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主日礼拝説教要旨
「待ち望まれた希望の光」(1/4)​

ルカによる福音書2章22~40

 シメオンと女性預言者アンナが出会ったイエスは幼子の姿であり、決して力強く雄々しい姿ではありませんでした。知性あふれる姿でもありませんでした。しかしそれでもその力無く、まだ守られる存在としてあるイエスの姿を見ることによって、そこに救いの希望を見いだしていくのです。大きな「希望」が与えられているのです。このことは、ここで語られる希望が、力や知性などと言ったものに依存するものではないことを示していきます。幼子にルターの言うところの「悪と不幸を克服」していくような「力」を見いだすことは難しいかも知れません。しかし事実この幼子イエスの姿は多くの人にとっての希望となり、「強い勇気」を与えていくのです。力弱くなった足を強め、福音を告げるための力を与え、細くなった声に力を乗せて、大胆にその言葉を告げ知らせる賜物とする。闇夜に差し込む朝日。最初はほの暗い光かも知れない。それでもその最初の光は、夜明けを告げる希望の合図です。その光を浴びるとき私たちは、「強い勇気」を与えられ、その希望を持って「悪と不幸を克服していく」歩みを進めていくことが出来るのです。

 現在世界に目を向けても、日本社会に目を向けても、決して平穏とは言うことの出来ない状態が続いています。闇夜の中を歩むような不安と恐れにとらわれてしまうような思いになってしまいます。しかし今日のこの聖書の言葉は、そのような闇夜が続くような状況でもその先にきっと希望があると言うことを語っています。待ち望まれた希望が必ず与えられることが示されているのです。その希望を私たちは見据えて、夜明けを待ち望む思いを持って、今この時、祈りと支え合いの歩みを進めてまいりたいと願うのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「洗礼を受けるイエス」(1/11)​

マルコによる福音書1章9~11

 イエスが洗礼を受けられたという今回の報告。その前の場面では洗礼者ヨハネが登場し、後に来られるメシアの存在を語ります。そこでヨハネはイエスについて、「わたしよりも優れた方が後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」とかたります。「履物のひもを解く」という動作は、家の使用人が、家の主人が帰ってきたときにその足を洗うために行う動作です。僕、使用人としてその前に立つ価値もないと自らを表するのです。しかしイエスは自らを民衆と同じ位置、変わることのない存在として置かれました。それは先にお話ししましたように今苦しむ最も小さきひとりと共に歩むためのイエスの姿勢を表わすものです。だからここで洗礼を受けられる。民衆と同じように。神を自らの内に迎え入れるための備えをするのです。10~11節に印象的な場面が記されます。「水の中から上がるとすぐ天がさけて、霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの」という声が、天から聞こえた」。この後半の神の言葉「あなたはわたしの愛する子」という言葉。意味深い言葉です。この言葉を周りの人々が聞いていたという描写はなく、呼びかけが「あなた」となっている事からも、この言葉が神とイエスの間に行われた私的な、個人性を持った出会いの場面であったことがわかります。イエスが洗礼を受けられた場面。特別な位置に自らを置くのではなく、その時その時の決断において民衆と同じ位置で、最も小さくされるひとりと共に歩むための選択をされたイエスが神によってここで認められ祝福されていくのです。このイエスの姿こそが救いであると。福音であると。「わたしの心に適うもの」との言葉がそれを証明するのです。

 洗礼は私たちにとって共同体的、公性を持つものであると同時に私的、個人性を持つものであります。それはイエスにとってもまた同様でありました。この洗礼を受けられたイエスは、この時、人として自らの内に神を受け入れる備えをなされました。その手続きは、特別なものがあったのではありません。人々と同じように、祈りと信仰をもって、神との出会いをなされたのです。私たちもそうです。洗礼を受けるとき、また聖餐にあずかるとき。繰り返し神との出会いを経験していきます。救いと恵みを知る経験をしていきます。イエスがその自らの位置を限りなく低く、最も小さくされるひとり、最も神の助けを必要とする人と同じ位置に置かれました。それを象徴する一つがこの洗礼の出来事です。私たちは洗礼の時に、聖餐のたびにそのことを思い起こすのです。イエスが人としてこの地上に来てくださったから、苦しみを受け、その果てに十字架での死という運命を受け入れてくださったから、苦しみの中にあっても、悲しみの中にあっても、試練の中にあっても、どこであってもイエスは共にいてくださるという信頼を注ぐことができます。人として私たちと同じように洗礼を受けられたイエスだからこそ、その言葉に、行いに、真の希望を見出すことができるのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「しかし、お言葉ですから」(1/18)​

