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主日礼拝説教要旨
「新しい歌を主に向かって歌え」(3/1)​

​詩編98編1節

 今朝の礼拝で「ライツ」によるゴスペルソングを聴きました。ゴスペルソングは、奴隷としてアフリカからアメリカに移住させられた人びとの間で創られ歌われてきた讃美歌です。ミュージカルでヒットし映画化された「天使のラブソング」や「ママ・アイ・ウオント・トウ・シング」などでポピュラーになりました。独特のリズムとハーモニーが大変魅力的です。
 「新しい歌を主に向かって歌え」(1)。命令の言葉です。すこしでも歌ってみたら?ではありません。歌は心から歌うものです。頭だけのものではありません。ひょっとしたら、今私たちの心は暗いかも知れません。歌を歌う心境ではないかもしれません。その心にこの呼びかけがなされます。新しい歌を主に向かって歌え!
 私たちの心にはいろんな呼びかけがなされます。“おまえはこうでしかない”“こうあるべきだ”“これしかないだろう”・・・。こういう呼びかけを突き抜けて「新しい歌を歌え」と呼びかけられます。私たちは自分になじんだ歌いやすい歌を、軽やかに歌い続けているのかもしれません。
 

 私たちの教会は新たな出発点に立ちました。新しく牧師を迎えます。会堂建設も計画され始めました。新しい歌、難しい歌を歌わなければならないかもしれません。「新しい歌を主に向かって歌え」。救いの御業を果たされた主が導かれるのだから、この命令を受けとめられる。この信仰に基づいた勇気を大切にしたいものです。

                                       (前島宗甫記)

 

主日礼拝説教要旨
「褒められたり叱られたり」(3/8)​

​マタイによる福音書8章27~33節

 今年になって、わずか四人で教会を支えている無牧教会の応援に行くことがありました。その日の週報に目を落としますと、礼拝後、お茶会を予定しているとありました。蝋燭の立った手作りのケーキが出てきました。誰かの誕生日かと思いましたところ、私たちの結婚記念日を祝うとのこと。サプライズ! 1976年2月29日に結婚し、京都府北部の教会に赴任しました。それから、半世紀も、同じ教区内ですが、いくつかの教会に仕えてきました。

 

 少々長く牧師を務めていると、私よりも年配の信徒や牧師と挨拶を交わす機会があります。その人の貫禄に圧倒されることがあります。お近づきを深めたいと思い、手紙やメールを差し上げることがあります。その方の名前の前に、『敬愛する』、後に、『先生』あるいは『大兄』と書きました。後日、その方たちに会う機会がありました。「先生呼ばわりは、勘弁してくださいよ。わたしは、あなたより五つほど年上ですが、牧師になったばかりの者で、、、」。あるいは、「大兄は困ります。わたしは、妻に勧められ、70歳でぼんやりと受洗した未熟者でございます」。などと、年齢の見かけで、相当な経験を積んだ大牧師や大長老に見られてしまうことの不明を詫びたりお道化たりされます。

 

 ・・・『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』(8:29)・・・メシアは、平易な表現で救世主としておきますが、人が作り上げてきたこの世の歴史(物語)を覆す者を意味しています。他の弟子たちは、銘々にイエスに不正確なイメージを重ねます。ペトロは、弟子たちの中の最年長です。イエスよりも若干年上でもありました。様子見をしているペトロにイエスは、「あなたは、どう思うか?」と尋ねました。

 

 『あなたは、メシアです』。 ペトロの回答は、一応『〇』でしたが、イエスが答え合わせを始めると、・・・『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている』(8:31)・・・イエスに年長者としての親切心で、「あんたな、そんな大それたこと言うたらあかんわ。ここんとこは、ワシの年長者としての考えを言わせてもらうで」と兄貴面をしてしまいました。イエスから天国の鍵まで授けられたにもかかかわらず、・・・『わたしはあなたに天の国の鍵を授ける』(マタイ6:19)

・・・その兄貴面に、キツイお灸が据えられました。サタンよ、引き下がれ!                              

