主日礼拝説教要旨
『振り出しに戻る』(4/5)
聖書:マタイによる福音書 28章1~10節
十字架という出来事によって、絶望の中にあった弟子たちに、それだけで終わらないこと、その中から立ち上がっていく力を与えられる出来事として主の復活を神様は備えて下さったのです。
私たちの日常の中では、終わり(ピリオド)だと思うことが、神さまの働きにおいて、続いていく(コンマ)に変えられていくことが、復活の希望です。
空虚な墓に現れた天使は、弟子たちに「ガリラヤに帰れ」と促します。ガリラヤとは主イエスが神の国の宣教を始められた場所です。マタイによる福音書では、弟子たちは天使の言葉通りにガリラヤに赴き、復活の主イエスと出会います。すごろくに譬えれば、本来なら「あがり」と書いてあるはずの最後の升目に「振り出しに戻る」と書いてあるような福音書です。
誰の作か分かりませんが、次のような詩があります。
キリストはどうしてこれほどまでに人々から慕われ、
人の心をとらえて離さないのか。
十字架につけられて復活したからか。
それもあるだろう。
しかし根本は、人の痛みを知る優しい人だったからだ。
キリスト教にとっての教義の中心は何といっても十字架と復活です。けれどもこの詩人は、その十字架と復活を「それもあるだろう」と軽く言い、「根本は、人の痛みを知る優しい人だったからである」と。つまり主イエスがたくさんの人々から信仰される理由は、十字架と復活という大きな出来事もあるけれども、根本は、主イエスが人の痛みを知る優しい人だったからだというのです。
復活の主イエスは、本当に普通の姿で、生きてきた時のままの姿で、昔のままののんびり明るい声で何気ない挨拶の言葉を口にしながら、マリアたちの前に現れたのです。神々しい姿を予想していた弟子たちは最初それが復活の主イエスだと気づきませんでした。
ガリラヤに行きなさい。そこで復活の主と出会いなさい。あの天使の促しは、つまりこういうことになります。主イエスを神々しく祭り上げるのではなく、ガリラヤに戻り、あの日のままの生前の主イエスを追体験しなさい。振り出しに戻って、あの日のままに主イエスと出会い直しなさい。ということです。そこに復活の命が輝くのだということを福音書記者は伝えようとしているのです。
(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『モーセからヨシュアへ』(4/12)
聖書:ヨシュア記 1章1~6節
「豆」という字から教会のつながりについて考えたいと思います。豆というを使う熟語に「大豆」「豆腐」「納豆」があります。「大豆」は、一つひとつの豆がしっかりと存在しているが他の豆とは離れています。「豆腐」は、豆の形が潰されて一つの四角い形に入っています。「納豆」は、一つひとつの形はしっかり
と残しながら、他の豆と繋がりをもっています。教会はこの「納豆」のようなつながりを大切にして歩んでいきたいと思います。
高石教会の主にある群れから高塚牧師を取り去られ、神様は、新しい牧師をこの群れに導いてくださいました。教会員も、牧師も不安と喜びなどいろいろな思いの中にあります。その中で、本日示された聖書箇所は、ヨシュア記 1章 1-6節です。偉大な指導者モーセの後を継いで、約束の地へとイスラエルの民を導いていくという使命を与えられたヨシュアに神様が与えられた御言葉を受けましょう。申命記の 34章によると、「モーセは死んだとき120歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。(7節)」のです。しかし、「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ(5節)」のです。主なる神様は、新しい指導者を誕生させるために、このように前任の者をきっぱりと取り去られる方であることが分かります。
モーセの後継者として選ばれたヨシュアは、不安だったと思います。自分は何をしたらいいのか、自分は一体何を語ればよいのか。モーセの偉大さを考えれば、彼の苦悩がよく分かります。判断に困ったらどうしょうかと、さまざまな不安があったでしょう。神様は、そのような時に、頼ろうとする人を取り去られました。そして、ヨシュアに対して、「あなたと共にいる」との約束のあと、「強く雄々しくあれ!」そして、「御言葉に聞きなさい!」と命じられたのです。
私たちが、神様と共にいます。という以前に、神様は、私たちとどんな時も、共にいて下さることを約束して下さり力強く導いて下さる方であるのです。