ルカによる福音書5章1~11

 「わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。専門家、職業人である自分たちが頑張ったのに一匹もとれなかった。それなのにもう日が昇ったこの時にとれることはないだろうと。そんなあきらめをにじませる言葉です。また、疲れもあったことであると思います。日が昇るまで何度も網を投げ、それでも何もとることができなかった。徒労に終わってしまったその日の仕事への悲壮感もあったことでしょう。漁師たちは魚がとれなければその日の収入はありません。だからこそこの日何もとれなかったペトロ達は残念な思いと、疲れと、無力感を抱いていた。そのことを思わせるのが先の「何もとれませんでした」という言葉です。「自分たちにはできなかった」「それをなす力はなかった」と。それでもイエスの教えに触れたからか、心を揺さぶられたからか、何かの働きがあったのか、「しかし」と言葉を紡いでペトロ達漁師は船をこぎだして網を投げるのです。どうなったか。6節「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」。あれほど苦労して、時間をかけて、経験に基づいてなせる限りを行ってもとれなかったのにも関わらず、イエスの言葉によって、「網が破れそうに」なるほどの魚がかかったのです。そして8節「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った」。ペトロは自分の目の前にいる存在が自分たちとは違う「力ある存在」であることに驚き、恐れます。「わたしは罪深い者」であると告白しながらその元を離れようとしていきます。ペトロはイエスを前にしたとき、またその奇跡を前にしたとき、自らが神の前において「力なき存在」で、滅ぼされる以外にない存在であることを強く自覚させられていきます。だから「わたしから離れてください」と懇願するのです。そのように驚き恐れるペトロとその仲間たちにイエスはどう声をかけたのか。10節「すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。イエスと出会う前、ペトロと仲間たちは何者でもありませんでした。特にイエスに出会ったその日は「何もとることもできなかった」無力を痛感させられていた存在でしかありませんでした。だからこそ「力ある存在」であることを示されたイエスを恐れ、おびえたのです。そして自らを神の前における力なき存在、滅ぼされる存在である「罪深きもの」と表明するのです。しかしイエスはそのようなペトロ達に「恐れることはない」と。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と力強く宣言されるのです。イエスが来る前、漁師たちは夜通しかけても魚をとることはできませんでした。しかしイエスがきて、漁師たちにその言葉によって促しを与えると、「網が破れそうになるほどのおびただしい数の魚」がとれました。この出来事は「何者でもない」人間が、「なんの力も持たない」人間が、イエスの支えによって、また、イエスを通して力と勇気が与えられることによって、自らのみではなすことのできないこともできるようにならされることが示されているのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「権威ある新しい教え」(1/25)​

マルコによる福音書1章21~28

 24節からでは男に取りついた汚れた霊をその言葉によって追い出す描写が示されます。男に取りついた霊はイエスに対して「かまわないでくれ」と叫びます。この言葉は意訳されており、直訳するなら「私たちとかかわりを持たないでくれ」となります。イエスを通して神と向き合っていくこと、神と出会っていくことを拒絶していくのです。「汚れた霊」とは新約聖書においても多く登場しますが、その解釈はこれまで多くなされてきました。「人を社会から孤立させ、神からも遠ざける存在」、「人に過ちを起こさせる存在」など様々いわれています。このような表現からあるいは、この汚れた霊は私たちの内なる本質的な弱さ、罪をあらわすものであるともいえるかと思います。神と向き合うことの出来ない、神から目を背けてしまう、そんな弱さを持つ私たちの罪、神の前にあれば、自らの破れあるその本質をあらわにされてしまうために、顔をそむけたくなってしまうそんな弱さ。それをあらわすのがこの「汚れた霊」であります。イエスを通して示される神の権威によって、強烈な迫りを持ってなされる招きを前にした時、自らの欠けを自覚し、その存在から目を背けたくなります。しかし、イエスは目を背け「かまわないでくれ(24節)」と避けようとする私たちをもその力ある言葉によって、従う者としてくださることが、この汚れた霊を追い出すイエスの姿から知ることが出来るのです。27節には22節と同じように人々が「驚いた」事が記されておりますが、ここの「驚く」は、先の「驚く」とは違う単語が用いられております。27節の「驚く」は「畏れる」という意味合いを持って用いられております。「畏れる」とは怖がる、恐怖するという意味ではなく、「畏怖する」「尊敬の念を抱きかしこまる」との意味が強い言葉です。「偉大な存在に対して身が引ける」というニュアンスもあるかと思います。このような人々の「驚き」は旧約聖書において人が神と出会う場面で、神に対して恐れおののき顔を伏せる描写が記されます。また、新約聖書においては、イエス誕生物語での天使を前にした羊飼いなどの姿を思い起こさせるものです。イエスの言葉とその力ある業によって、人々は神と出会い、向き合い、畏怖していくのです。

 こうした福音書の物語に接していくとき、私たちは、ここに登場する人々と同じように、驚き、揺れ、恐れおののいて身を引いてしまいそうになる、そんな自らの弱さという罪に向き合わされていきます。しかし、そんな弱さに気づかされていくときにも、イエスがその全霊を持って語り掛け、呼び、招いてくださっていることを同時に気づかせてくださいます。どれだけ私たちがこの汚れた霊のように「かまわないでくれ」と避けようとしても、それで終わらせることはなく、手を差し伸べ、神と向き合うための悔い改めの機会を与えてくださることが示されていくのです。

(髙塚記)

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