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主日礼拝説教要旨
「祈りとパン裂き」(9/)​

マルコによる福音書6章30~44節

 この「5000人供食」の物語は、社会という中にありながらも、不安や、苦しみ、悲しみ、悩みの中にあって、孤独を感じ、暗闇をどっちに進めばいいのかわからないような状態にある「群衆」に希望の光と道が同時与えられていく物語であります。イエスはすべての人を招いてくださっている。「あなたがたを私は受け入れる」とその行いを持って示してくださる。それは進むべき先が見えない人々にとって大きな希望であります。そしてここでもう一つ重要なことがあります。今回の聖書の箇所の前、6章1~6節にはイエスが生まれ故郷であるナザレで受け入れられなかったという物語が記されております。ナザレの村では、村人たちはイエスの言葉やその業を、人間的な理由によって素直に信じることが出来ず、イエスを受け入れることが出来ず、拒否していきます。その人々の不信仰によってイエスは「奇跡をおこなうことがお出来にならなかった」と5節には記されております。この出来事から分かるように、イエスの起こされる奇跡は、イエスの人々に対する愛や、まねき、受容があったうえで、人々もイエスを求め、まねきにこたえ、受け入れていくことによってなされていくものであるのです。ここにはイエスと人とに相互の関係性が生まれていくのであります。「5000人供食」の物語においてもイエスはこの荒れ野にいるすべての人々を招きました。しかしそれだけではこの奇跡が起こることはありません。ここに集った人々が、イエスの言葉を信じ、イエスの行いを信じ、イエスの招きにこたえ、進んでいく思いを持つことがなければ、イエスとの間に相互の関係性が生まれることはないのです。そしてそうでない限り、奇跡が起こることはないんです。イエスに招かれ、それにこたえ、受け入れられていくことによって、福音が地上において成し遂げられていくのであります。

このイエスの招きは私たちがそれと気づくよりも前に、何よりも先に与えられているものであります。しかしその招きに私たちはすぐに気付くことが出来なかったり、招かれていることを忘れ、この地上の世界の思いわずらいに心を奪われてしまったりすることもあります。そんな私たちに対して、聖書はいつもこのイエスの招きの出来事を私たちに示し、イエスが絶えず語り掛け続けてくださっていることを、招き続けてくださっていることを伝えてきます。それはこの週に一度の礼拝の時、普段生活をしているとき、一人でいてふとした時。様々な時の中でそれに気づかされていきます。その時私たちは目の前にある希望の光、慰めの暖かさ、備えられた道が続いていることに同時に気づかされていくのです。イエスに食卓へと招かれた聖書の中の人々と同じように、希望を求め、救いを求め、道を求めてその招きにこたえた時、イエスとの相互の関係性が与えられ、そのイエスを通して神と出会っていくことが出来るのです。そのことをこの5000人供食の物語から学び、覚え、イエスの招きに気づいていくことが出来るような歩みを進めていきたいと思います。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「神と共に、私たちと共に」(9/10)​

箴言8章22~31節

 今回の聖書箇所、箴言8章22節からのところでは、天地創造の物語がモチーフとして語られております。その初めの時から神と共にあって、働いていた「知恵」。そして、その「道」を神と共に造り上げていったことが語られていきます。このようにその初めから神と共にあった知恵、神のもとで働いていた知恵の存在を示し、さらにその後、31節に「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と続きます。この記述は、初めの時から「神と共に」あった「知恵」は、地上にあってまた人とも共にあることを示していきます。そして、32節の「さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」との言葉によって、わたしたちと共にある知恵が示す道を歩み、知恵と共にある神のその道を歩んでいくことを勧めるのです。それと同時に、「知恵」とは私たちを正しき道へと導くために、私たちと共にあって働く者であることを明かしていきます。

聖書は、旧約聖書・新約聖書、そしてそこに収められているそれぞれの書簡、それは確かに、それぞれ違う時代、違う地域、違う状況の中で記されました。しかし、それらを現代において、受け取り、今こうして、私たちが読むときには、この聖書一冊というのは、バラバラのものとしてとらえるのではなく、そこに一つの希望、救いを見て、そこで語られる言葉から学び、気づきを与えられていくものです。聖書の最初から最後までを通して、そのそれぞれの歴史の中で、場所で、状況の中で働かれる神の業を垣間見ていくのです。そこで神と共に、また人と共に働くのはやはり、ここで語られている「知恵」であります。聖書にしるされる言葉一つひとつには、その時代、その地域、その状況に生きた人々の経験が込められております。そしてそこで培われた、神と共に生きるための生活のすべ、歩むための道しるべとなった「知恵」が示されているのです。これこそが歴史に働く神の軌跡の一つであります。今日の箇所で語られるように、その初めから神と共にあった知恵は、それぞれの時代において、神と共に歩む人々と共にありました。そして、イエスの時代においてもまた、イエスの語る言葉に、イエスの行いに、その知恵は働いているのです。

