主日礼拝説教要旨
「たとえを用いる」(9/7)
マタイによる福音書13章34~35節
13章の一つのまとめとして位置づけられる今回の箇所は、本来の「たとえ話」の役割が語られているところです。引用された詩編の言葉。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」。「たとえ」を用いて福音が語られるのは、決して隠されるためではなく、全ての人に真の希望が明かされ示されるためであるとここで宣言されているのです。ではなぜ直接的な言葉ではなく「たとえ」が用いられるのか。それはどのような立場にある人でも、背景を持った人でも直感的にそのメッセージを受け取り理解することが出来るようにするためです。当時のユダヤにおいていわゆる「知識階級」と言われる人々は限られた一部の人でしかありませんでした。高度な知識を扱うどころか「文字」を扱うことが出来る人も一部であったと言われています。神の教え、儀式、祈り。どのような宗教的行為においても一般の人にとっては遠いものであり、身近に扱うことが出来るようなものではありませんでした。しかしイエスはそのような教えを、日常の教えというレベルではなくその本質、奥義を全ての求める人に語られました。それは「たとえ」を通して行われました。大衆にとって身近である職業に関連したことや日々の生活に根付いたものに例えられた話し。そうした内容から救いの本質とも言える神の姿や「神の国」についてを明かして行かれたのです。それは決して隠されるのではなく、全ての求める人が知る事ができる形で提示されていったのです。その始まりの時から「神との関係性」「神とつながるための儀式」「それを司る存在」は一部のものにとどまり「隠されていたこと」でした。しかしイエスはそうした事柄を決して秘儀とせず、全ての人が受けられるように、全ての人に開かれたものとするように共に歩む人々に対して語ってくださったのです。
そのようにして伝えられてきた話は、今わたしたちもこうして一人一人の手の中で「聖書」という形で親しく読むことが出来ます。知る事ができます。時代によってはこの聖書すらもまた「一部の人のもの」とされ、手にすることが出来ない時もありました。しかし今わたしたちはこうしてイエスの願いの通り一人一人が手にして知る事ができます。ここに語られているようにこの言葉は心から神の救いを、道を求める人全てに明かされている希望の光です。神の姿を、その希望を全ての人が受け取ることが出来るようにと伝えられてきたその努力をわたしたちもまた引き継ぐものとして今ここにいます。そのことに感謝をしていまあらためてこの聖書の言葉に向き合いたいと思います。そして底に示される希望を証しするものとしての働きを受け継ぎ、しっかりとなしていきたいと思います。そのための力と知恵と勇気が与えられることを願いつつ、新しい一週間の歩みへと進み出ていきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「天の国は」(9/14)
マタイによる福音書13章44~46節
この二つのたとえでは両方とも「天の国は次のようにたとえられる」との語り出しから始まっています。しかしながら「これが天の国である」という断言がどれを対象にしてもなされていません。だから「宝」とか「高価な真珠」が天の国であるということは絶対とはいえないのです。というより「次のようにたとえられる」との言葉はその後の話全体を指して言われていることであるので、天の国のありようをたとえ全体を通して表現していると考えるならばどれが「天の国」であるという捉え方自体が間違っているのかも知れません。では全体が天の国のありようを示すものであると考えるならばどのようになるかを考えてみたいと思います。まず「天の国」とは、ギリシア語で「バシレイア トゥー ウーラノン」という文章になっています。「バシレイア」が「国、または王国」で「ウーラノン」が「天」を表わす単語です。だから直訳でも「天の国」ないしは「天の王国」になります。しかし「バシレイア」には違う訳もあってそれは「支配」です。またマタイの特徴として極力「神」という言葉を直接的に使わないように伝承を編集し「天」と言い換えるということがあります。だからここの箇所の元々の伝承は「バシレイア トゥー セウー」。「セウー」は「神」です。そうして文章を再構築すると「神の支配」となります。さらに意訳していくならば「神の支配」は「神の力のおよぶところ」または「神の手が届く場所」とも解釈されます。そうした解釈においてあらためて二つのたとえを見ていくとどうなるか。神の力がどのように拡がっていくか、その支配がどのように届けられるのかを語っているたとえに見えてくるように思うのです。畑、土の中に隠された「宝」とは、未だ神の支配、力がおよんでいないところを表わします。言い換えるならば未だ神の救いの届いていない場所、その希望を知らない人です。神はそれを自らの労苦によって見つけ出し、見つけたら自らの全てを犠牲にしてでも手に入れられるということを示しています。また商人が高価な真珠を求めてどこまでも探し歩いて行き、それを見つければやはり全てを犠牲にしてでもその手を伸ばしてつかみとって行くように、まだ道を知らず、希望や恵みを見いだすことが出来ていない人々を捜し求めて見つけてくださり、その手を伸ばしてくださる神の姿を表わしているのです。宝、高価な真珠は神様にとってのわたしたち罪人であるとイエスさまは語ってくださっているのかも知れません。その独り子であるイエスさまをお与えになられたほどにわたしたちを求めて愛してくださる神のそのお姿をイエスさまはこのたとえによってわたしたちに示してくださっているのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「人の権威ではなく」(9/21)
