主日礼拝説教要旨
「なぜ顔を伏せるのか」(11/2)
創世記4章1~10節
神は「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」とカインに警告します。この言葉は自らの過ちに目を向けるのではなくて、利己的な思いにとらわれて怒りを燃やすカインへの警告です。待ち伏せる罪とは自分を優先したあげくの他者の排斥です。人間創造においてその本質は「神と共に生きる」ということでした。そして人間関係というものの出発点が「助ける者」が必要であったということは人間の本質一面として先のことと同等の意味を持ちます。カインは自己本位的な思いによって本来自分の弱さを補ってくれる存在であるはずの他者であるアベルを邪魔者として排除してしまいます。これが人間の持つ逃れることが出来ない「罪」であると語られているのです。神はそれを「支配せねばならない」といいます。自分の弱さに向き合い、欲望に押し流されることなく、律することを意味します。しかしこの物語は「罪を支配する」ということの困難さを語ります。弱さに向き合うこと、利己的な思いを捨てること。誰もが大切だと思いながらも実行できない。人間的弱さをカインの姿は痛々しくも明確に表わしているように思えるのです。
先の13~14節でカインは神に対してこのように語っています。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう」。この言葉はここに至ってはじめてカインが自らの罪を自覚したことを意味するものです。そして正直に神に「見捨てないでくれ、あなたがいないと私は生きることは出来ない」と弱さに向き合ってそれを告白しているのです。だから神は完全には見捨てない。神がカインにつけた「しるし」は罪を支配することが出来ない弱さを持つ人ですらも神は決して見捨てないと言うことを示しているのです。
この慈悲は今ここに至って、わたしたちにも注がれています。長き年月を経てもなお、罪を克服することが出来ないわたしたちを神はそれでも見捨てることはありませんでした。その証しとして神はキリストをわたしたちにお与えくださったと聖書は語ります。その喜びと感謝を今この時、あらためて思い起こしたいと思います。弱き私たちと共に神の前に立ってくださるキリストによって勇気を与えられ、自らの罪、弱さを覆い隠して、顔を伏せることなく、自らの弱さ、罪をそのままに神に開示して歩むことが出来るように豊かな支えを与えられたいと願います。
(髙塚記)
逝去者記念礼拝説教要旨
「生涯の日を正しく数える」(11/9)
詩編90編1~12節
人は死という出来事に触れるとき、自らの人生の歩みについて考えるときが与えられます。親しい人の死、別れの時であるならば、その方と共に歩んだ人生を思い起こし、その方の人生の旅路を思い自らはこれからどのように歩むのかを考える。しかし私たちはこれからの自らの人生の旅路すべてを見通すことが出来る存在ではありません。明日自分がどうなるかもわからない存在です。だから先の歩みに思いをはせつつもそれがかなうことはありません。だからこそ私たちはその時その時を大切にしなければならないと思うのです。今この時どうするべきか、何が最善か。何を大切にするべきか。詩人が願う「生涯の日を正しく数えること」そのための「知恵ある心が与えられること」はそうした一つひとつの事柄を選び取るための支えが与えられるようにということであるのです。
しかしあわただしい日々の中ではそうしたことも大切だと思いながらも忘れてしまう、心を向けることが出来なくなってしまうこともまた私たちの弱さの一つであります。だから私たちは折々に立ち止まって自らの心を自らの歩みに向けるときを持つことが大切であります。そうした時の一つが今日のこの逝去者記念の時であると思います。先に召された方々を思う時。今日この場には多くの方々の写真が並べられています。また教会に関係する方々の名簿も併せて皆様のお手元にお配りしているかと思います。ここに並べられた写真やその名簿にはご家族や親しくされた方、お世話になった方などがいらっしゃることであろうかと思います。そしてここにはないけれども、今この場この時であるから思い起こすという方の顔も浮かぶことであろうと思います。