​(髙塚記)

南海地区交換講壇礼拝説教要旨
「見つけて、走り寄って」(9/17)​

ルカによる福音書15章11~32節

「放蕩息子のたとえ」は、聖書の記事の中でも、大変有名な箇所のひとつです。20節「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、あわれに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」ここが、「放蕩息子のたとえ」のポイント、というか、重要なところではないかと思います。父親が、放蕩・散財の限りを尽くして帰ってきた下の息子の姿を遠くに「見つけて、走り寄って」、抱きしめたところ。23節で下の息子は、18・19節の「我に返って(17節)の反省の言葉」を直接父親に告げるのですが、その告白よりも、父親の「見つけて、走り寄って」の方が、先な訳です。この父親は、神さまにたとえられている訳ですけれど、「神さまの救い、恵みの方が、悔い改めより先なのだ。悔い改めが救いの条件という訳ではない。」、と示されています。主イエスは、そのことを言葉とつながった行いであらわす、「神、人となり給うた方」、でした。22節「しかし、父親は僕たちに言った。」「しかし」。23節の下の息子の「もう息子と呼ばれる資格はありません。」という「罪の告白」の言葉を、父親は実質遮っている訳です。そして、僕たちに祝宴の用意をさせます。24節「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」いなくなっていたのに見つかったからだ。」という、「失われた者の回復」。それが神さまの御心なのだ、と。神さまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくないものにも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45より)方なのだ、と。

 25節から「まじめな上の息子」が登場し、放蕩の末帰郷した弟への祝宴に対し、28・29節のように激怒します。それに対する父親の言葉。32節「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜び楽しむのは当たり前ではないか。」…改めて、「失われた者の回復」が語られます。父親の言葉、神さまの言葉、として。

 主イエスは、「楽園を追われるアダムとエヴァに、皮の衣を着せてくださった神さま」が人となられた方。裏切り、逃げ出した弟子たちと、十字架の傷のままで復活し、出会いなおされた方。迫害真最中のパウロに呼びかけられた方。 ですから、私たちにも。…兄でもあり、弟でもある、私たち。

​(横山 潤記)

主日礼拝説教要旨
「弱さの中でこそ」(9/24)​

コリントの信徒への手紙二12章1~10節

 自らの弱さゆえに歩くことも、立ち上がることすらもままならないとき。その時にこそこのキリストの力、「愛」は十全にその働きをなすと語られます。パウロはその自らに与えられた「とげ」ゆえに伝道の働きの中で多くの困難がありました。手紙を自らの手でうまく書くことは出来ずいつも代筆をしてもらい、直接会って話したとしても力強くは語ることが出来ずに弱々しく覇気が無いと評されてしまうこともしばしばあったと言われています。しかしそのようなパウロはその生涯の歩みにおいて、大いなる伝道の業を成し遂げたと評価されるほどの働きをします。それはパウロの力が飛び抜けていたからか。才能にあふれていたからか。そうではありません。パウロはその伝道の道で多くの人に助けられ、励まされ、支えられて、なんとか歩みを進めたのです。弱さの中にあるがゆえに、そのパウロを支える手が、共に歩む人が与えられていったのです。そのようにして弱さゆえに共なる歩みがなされたことによってその伝道の業が形作られていったのです。「弱さの中でこそ十分に発揮される」のはこのような人と人との間に輝く「愛の力」です。だからパウロは9節終わりでこう力強く語ります。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いによろこんで弱さを誇りましょう」と。弱さゆえに、隠すことの出来ない弱さがあるがゆえにそれでこそ、自らを神に委ねることが出来る。キリストに委ねることが出来る。他者と共に歩むことが出来ると語るのです。それこそが本当の力であるとパウロは示していくのです。そして最後にパウロは改めて力強く宣言します。「わたしは弱いときにこそ強いからです」と。

弱さに打ちひしがれる時にこそ豊かにキリストの、神の愛があなたに注がれていると言うことを。またその愛によって連なる信仰の友が共に手を差し伸べて歩んでくれると言うことを。聖書はなんどでも繰り返し語ります。「あなたは一人ではない」「わたしが共にいる」「恐れることはない。勇気を持ちなさい」と。新しい一週間の歩みもまたこのような豊かな励ましと愛によって支えられ、勇気を携えて進めていきたいと願います。

​(髙塚記)

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