主日礼拝説教要旨
「らくだが針の穴を」(10/5)
マタイによる福音書19章16~26節
「金持ち」というのは聖書において批判される対象としてよく取り上げられて、その多くはがめついような傲慢なようなありようで描かれます。しかし当時のユダヤにおける伝統的な捉え方ではそうではありません。研究熱心で戒律に厳しく、人々に教えを語る律法学者が尊敬を集めていたように、多くの財産を持ついわゆる「金持ち」と表現できる人々もまた他者から信頼され神から祝福を受ける人だと捉えられ、信仰の面でも敬虔であれば尊敬もされるのです。そうした神から祝福され敬虔に生きると思われるような人でさえも神の国に入ることが不可能と言われてしまえば「誰が救われるのだろうか」と嘆いてしまう弟子の思いも理解できるのです。ここで語られる「針の穴」。これには様々な解釈がなされています。小さな穴にらくだを通すなんて現実的ではないからおそらくらくだ一頭が全ての荷物を降ろして体を縮こまらせてなんとか通ることが出来たエルサレムの城門にある小さな門のことだなど。それ以外にも色々ありますが、こうした解釈はイエスの言葉をなんとか現実的なものにしようという努力であるわけです。わたしはこのような解釈は意味の無いことであると思います。そもそもイエスはこの言葉に続けて「それは人間にできる事ではない」とはっきり言っているのです。「小さな門にらくだを通すこと」は人間にも可能なことです。「荷物を降ろさなければならない」ということから「この世の富に執着せず本当に重要な真の宝を求める」というような歪曲な解釈は必要ないのです。はっきりと「神の国に入るのは人間の力では出来ない」と言っているのです。そしてそれは「神にのみ出来る」と。
人は自らの力のみでは自らの「罪」をなくすことは出来ません。贖うことは出来ません。だから自らの力では神の前に正しき姿となって立つことは出来ないのです。どれだけこの世的に評価が高かろうが、信頼を得ていようが、信仰的に敬虔であると尊敬を集めていようが。それによって許されるのではないのです。ただわたしたちは、わたしたちのために神でありながら人となり、十字架で死んでくださったイエスにおいてのみ許されるのです。イエスのこの言葉、教えは「ただ神にのみ頼れ」という簡潔なものであるのです。人には不可能なことを神は実現してくださる。人の諦めに神は希望を与えてくださる。諦めと絶望が拡がる現在において、これを希望にして、神の平和を実現する歩みを頼るべきを頼り、祈りを持って進めて参りたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「落ち着いて仕事を」(10/12)
テサロニケの信徒への手紙二3章6~13節
今回の聖書箇所である第二テサロニケ3章6~13節で語られている状況として、テサロニケの共同体の中には、「終末」、「キリストの再臨」について誤った理解をし、この世的な働きをせず、共同体において必要な物を得たり、支え合ったりする0ための役割を果たさない、「怠惰な生活」を送る人々がいたようです。6節冒頭の言葉に「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。」とあります。ここで言われている「怠惰な生活を送る人々」は「終末」が近づいた今この時、これから先続いていくとは考えられない共同体、他者との関係性をつなげていくことを諦め、重要な事と考えず、今この時良ければそれでいいという「刹那的な」生活をしていたようです。「怠惰」という風に訳されている言葉ですが、これはギリシア語で「ατακτως(アタクト―ス)」との単語が用いられています。これは直訳するならば「無秩序」という意味です。積み重ねがなく、継続性のない、周りや先を見ない歩みであることを示しています。このような「無秩序で継続性がなく、刹那的な」生き方というのは得てして、周りのこと、他者のことをかえりみない、自分本位なあり方となります。第二テサロニケの著者はこの「怠惰な生活を送る」人々に直接警告するのではなく、そうではない、共同体としての歩みを進めようとしている人々に対して、そのような怠惰な在り方を避け、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことを」するようにと勧めます。これは、「終末」に対する誤った理解に流されることなく、今一度キリストに結ばれた者としての自覚を思い起こさせようとしているのです。
この「善いこと」はキリスト・イエスが地上において示され、命じられたように、共に歩む人々と互いに愛し合い、仕え合い、支え合い生きていくことです。いつの時も愛を持って他者と関わり、自分の事だけでなく、自分の事のように他者に思いを寄せていくということであす。このような在り方は「怠惰、無秩序な生活」の自分本位な、利己的な在り方とは対極にあるようなものであります。「終末」が近い。それがいつ来るのかわからない不安。そのような事柄に心を惑わされ、今共にある人々の事を放棄し、ないがしろにしていくような在り方をしてはならないと語ります。そして先のわからないこと、人の力では理解の及ばない事柄については神にすべて委ね、「落ち着いて」、命じられたように互いに愛し合い、仕え合い、支え合う、そんな他者とのつながりの中で、キリストに倣う歩みを進めていくようにと語られているのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「過ちを知る」(10/19)