そしてただその方の顔が思い浮かぶだけではなく、その方が語った言葉、一緒にしたこと、胸に刻まれた様々な思い出も一緒に思い起こされていることであろうと思います。そうした一つひとつは今思い起こされている方々から私たちに与えられ、今もなお心の内に豊かに息づいている恵みです。私たちに注がれた愛です。ぜひその一つひとつを今この時思い起こしながら、拾い上げていくように向き合っていただきたいと思うのです。そしてこれまでの自らの歩みが、その方の与えてくれた恵みや愛を繋げていけるような、さらに豊かにするようなものであったかを再確認するときとしていただきたいと思います。別れの時を思い起こしつつ、今は亡き方々の生涯の日々に向き合う時にこそ、私たちは自らの生涯の日を正しく数える知恵が与えられます。先達の愛と恵みによってそのための道や目が開かれていきます。この礼拝が終わった後、ここから始める新しい歩みを一歩一歩正しく歩むことが出来るように、先に召された方々の思いを胸に抱きつつ、神の支えと知恵が与えられることを願いたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「神様が示される救いの道」(11/16)
ルカによる福音書8章40~56節
会堂長のヤイロは、12歳ぐらいになる一人娘がいました。この娘は、ヤイロの努力の甲斐なく、死の一歩手前まで弱っていったのです。しかし、イエスがある女性と関わっているうちに、ヤイロの家から使いの者がやってきて、「お嬢さんは亡くなりました」と伝えたのです。一刻も早く来てほしいのに、イエスは道くさをされていたように思えます。なんと悲しい知らせでしょうか。しかしイエスは、娘の眠る部屋に行き、手をとって起こされたのです。ヤイロの娘は死を克服したのではありません。彼女は必ず、この後に何年後か分かりませんが、死ぬことになります。しかし、彼女は父ヤイロと共に救われたのです。それは命を与え、そしていつの日か命を取り去る主なる神様をヤイロが信じたからです。
さて、ここにもう一人、一人では耐えられないような苦しみを経験している人が出てきます。12年間、出血が止まらない病気を抱えていた女性です。イエスの服に触れた彼女の手には、辛くて、苦しい彼女の思いが一心に詰まっていたのだと思います。彼女の必死な思い、この苦しみを取り去ってほしいという求めがイエスに伝わったのです。
イエスは、一人の娘が死にそうな時に、別の女性と出会われました。出会う一人一人に対して一番ふさわしいかかわり方をして下さるのです。そこに主が共にいてくださるのです。主の救いにつながるのです。
イエスのみち草ともとれるような時に、そこでの出会いが別の人にとっては神様が示される救いの道につながったのです。
すぐにでも来てほしいのに、なんでわき道に行ったり、道くさしたりされるのだろうと思えます。しかし、一人一人の救いの道を示す大切な時だったのです。
私たちにも、愛するご家族にも、友人にも、神様はその人にもっともふさわしい救いの道を用意して下さっているのです。それは、神様の御心に適った道として与えられるのです。
イエスは、出会う一人一人にあった寄り添いをされて、その人の救い道を示され、新たに生かされていく力を与えられました。私たちは、神様が出逢いを与えてくださるひとりひとりの魂に寄り添える者でありたいと願います。 (田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
「恵みによって」(11/23)
コリントの信徒への手紙二9章6~15節
様々なものが満ち溢れ、捨てられていく。繰り返すような毎日。それらが当たり前になり、一つひとつに対する感謝が薄れ、今ある環境が普通であると思い、無駄にしてしまうことすらある。しかしそれらは本当に「当たり前」なのでしょうか。今このような状態は「ふつう」なのでしょうか。世界に目を向ければ、満ち溢れるような食べ物、飲み水、日常に用いられる便利な物の数々。そして眠るときに安心して眠り、次の日も当たり前のように目覚める日々というのは決して当たり前ではありません。これは日本の中においても言えることであります。貧困・災害などにより、今わたしたちが「当たり前」「ふつう」と考えているものが、「当たり前」「ふつう」ではない状況があります。突然「当たり前」「ふつう」ではなくなる現実があります。