主日礼拝説教要旨
「心の促しに」(7/6)
コリントの信徒への手紙二8章1~15節
現代社会にあって、この日本という国全体を見通しても先行きに不安を感じる現状があります。7月半ばには参議院選挙も控える中で、日本という国の未来を思う時があります。それだけでなく世界に目を向けても争いが各地で拡がる中で、やはり恐れと悲しみが拡がっている状況に憂いを抱いてしまいます。そのような中にあって自分にできる事がどんなに小さいか、無力化を感じてしまいます。自分の足りなさというものに打ちひしがれてしまう思いにとらわれます。しかしわたしたちは決して何も持っていないのではありません。微力ではあるかも知れないが、無力ではないのです。小さな一票、小さな声、小さな力かも知れないけれどもそれが大きな何かを動かすきっかけになるかも知れない。だから今あるこの力で、できる範囲の事柄で、行動を起こしていく事に大切な意味があるように思います。その思いが、行動が、量ではない、大きさではない、「豊かさ」につながっていくと思うのです。人のために何ができるか、悲しむ人のために、苦しむ人のために、これからの人のために、その心にあふれる思いによって促されて進み出る力が与えられていく。それがわたしたちの内にある豊かさであるのです。この心の内にあふれる思いは、私たちに与えられたキリストの恵みによる豊かさであります。イエスは自らを貧しさに置き、また苦しみの道を歩まれることによって、人々を救いの道に入らせようといたしました。そしてその十字架上での死と、その後の復活によって、その道を示してくださいました。この大いなる恵みは、私たちの心の内に満ち溢れる祝福として、与えられていることを、今日のパウロの勧めからも私たちは知らされています。この豊かさに満たされた心に促されて私たちは、自ら出来ることを、他者と共に生きるための業を行っていくことが出来るのです。そしてそれは、私たちに与えられたイエスの恵み、そして愛に対する応答の業であります。これはなにか見返りがあるから行うことではありません。与えられたことに対する応答として、感謝を示すものとして行っていくことであります。12節に「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられる」とパウロが語るように、私たちは、今この状況の中で、自分に出来ることを、持っているものの中で行っていくことによって、また、神に自らを捧げていきそのうちに受け入れられていくのです。イエスがそうされたように、私たちもまた、それに倣って豊かさに満たされた心の促しに応えていく歩みを進めてまいりたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「思い悩むな」(7/13)
マタイによる福音書6章25~34節
人間は良くも悪くも先のことを想像し、想定し、悩むものです。そもそもが「思い悩む」という性質を抱いています。ここで語られている教えは、思い悩むものを戒めるのではなく、そのような性質を持ち、先の不安と恐れに押しつぶされそうになりながらも懸命に生きる人々に対する、慰めと励ましの言葉であるのです。思い悩み、歩みゆく力を失いそうになっている人々にやさしく語りかける言葉なのです。あなたがたは一日一日を懸命に生きている。その姿を神はしっかりと見てくれている。そして必要なものを知ってくださっている。だからその懸命な歩みを神様は支えてくださる。不安かも知れない。恐れを抱いているかも知れない。だけど鳥を養うように、花を着飾らせるように、懸命に生きるあなたがたをきっと神は忘れる事無く、その支えの手を伸ばし、必要を満たしてくれる。だから必要以上のことを抱え込んで、無用な苦しみを抱く必要は無いんだと。そのように慰めと励ましを語ってくださっているのです。人々はそれまでその懸命に生きる日々の中で、律法を満足に守ることができず、そうした振る舞いのゆえに宗教の指導的立場の人々からは、「神から見放されている存在」と言われてきました。その言葉は人々を日々の苦しみと不安をさらに上乗せするような残酷なものでした。今日を生きるのも苦しいのに、神にも見放され、この苦しみのままに神のもとにいくことも許されないなんて。そんな絶望に対して、イエスはこの教えによって「神はあなたがたを決して見捨てない」と力強く宣言しているのです。「明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる」とは、全てのものに目を注がれ、育まれる神の姿を示しているのです。
そんな全ての人を育み養ってくださる神が今もなおわたしたちに目を注ぎ、必要なものを備えてくださいます。イエスが語る励ましを受けて、わたしたちもまた思い悩みの一つ一つを神様に委ね、安心と力を与えられて日々の歩みへと進み出ていきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「求めなさい」(7/20)
マタイによる福音書7章7~12節
