主日礼拝説教要旨
「恵みの良い知らせ」(12/3)
イザヤ書52章7~10節
イザヤ書52章に記される詩は、ユダヤの人々がバビロン捕囚から解放された時期に記されたものであると言われています。バビロニアがペルシャとの戦争に敗れ、国が滅んだのです。新しい支配者となったペルシャは、捕囚のイスラエルの人々に、帰国したい者は帰国せよとの布告を出します。一人の預言者が現れ、民に語りました「主は私たちをバビロンから解放して下さった。さあ、故郷に戻ろう」。しかし、民の反応は鈍いものでした。多くの者は「いまさら廃墟となったエルサレムに戻るつもりはない」、「ここでの安定した生活を捨てるつもりはない」と断りました。「故国に帰り、新しい国を興そう」という預言者の言葉に従う者は少数だったのです。廃墟のエルサレムに戻り、新しい生活を始めたいとは思わなかったのです。一度故郷を滅ぼされるという悲劇を経験し、50年という歳月の中で、苦しい異国の地での生活に適応してきた人々は、また改めて荒れ果てた地を再興していく厳しい道のりに歩み出すための勇気と力を失ってしまっていたのです。そんな状況の中で語られたのが先の7節の言葉であるのです。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」。ここで語られている「美しい足」。山々を巡り歩いてぼろぼろになって、汚れてしまった足は、そのように故郷を滅ぼされ、バビロン捕囚としての生活の中でぼろぼろになってしまった人々の心を表わしています。ぼろぼろで汚れていようとも、希望を持って、またエルサレムの地で歩み進めようとすることがどんなに希望にあふれたものであるかを語り、大いに励ましを与えようとする言葉であるのです。故郷の滅びと異国での生活。そこで耐え忍んでいた人々は心身共にボロボロになっていました。そんな人々は今更故郷に戻っても、自分たちでは新たな歩みを始めることなんてできないと後ろ向きになっていました。しかし預言者はそうは思わなかった。自分たちの信仰を故郷を滅ぼされても、異国での生活の中でも、ぼろぼろになりながらもなんとか守り続けたその人々の姿が「美しい」と語るのです。バビロンという遠い異国の地から、山々を越えて荒れ果てた地に戻るとき、足を汚しながら、ぼろぼろにしながらも、また自分たちの信仰の場を復興させるための働きをなそうとするその姿はどんなに「美しい」ことかと力強く語るのです。
故郷を滅ぼされるという経験も、異国での生活も、さらに荒れ果てた故郷をまた復興する働きも決して簡単なことではありませんでした。希望に満ちあふれたものであるとは言えないものでありました。しかし、その厳しい道のりを歩んできたからこそ、この解放の知らせは、喜びになるのだと、希望になるのだと語るのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「耳の痛い言葉を聞く」(12/10)
列王記上22章6~17節
アハブ王は、北イスラエルにおいて異教の神であるバアルを礼拝することを民に強制したり、自身もバアルやアシェラといった異教の神に仕えるなどして、神の目に悪とされる行いをした王であると評される人物です。神の言葉を求めるふりをして自分に都合の良い言葉だけしか聞こうとはしませんでした。神の言葉という形式すらも自分の都合の良い形で利用したのです。だからそのような自分の考えに従わない真実の神の言葉を語るミカヤを目の敵にしました。耳の痛い言葉を排除したのです。その結果がミカヤの預言通りの戦の失敗とアハブ王の死でした。
神の預言はアハブ王にとっては都合の悪い、聞き入れたくないようなものであったでしょう。しかしそれは、アハブ王と北イスラエルの民に対する警告でありました。攻め上れば北イスラエルは指導者をなくし、迷い出る羊のようになってしまう。だから攻め上るべきではない。そんな警告の言葉です。しかしそんな言葉をアハブ王は聞こうともせず、耳を塞ぎ、都合の良い言葉だけを求めて、聞こうとしました。真実に目が開かれることはなく、神の示す道を知る事はできなかったのです。