それらは、決してその「当たり前」「ふつう」の状態ではなくなったから「特別な」ものになるわけではありません。わたしたちがこの目の前において「当たり前」「ふつう」と考えているもの、感じているものは、今この時においても「特別」で「奇跡的」と呼べるような大変な恵みであるのです。「当たり前」のように、「ふつう」であるかのように与えられるこの恵み。それに気づかされ、感謝の思いが与えられ、応答する思いをも与えられること。それすらもわたしたちには恵みであるのです。わたしたちは日々の生活の中で、与えられる恵みの大切さに気付かず、「当たり前」「ふつう」と流してしまいます。そのような弱さを持っているのです。この弱さは、パウロがファリサイ派として活動していた時に、キリストの恵みに気付くことが出来ずに、キリスト者の迫害をしてしまっていた状態と同じものであります。しかし神は、そんな間違いを起こしたパウロを召し、キリストの恵みの輪を広げるための使徒とされました。そして、現代においてもこのパウロの言葉を通し、わたしたちは恵みの存在に気付かされ、日々の間違いに気付かされ、感謝と応答の思いが与えられております。この主による赦しという福音。「主の大いなる恵み」を受けたわたしたちは喜びをもってそれをさらに次へとつなげていくことができるよう今改めてこの聖書の言葉を心に刻み日々の歩みを進めていきたいと思います。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「恵みの良い知らせ」(11/30)
イザヤ書52章7~10節
イザヤ書52章に記される詩は、ユダヤの人々がバビロン捕囚から解放された時期に記されたものであると言われています。バビロン捕囚というのは、エルサレムがバビロニア帝国という当時の強国に滅ぼされて、神殿も破壊されて、また反旗を翻すことのないようにと残った人々をバビロニアの地へと連れ去った出来事です。その捕囚として生活は異国の地で、宗教的、民族アイデンティティであったエルサレムの土地も荒らされて、神殿も破壊された状況の中での苦しいものでした。そんな生活の中でもなんとか自分たちの信仰を保つためにそれぞれの時期に指導者として預言者が民の心を励ましていつの日か解放されてまたエルサレムの地へと戻ることを願い続けていました。50年経ち、バビロンでの生活にも慣れ、子や孫も生まれ、それなりの生活の安定も生まれてきました。そのような時、思いもかけない出来事が起こります。バビロニアがペルシャとの戦争に敗れ、国が滅んだのです。新しい支配者となったペルシャは、捕囚のイスラエルの人々に、帰国したい者は帰国せよとの布告を出します。一人の預言者が現れ、民に語りました「主は私たちをバビロンから解放して下さった。さあ、故郷に戻ろう」。しかし、民の反応は鈍いものでした。一度故郷を滅ぼされるという悲劇を経験し、50年という歳月の中で、苦しい異国の地での生活に適応してきた人々は、また改めて荒れ果てた地を再興していく厳しい道のりに歩み出すための勇気と力を失ってしまっていたのです。そんな状況の中で語られたのが先の7節の言葉であるのです。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」。山々を巡り歩いてぼろぼろになって、汚れてしまった足は、故郷を滅ぼされ、バビロン捕囚としての生活の中でぼろぼろになってしまった人々の心を表わしています。ぼろぼろで汚れていようとも、希望を持って、またエルサレムの地で歩み進めようとすることがどんなに希望にあふれたものであるかを語り、大いに励ましを与えようとする言葉であるのです。故郷の滅びと異国での生活。そこで耐え忍んでいた人々は心身共にボロボロになっていました。そんな人々は今更故郷に戻っても、自分たちでは新たな歩みを始めることなんてできないと後ろ向きになっていました。しかし預言者はそうは思わなかった。自分たちの信仰を故郷を滅ぼされても、異国での生活の中でも、ぼろぼろになりながらもなんとか守り続けたその人々の姿が「美しい」と語るのです。遠い異国の地から、山々を越えて荒れ果てた地に戻るとき、足を汚しながら、ぼろぼろにしながらも、また自分たちの信仰の場を復興させるための働きをなそうとするその姿はどんなに「美しい」ことかと力強く語るのです。
(髙塚記)