてみましょう。病も、頑張って闘わないで、そっと受け容れてみればどうでしょう。そして祈りましょう。必ず希望が示されます。神のみ心・知恵の言葉を知らされて、与えられた生涯の日々を喜びたいものです。

​(前島宗甫記)

主日礼拝説教要旨
「豊かさの形」(10/29)​

創世記1章31節

​ 私たちは「便利」なものに囲まれて、ものがあふれるような環境で普段生活をしています。そんな環境の中で特に深く考えずに、与えられている環境の、便利さのありがたみなんて考えずに日々過ごしてしまっています。さらにはその中で、多くの物を無駄にして、大切にしないで過ごしてしまっているかもしれません。そんな日々の中で果たして私たちは「豊か」な「生き方」をすることが出来ているのか。「豊かさ」とは果たして何なのでしょうか。

創世記1章31節。この箇所は、神が世界を創造していく物語が記される箇所です。言葉によって光が生まれ、闇と分けられ、大地が出来て、植物が生え、動物が生まれ、人が生み出される。そんな過程が語られていきます。そしてすべての創造が終わったとき、31節「神はおつくりになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と語られております。この世界が生まれたその時に現代のような便利な機械はあったでしょうか。なんでも帰るコンビニは、楽に移動できる乗り物は。それらは当然ありません。しかし、今から考えれば何にもないように思える世界でも、「そのすべてを」みて「それは極めて良かった」と言われております。この世界には、すでにその時必要なものはすべてあってそれで十分だと語られているのです。「豊か」に生きること。「豊かさの形」というのは、それぞれの環境において全く違うといってもいいのかもしれません。でも、大切なのは、今与えられているものが「十分」で、それを大切に生かしながら生きていくことによって「豊かな」生き方が出来るということに気づくという事だと思います。日本語でも「足るを知る」という言葉があります。人間の欲望はどこまで行ってもきりがありません。それどころか時に他者の持っている物に手を伸ばして奪い取ろうとしてしまう弱さを持っています。これだけあったら十分だ、「豊か」に生きられるんだ。あるいは、自分一人で持っている物は少なかったとしても、他者と共に生きる在り方においてはそれを生かして「豊か」に生きる事が出来る。物質的な、あるいは利己的な欲に駆られた「豊かさ」ではなく、多様に拡がる環境の中で、その中で見つける「豊かさの形」を模索していきたいと思うのです。

​(髙塚記)

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