マルコによる福音書14章26~42節
イエスはその生涯においてただ一人神の僕としてのその道をまっすぐに歩み抜かれました。それこそ自らの苦しみ、死を前にしても苦悩しながら、もだえながらそれを受け入れていきました。その先に与えられたのはなんだったか。それは孤独でありました。弟子たちからも民衆からも真の意味で理解されず、ただ孤独の内に寄り添うものなく、その道を歩まれていくのです。この孤独もまたイエスの受難の一つであったのです。ではなぜ、これほどまでの苦しみをイエスは受けなければならなかったのか。それが私たち人の神の前に正しく生きることのできない弱さ、過ちを繰り返す罪の故であるのです。旧約の時代。その罪の報いは直接人々に与えられていきました。時に国の滅亡という苛烈さをもって裁きが与えられていきました。しかしそれでも人は神の前に立ち帰って正しくあり続けることはできず、過ちを繰り返すのです。その弱さゆえに与えられたのがイエス・キリストです。このすべての人の罪科を、すべての人に与えられるはずであった大いなる裁きをその身にすべて受けられるのです。旧約に語られた神が新約において優しくなったのではない。その苛烈さをすべてになってくださったのがイエスという存在であったのです。だから再び眠りに落ちてしまう弟子たちを見てイエスは41節でこう言うのです。「もうこれでいい。時が来た」と。本来私たちは、自らの罪ゆえに神にすがることさえも許されないほどの存在であったはずです。いや弱さゆえにそれができないという方が正しいでしょうか。そうして滅びるしかなかった私たちに代わって、イエスはその生涯を正しく生きたにもかかわらず、その身にすべての裁きを受けて、孤独と苦しみ、悲しみの道を歩まれたのです。そのことによって、今イエスを通して私たちはこうして神に祈ることが許されているのです。私たちでは担いきれない重荷をイエスは担われ、その道を開かれたのです。旧約聖書を綴ったかの時代の人々は、自分たち人間の神に対する背きを忘れないように、そして繰り返さないように、歴史をひもといていきました。私たちも今、この聖書の言葉より、自らの罪ゆえに、弱さゆえに、イエスにすべての苦しみを担わせてしまった、その出来事を読み返します。このイエスの苦難・苦悩を私たちは忘れてはなりません。感謝と悔い改めの思いを持って歩んで行かなければとそう思わされるのです。そしてそれと同時に、キリストゆえに私たちは自分たちではどうすることもできなかった罪が許されているという喜びもまたこの胸に希望として抱きたいのです。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「土の塵で」(10/26)
創世記2章4~9節
人間とは他の生き物、被造物と比べてある意味で言うならば「特別」と言うことが出来ます。しかしそれはすぐれているという理由から「特別」であるという意味ではありません。むしろ人間は「欠けている」「不完全である」から「特別」と言うことが出来るのです。何が欠けているか。それは人間とは本来「神から離れては生きていく事ができない存在」として造り出されたということです。神が造り出したのは「空の器」です。いつ崩れるともわからないはかない器です。そのような者が生きる者となれるのは神御自身の「息」、「恵みの霊」が与えられているからです。わたしたちはこの神から与えられる「恵み」によって「生きる者」とされているのです。神からの恵みなしには生きることが出来ない。そのような存在としてはじめから造り出されている。そもそもが本質的に「神と共に生きる者」として造り出されたのだと言うことがこのエピソードによって明確にわたしたちに伝えられているのです。
しかしわたしたちは時に自らが不完全であると言うことを忘れてしまい、傲慢になってしまうことがあります。もはや自分たちには不可能なことなどないと思ってしまうようなことが時にあるのです。しかしそのような傲慢に人がとらわれた時、必ずと言って良いほどにそのしっぺ返しを受けるのが人の歴史というものです。世界を自分たちの思い通りにしようとして力を高めていった先に何があったのか。夢のエネルギーと言って自分たちが未だ制御しきることが出来ないものを扱い続けた結果起きたことは何であったのか。人は失敗を繰り返し反省をして、また間違った道に進まないように努力をします。それでも間違えてしまう。正しくあり続けることは出来ない。そのことを聖書は全体を通して繰り返しわたしたちに伝えています。人類のこれまでの歴史もまたそのことを教えています。そうした不完全さ、弱さをわたしたちが持つのだと言うことを折々にわたしたちは思い出し、胸に刻み、傲慢になることがないようにと気をつけなければなりません。そしてそのような弱さや欠けを補ってくださる存在がいる事もまたわたしたちは知っています。ただ自分は不完全だと、欠けや弱さを持つ存在だと屈折し絶望するだけで終わることがないと言うことをわたしたちは知っています。弱く本来のあり方である神と共に生きる道を進むことが出来ないわたしたちと共に歩み、道を示して、導いてくださるイエスという存在がいる事を聖書によって知らされています。神から離れてしまうわたしたちのもとにイエスは自らその足を運び、手を差し伸べ、正しき場所へと引き戻してくださいます。その恵みと救いという喜びを今あらためて覚えたいと思います。欠けを抱える不完全なわたしたちが今「生きる者」とされて行くための希望を、この降誕前の時に思い起こしつつ、感謝を持って喜びへの備えを進めてまいりたいと思います。
(髙塚記)