私たちは今、待降節、アドベントの時を歩んでいます。このクリスマスの備えの時は、「悔い改め」の時としても定められています。クリスマスという喜びの出来事を覚える時、私たちは今改めて自分の信仰の歩みを、日々の歩みを省みなければなりません。イエスが伝えてくださった神の福音に私たちは生きる事ができているのか、本当に目を向けなければならない場所から目を背けてはないか。聞かなければならない言葉に耳を傾けることができているのか。自分の都合の良い言葉だけを選び取ってしまい、きれいなところや多くの人が感心を持つところだけに目を向けてはいないか。本当に大切なところを知り、大切な言葉を聞くために改めてこの時、自分の歩みを見つめ直したいと思うのです。たとえそれが、私たちにとって「耳の痛い言葉」であっても、「都合が悪い」と思ってしまうような事であったとしても、真実を見極めていかなければならないと思うのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「平和のイメージ」(12/17)
イザヤ書11章1~10節
ロシアのウクライナ侵攻を案じている矢先、イスラエルのガザ攻撃には心が痛みます。200万人を超える住民が電力、水道、医療そして食糧へのアクセスを絶たれ、死者は15,000人を超え、国連関係者の犠牲も100人を超えたと伝えられています。アハリー・アラブ病院も爆破され500人が犠牲になりました。1893年、英国聖公会によって設立されたパレスチナ最古の病院です。難民としてガザに居住している人びとのため、医療だけでなく食料などの支援にも関わるガザの基幹病院でした。
解決への道はあるのでしょうか。アラブ系とユダヤ系のボランティアによる食糧支援活動が報告されていました。主催者のS・ノサッキさんは「二つのグループが一緒になり、人間らしさを取り戻す取り組みだ。互いを怖れて閉じこもっていては人間らしさを失う。この活動が皆の心に注ぐ一筋の光になってほしい」と語ります(朝日新聞11月8日)。
イザヤの言葉に聴いてみましょう。イザヤは紀元前7世紀の預言者、思想家でもあります。当時、アッシリア帝国が歴史に登場。強力な軍事力を背景に侵攻を始めていました。イザヤはその中で平和のイメージを語ります。「レバノンの大木」を神は切り倒され、その切株から生まれた若芽が平和のシンボルになるというのです。「エッサイ」とはダビデの父に当たります。「勇者ダビデの株」ではなく「エッサイの株」というのは、新しい平和のイメージなのでしょうか。そして共生・共存のイメージを語ります。強力な軍事力ではなく小さい子どもに導かれる平和です。
その数世紀後、強大なローマ帝国の軍事力に苦しめられていた人びと。イエスはその中に生まれました。その場所は「切り倒された株」のような「家畜小屋」でした。そして「神と隣人を愛して生きよ」、「敵を愛せよ」と語り生きたイエス。
アドベントに当たって、一人の幼子によってもたらされる平和のイメージを求めたいと願います。
(前島宗甫記)
主日礼拝説教要旨
「神は我らと共に」(12/24)
マタイによる福音書1章18~25節
ユダヤにおいて社会から疎外され、「罪人」とされていた人々のその歩みは、生活は、まさに暗闇に閉ざされるようなものであったでしょう。様々な苦しみにさいなまれて、そこから救い出されるという望みも持つことは許されなかった。その歩みは不安や恐れに満ちたものであったことでしょう。しかしイエスはその行いや言葉によって、そのような人々に対して、「あなたは決して一人ではない」「神は共におられる」「勇気を持ちなさい」と暖かな光を注がれたのです。神の救い、その恵みはそのような陰をこそ照らすのであると、その陰の中に沈む人々にこそ与えられるのだと証しされたのです。このようにして光を当てられた人々は、もう暗闇にとらわれて、恐れや不安の中に留まることはありませんでした。希望という光と勇気というあたたかさに包まれて、その歩みを進めることが出来たのです。イエスの生涯はその名の通り「神は救い」であり「神は我々と共におられる」ということを証明するものであるのです。