私たち一人一人が神様のご用のために用いられるその場に、キリストの香りを放っていこうではありませんか。
(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『福音のはじめ』(4/19)
聖書:マルコによる福音書 1章1~13節
最初に注目したい御言葉は、「バプテスマ」です。バプテスマという言葉は、バプティゾー(水に沈める)から派生しています。ギリシャ語では「体を洗い清める、沐浴する」はルーオー、「手足や顔を洗う」はニプトー、「お祓いする」のような宗教儀式によって「汚れを清める」という場合はハグニゾーという言葉が用いられています。ところがヨハネのバプテスマにはこれらのどの言葉も用いられていません。バプティゾーは、「水に沈める」という意味であって、そこには洗うという意味は含まれていません。カトリックの本田哲朗神父は、バプテスマとは洗い清めるといったこととは関係のないところで、低みからさらなる低みへと流れる水の底に全身を沈めて、低みから見直させる「沈みの儀式」なのだと解釈します。イエスは、こうして、最も低いところに身を沈めて、最も低いところからこの世の荒野を見直すことをもって、その宣教の業へと出発されます。ですからイエスの宣教は、この世の低みにおとしいれられた者たちとの連帯を通して進められたのです。私たちにとってバプテスマは、このイエスに従う信仰の出発点であったのです。
もう一つ注目したい御言葉は、「天が裂けて」です。この「裂ける」は、スキゾー。新約聖書に11回、マルコは2回しか使っていません。用例を見ると「分裂する」「引き裂く」「不和になる」「喧嘩する」など荒々しく、乱暴なイメージがあります。マルコは、このスキゾーをもう一回だけ使っています。イエスが十字架上で息を引き取った時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた(15:38)」です。マルコは、イエスの宣教を締めくくるこの言葉を、おそらく意図的にイエスの活動の出発点にも記しています。イエスの宣教は、まさに天を裂き、天においては現されるものの地上には遮られている神の御心を、地上に降りそそいでいく働きでした。低みにおとしめられ、神の愛と恵みから締め出されていた人々と共に神の御心を分かち合うことがイエスの御業の本質でした。私たちもまた、祈りと行いにおいて、イエスと連なりたいと願います。
(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『神のために共に働く者』(4/26)
聖書:コリントの信徒への手紙1 3章6~9節
本日は、礼拝後に2026年度の高石教会定期総会を行います。共に神様の御心を聞き、知恵を出し合って教会の歩みの方向が示されたいと願います。
コリントの教会の中での分派騒ぎの記事があります。アポロもパウロも一生懸命伝道したのです。しかし、彼らが自分たちの力で伝道したのではなく、ただ神の恵みによるものなのだということが言われています。しかも、主が与えられた分に応じて働かせていただいたに過ぎないのだというのです。
「成長させて下さる神」という御言葉があります。成長させてくださる神とは、ずっと継続していくということを意味する語です。私たちに、福音の種が蒔かれたら、神様はずっと私たちの霊の手入れをしてくださるということです。私たち一人一人の、そしてこの教会という信仰共同体の、です。世の心づかい、罪の誘惑といういばらが生えてくる。それは引いても絶えることはありません。しかし、そのような中で、それらを取り除き、私たちを成長させて下さる神様なのです。
そして、それに続いてパウロは、9節「私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の神殿なのです。」というのです。
教会の中には、この世の中にあるものと同じ分派、裁き、愚かさ、思い煩いがあるのです。しかし、パウロは、すべては神様のものだから、祝福へとつながるということを言うのです。私たちは神様の栄光が示されるために、弱さや欠けががあるにも関わらず豊かに用いられていくのです。
主の体としての教会は、主イエスの宣教の委託に応えて歩んでいく群れです。その歩みの中で、違いがあっても共に高石教会のメンバーとして神様に招かれた者として、どのように主にある喜びの中で歩んでいくのかを考えたいと思います。あたりまえの価値観を疑い、問題意識の中から本当の“答え”をつかみとろうとする強さを神様に育てていっていただける群れとして成長していきたいと願います。
(田中馨子記)