様々な課題を、壁を前にしたとき、それを解決しようと、そこからなんとか脱却しようともがきます。道を模索して、様々な方法を試して、どうにかならないかと悩み苦しみます。これは現実的な生活で度々経験することでありますが、わたしたちの信仰生活においても同様に経験するものでもあります。神の示す正しさに生きようとするとき、それがなかなかに出来ずに苦しむこと。聖書が語るようには生きることが出来ずに自らの弱さに嘆くこと。そうした思い悩み、苦しみ、嘆きはここで言うところの「求めること」であり「探すこと」であり、「門をたたくこと」であるのです。わたしたちの信仰生活とはまさにここで語られている一つ一つのことを繰り返し繰り返し諦めずにやり続けることであるとここには示されているのではないかと思うのです。正しく生きられない。そうしたいと思っている事ができない。悪いことを考えてしまう。逃げてしまう。弱さに向き合いきれない。それらを感じたとき、思い悩んだとき、わたしたちは神に対して助けを求めます。自分にはもうどうすることも出来ない。助けてほしい。歩くべき道を教えてほしい。その歩みは決してスマートなものとは言えないかも知れません。順調とも言えないかも知れません。でも信仰の道はそのようなものであるのだとこの言葉は示しているんです。そしてその道において与えられるそれはその時にあっては「こんなものほしくはなかった」「これではないんだ」「なんでこんなものが与えられたんだ」と思ってしまうようなものなのかも知れません。わたしたちが求めるようなものとは全く違うものであるかも知れません。でも神様は「良いもの」をわたしたちに与えてくださいます。それは将来振り返ったとき、あの時の経験があったから、あの出会いがあったからと思うことが出来るようなものであるのです。わたしたちが神を求めるその道においてそのようなもがくような、うずくまるような、立ち止まってしまうような歩みの中でそれでもどうにか一歩を進めようとするわたしたちに神様が与えてくださる「良いもの」であるのです。
それは過去、苦しくつらいと思った経験かも知れない。それらがどんな意味を持つのかはわたしたちにわかるのはずいぶんと先の話になるかも知れません。でも神様はきっとよいものをわたしたちに与えてくれるとこの聖書は語っています。だからわたしたちは迷いながら、もがきながらでもこの一歩を進めていくのです。求め続けて、探し続けて、たたき続けて、その先にある希望を目指して歩いて行くのです。その歩みをきっと神様が見てくれていて、ここに示されているように豊かに祝福されて、支えの手が伸ばされると信じて、励まされて、この先の一週間も歩み進めていきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「和解の時」(7/27)
コリントの信徒への手紙二5章14節~6章2節
人と人とが対立するとき。そこで和解することは大変に難しいことです。パウロの資質を疑う考えが入り込み、これまでに築いてきた関係性に亀裂が走り、その心はパウロに対して、また、パウロの語る福音に対して頑なになってしまっていました。そのような頑なな思いは神に対してさえも向けられてしまうものでありました。でももしかしたら、コリントの人々はパウロを一度疑ったことによって、その過ちを認め、また心を開くということが難しくなってしまっていた、間違いを認めることの苦しさによってその心が頑なになってしまっていたのではないでしょうか。「自分は間違っていない」と。「自分が正しいんだと」そのような思いで頑なになっていたのではないでしょうか。人と人との関係性ではこの頑なな思いは和解を大変に困難にさせるものであります。そして時が過ぎてしまえば、和解を望むことは出来なくなってしまいます。しかし、パウロはそんな頑なな思いにとらわれる人々にこう語ります。「今や、恵みの時。今こそ救いの日」と。この言葉は、頑なになっている人々を断罪する言葉ではありません。ましてや非難する言葉でもありません。今こそがあなたがたが救われるにふさわしいときだと。あなたがたが神によって受け入れられるのにふさわしいときだと、そう語るのです。頑なになったことを裁くのではない。非難するのではない。そして、心が離れようとしたとき、それは神の救いからこぼれ落ちる時、もうその救いがかなわなくなってしまう時ではないと。どんなときでも、神の恵みに気付いた時こそが、救いの時であるのだと語り、パウロは力強い愛の言葉を持って和解を勧めていくのです。
これは今を生きる私たちも同じです。苦しいとき、悲しいとき。神は共にいてくれないのでは無いかと思ってしまうとき。神を疑うような、その関係性に亀裂が入ってしまうような経験をしていきます。しかしパウロはこう語る。そのようなときこそ、「今や、恵みの時、今こそ救いの時」と。神はいつも人々との和解を望んでおられます。私たちはその招きの恵みを受けて、感謝をもって日々の歩みを豊かに進めていきたいと願うのです。そしてこのパウロの「今や、恵みの時。今こそ救いの日」という言葉に希望を抱いて、勇気を持って日々証しをしていきたいとそう願います。
(髙塚記)