この聖書によって知らされている神の救い、恵みの在り方は現代でも変わることはありません。世界に、社会に拡がっていく暗闇はなかなか晴らすことは難しいものが大変多くあります。神は沈黙し、見放しているのではないかと思われてしまうような苦しく悲惨な状況もあります。その中で「希望を持て」と語ることは簡単にできることではありません。しかしそれでも私たちはこの聖書で語られる福音を勇気を出して今語らなければならないのです。イエスがその生涯において当時の社会規範を覆し、批判されようとも、命を脅かされようとしても語り続け、手を伸ばし続けられたように、そのような場所にこそ神が共におられ、救いがある事を信じなければならないのです。私たち自身の歩みについてもそうです。この先の未来に不安を持って、恐れにとらわれてしまうこともあるかも知れません。しかし神はそのような恐れや不安をその光で照らして、進むべき道を示してくださると聖書は語ります。イエスはいつも共にいてくださると聖書は語ります。そのことに勇気を与えられて、進むべき道を見いだしていきたいと思うのです。その歩みにおいて、イエスが示された希望の光を、勇気の灯火を拡げ、陰を照らす業をなしていきたいと思うのです。そして一人でも多くの人に「あなたは一人ではない」と「神は共におられる」と語り、手を伸ばして、共に歩む道を進んでいきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「希望と不安」(12/31)
マタイによる福音書2章1~12節
今回の聖書の個所で示される物語には、対照的な事柄が並べられていることがよくわかります。キリストの誕生という希望とそれに対する人々の不安。「希望と不安」。ヘロデ王やエルサレムの人々の不安にとらわれる姿と東方の学者たちの喜びと身をささげていくように礼拝をする姿。そして、キリストの誕生という喜びの側面とキリストの贖いの死という運命が示す「痛み」の側面。「喜びと痛み」。ここに示されることから私たちは、キリストに従っていくこと、自らの信仰を問い直されていきます。先にも示されたようにヘロデ王やエルサレムの人々の不安にとらわれる姿は、人の持つ弱さを語っていますが、これは私たち自身にもあるものではないかと思わされます。今自分が持っているもの、自分の力で手に入れたと思っているものに対して、それが脅かされることに不安になります。誰かのためにそれを捨て去ることはすぐに決断できることではありません。大変難しいことです。それが人々のためになるからといって、今持っている物や地位、力を捨て去っていくというのはなかなかできないことです。ヘロデ王やエルサレムの人々にもそれはできなかった。だから、待ち望んでいたはずの「メシア」の誕生の報を聞いたにもかかわらず、自分たちのありようが揺り動かされる事、脅かされることに目が行ってしまい、喜び受け入れることが出来なかったのです。では、キリストに従う者の在り方とはどのようなものでしょうか。このキリストの誕生の物語によってその道標が示されていきます。キリストは人々の苦しみや悲しみ、痛み、悩みと言った、この地上の暗闇を取り払う希望の光、東方の学者たちを暗い夜の道の中導いた「星の光」のように、この地上に神によって与えられました。そしてその地上の暗闇を取り払うために、その誕生の時からすでに「痛み」と「苦しみ」の道を歩まれる運命を背負ってこられました。この「痛み」と「苦しみ」は、キリストの行いゆえに与えられるものではありません。私たちの「不安」や「恐れ」を取り払うために、キリストが私たちの代わりとなって、すべてを捨て去って、神の子であったその地位も、得られたであろう名誉も、平穏な生活も、そのすべてを捨て去って、「痛み」と「苦しみ」、その「死」を受けられるのです。このキリストの苦難があるからこそ、私たちには「希望」が与えられているのです。このキリストの苦難があるからこそ、この誕生の出来事は「喜び」であるのです。私たちがキリストの誕生に感謝し、それを希望として歩もうとするとき、このキリストの「痛み」を忘れることはできません。このキリストを礼拝するというのは、東方の学者たちがそうしたように、万難を排し、自らをささげていくような行為であることを思わされます。この物語を読むときに、また、そのように自らの信仰が問われていくことを思わされます。
(髙塚記)