コリントの信徒への手紙一1章10~17節
コリントの共同体の人々がそれぞれ自らが信じる、信念とするところを主張して、他派の考えを否定し排除しようとすることによって共同体が分裂しようとしていたのです。そうした状況に対してパウロは嘆く様子をも見せながら「キリストはいくつにも分けられてしまったのですか」と語ります。本来一つであるキリストを中心として集まらなければならないはずの共同体。にもかかわらずそれぞれが自らの正しさに固執し、人間的業績や能力、地位、経験という「人の権威」にすがることで、本来あるべき「信」が失われてバラバラになっている状況にパウロは嘆きます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのか」「パウロの名によって洗礼を受けたのか」との言葉は「単なる人間に過ぎないものの権威によってあなたがたがつなぎ合わされたはずがないだろう」とあらためて証ししているのです。
そうしてパウロは人々に本来の「権威のありか」を語ります。17節です。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」。本来わたしたちがすがるべき「権威」はこの「キリストの十字架」という偉大な業であり、神から与えられる「聖霊の働き」であることがここに示されています。それらは決して「パウロが語って伝えたから」「アポロが心を打つように教えたから」「立場の高いペトロが証ししているから」「個人的に神秘的な経験をしたから」権威があるというものではありません。すべての権威はキリストにあり、神にあり、その福音はそのキリスト、神の権威によってわたしたちに与えられているものであることを忘れてはならないとパウロは勧めるのです。
「十字架がむなしいものになってしまう」。これはパウロの切実な言葉です。人の権威によって伝えられたと、あの人が言ったから、あの人の言葉だからということで信じるならばそれには何の意味も無いと語っているのです。人の権威は揺らぎ不安定な土台でしかありません。それは私自身の、自らの信仰すらもそうであるかも知れない不安定な土台の上にあるかも知れない、という疑念を持ち続けなければなりません。自らの正しさ、人の権威にすがってはいないか。それにとらわれて固執して視野が狭まってはいないか。常に自らの信仰を省みて道をただしていくことが重要であるとここで示されています。そのような自らを正す知恵と力が神から与えられることを願いつつ、新しい一週間へと歩みすすめて参りたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「裏切られようとも」(9/28)
ルカによる福音書17章1~4節
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。「一日に七回罪を犯しても」と具体的な回数が示されます。それにしても、一日に七回です。でもこの七回という数字すらも限界数として言われているものではないんです。七という数字は当時のユダヤにおいて特別意味合いを持っていました。それは「完全な数字」という意味です。それは神が6日間で世界を想像し、七日目に休まれたと言うことに起因するようです。とにかく七は「完全数」と呼ばれています。だからここで一日に「七回罪を犯され、七回赦す」というのは、象徴的に完全数の七が用いられることによって、何度であろうと自分のもとに戻ってきたら受け入れなさいと示されているのです。
そんな何度も自分との関係を切ろうとしてくる人を何度だって赦して受け入れようというのは大変難しいことのように感じますその関係性が近しいほどに、一度でも裏切られるような事があるともう信用出来なくなってしまうこともあります。それなのに何度でも「受け入れる」というのは私たちには到底出来ないように思われるのです。この何度裏切られても受け入れる姿勢。これは神の救いの在り方を示すものです。何度もお話ししていますように、人は弱さを抱えています。間違えることなく、迷うことなく、揺らぐことなく、主の備えられた道を歩むと言うことは私たちにはなかなか出来ないものです。何度だって間違えるし、神からの恵みを忘れるし、神に恨み言だって言うんです。それでもいつでも神のもとに戻ってくれば、また同じように受け入れてくれる。というよりも、自分が切ってしまったと思っている神と自分との関係性さえも神は切らずにとどめておいてくださるのです。その何度裏切ろうとしても、関係性を切ろうとしてもつなぎ止め続けてくださる神の姿がここにあるのです。そして神にそのように赦され続けている私たちは、その神に与えられた大きな慈悲と恵みにあって、簡単に他者を切り捨てるような事があってはならないと言うことが示されているのです。受け入れられているものであるにもかかわらず、その恵みを忘れて、他者を切り捨てる、他者との繋がりをとどめようとしないのは、受け入れられていることへの感謝と喜びを忘れる行為であるからです。私たちは弱さの中にあります。だから何度も裏切られるような事があれば、心が折れてしまうかも知れません。神のように赦し続ける事など出来ないかも知れません。でもそうやって自分が受け入れられている事を知って、少しでもその恵みへの応答として自分も倣っていきたいと思うのです。引き留め、引き戻すまでは出来ないかも知れない。でもその人がいつでも戻ってこられるように、自分の前の扉は開き続けていく。受動的ではありますが、そこからはじめて行きたいと思うのです。
(髙塚記)