     (岸本兵一記)

 

主日礼拝説教要旨
「安心して行きなさい」(3/15)​

​マルコによる福音書5章21~34節

 

 イエスはヤイロの家に急いでいました。ヤイロの娘が瀕死の状態でした。そこに一人の女が登場します。彼女は12年間出血が止まらない病を患っていました。当時の掟によれば家族、社会から隔離されて生きることを強いられます。

 人の前に出られない彼女は、群衆の中に紛れ込んでイエスに近づきます。掟を破ってでもイエスに会いたいと願ったからです。しかし正面からではありません。後ろから服に触るという卑屈な近づき方でした。彼女をイエスは受け入れます。日陰者としておずおずと近づいた彼女を受け止めます。そして正面に来させ、面と向き合います。「振り返り、私の服に触れたのはだれか」(30)。イエスは自分を必要としている人がいることに気づいて、彼女のほうに振り返りました。彼女は震えながらイエスの前に進み出ます。命がけの行動でした。そして全てありのままを話します。

 イエスに出会うことは、私たちからありのままの姿を引き出されることになります。言い換えれば、イエスの前にはありのままの姿で出るほかはないのです。取り繕う必要はないのです。彼女はイエスと向き合うことで、ただ病が治ることが目的の人生ではなく、ありのままの姿で生きることの大切さを知らされることになりました。救いとは、イエスにありのままの自分が受け入れられていることを知ることです。だから「安心して行きなさい」(34)。

 癒された彼女が帰るところは、12年間家族や社会から切り離されていた現実の社会です。この社会との関わりの中で新たに生きることが求められます。イエスが受け入れ、癒し、共にいてくださるのだから、ありのままに自分らしく生きていく。安心して、心を病まず、元気に暮らしなさい。この彼女への福音は私たちへの福音でもあります。

(前島宗甫記)

 

主日礼拝説教要旨
「十字架の勝利」(3/22)​

​マルコによる福音書10章32~45節

 

 イエスは、ガリラヤのカファルナウムを立ち去り、先頭に立って進んで行かれました。旅の目的地はエルサレムです。イエス、三度目の自分の死と復活を予告されます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」弟子たちはイエスから3度も説明されたのにイエスの十字架の死と復活の予告を十分理解していなかったのです。

 そこにゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出てイエスに言います「先生、お願いがあります。栄光を受けられるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」、ヤコブとヨハネが、「できます」と答えると、イエスは続けられます。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」この38~39節はゼベダイの息子たちの殉教を予示するものです。イエスは続けられます。「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」。ほかの十人の弟子たちはヤコブとヨハネの話を聞き腹を立てます。彼らも神の国において重要人物でありたいと願っていたからです。

 イエスは一同を呼び寄せて言われます。「異邦人の間では、支配者が民を支配し、権力を振るっている。あなたがたの間では、そうあってはならない」イエスは続けられます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」、イエスは自分自身の使命のことについて語られたのです。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである。多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」この言葉にはイエスが持つメシアとしての使命の目的が要約されています。

 イエスは今からはじまる受難の道、十字架のへの道を前に、弟子たちに十字架の苦しい道、そのあとに来る復活の勝利を語られました。十字架の勝利です。そしてイエスはエルサレムへ向かって進んで行かれます。私たちも受難週を自分のこととして歩んで行きましょう。

                                              (確井英俊記)

 

主日礼拝説教要旨
「受難週のペトロ」(3/29)​

​聖書:マルコによる福音書14章27~31

 

 「あなた方は皆わたしにつまずく」(27)。弟子たち全員の裏切りが預言されました。事実弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいます。そしてその裏切りは、神がイエスを見捨てられた結果だと聖書は記します。イエスが十字架につけられたことは、神に捨てられ、呪われたことを意味します。「この杯をわたしから取りのけてください」(36)というイエスの祈りに対しても、神は沈黙しています。

 「皆がつまずいても、わたしはつまずきません」(29)。ペトロは弟子たちの代表として自負をもって答えました。さらにイエスが「今夜、わたしを知らないというだろう」(30)と言われたことに対し、いのちをかけてでも従っていくと明言します。実際、追手が迫った時、ペトロは剣を抜いて闘ったと伝えられています。また裁判を受けるイエスを見届けようとして、大祭司の屋敷の中に危険を冒して入っていました。「遠く離れて」ではありましたが(54)。そのペトロがイエスを否定したのです。

 「つまずく」という言葉ですが、「罠にはまる」という意味です。ペトロは”絶対裏切らない”と確信していましたが、そこに罠がありました。確信の中に罠にはまる餌があるのです。ペトロは、ここで強がる必要はなかったのではないでしょうか。弱い自分を素直に認めればよかったと思うのです。

 マルコによる福音書は、ペトロの証言資料に基づいて記されたと考えられています。とすればペトロ自らが、自分のイエスに対する否認、罠の問題を告白していることになります。福音書の最終章ヨハネによる福音書12章で、イエスはペトロに対し「自分を愛するか」と問いかけます。失敗したペトロの愛が復活する瞬間です。まさに裏切ったペトロの中にイエスへの愛が甦ります。言い換えれば、イエスの愛がペトロの中で生きていたのです。そしてこのイエスの愛が、私たちのなかにも生きています。

                                                                           (前島宗甫記)

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