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主日礼拝説教要旨
『ガリラヤの視点から』(5/3)​

​聖書:マルコによる福音書 1章14~20節

 本日、注目したい言葉は「ガリラヤ」「ほとり」「人間をとる漁師」です。
1章14節「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国を宣べ伝え」とあります。マルコによればイエスはガリラヤの出身であり、ガリラヤを主要舞台として活動し、最後一週間足らずエルサレムで教え、処刑されますが、復活して再びガリラヤに行きます。マルコにとってガリラヤは、正統的ユダヤ教の指導者たちによって代表されるエルサレムと対照的に、民衆によって代表されます。イエスは差別され、切り捨てられたガリラヤの民衆のただ中で神の国を宣言されたのです。
 マルコは、4人の漁師が弟子として召し出された物語をイエスの活動の冒頭に置いています。この物語を読みながら「ほとり」という言葉に惹きつけられました。「ほとり」とは「水際」、「境界」です。つまり海と陸地をわける場所です。聖書において「海」は悪の領域、神に敵対する竜の生息地として考えられていた場所です。これに対して「山」は神の領域として考えられていました。「ほとり」はその分岐点です。つまり、弟子たちは人生の分岐点となる「ほとり」でイエスと出会ったのです。ヤコブとヨハネ、シモンとアンデレは人生の決定的な「分岐点」に立たされていました。圧倒的な出会いが自分に迫ってきたのです。4人の弟子たちは、イエスに出会い、揺さぶられ、問われても逃げることをせず、イエスに向かっていったのです。答えなど簡単に出るわけはないのです。生涯イエスからの問いかけに答えようとしながら生きようとし
たのです。
 「人間をとる漁師にしよう」というイエスの言葉。この人間をとる漁師とは、人間を取り戻す漁師のことではないでしょうか。かつて豊で穏やかであった湖が、収奪の場となり、漁師たちが利用され、おとしめられる中で、イエスは、その屈辱をなめ尽くす漁師たちを誰よりも先に弟子とされたのです。人間を取り戻すため、彼らにこそ宣教の担い手としての使命を与えられたのです。(田中馨子記)                 

主日礼拝説教要旨
『いのちのおもさ』(5/10)​

​聖書:マルコによる福音書 1章21~34節

 本日は、母の日です。1907年、アメリカ・ウエストヴァージニアの教会で初めて守られました。母の愛の大きさに思いを合わせていく日となりますようにとお祈り致します。 マルコは21節の冒頭でイエスの具体的な宣教活動はカファルナウムから始まったと記します。カファルナウムは当時、決して寒村ではなかったようですが、ガリラヤ湖周辺の他の町と比較するならばその重要性は一段と低かったといわれています。ティベリアスやマグダラの方が、当時は遥かに重要に町であり、カファルナウムはそれほどではなかったのです。イエスはガリラヤの中でも都会や宗教的伝統のある町ではなく、カファルナウムを選び、最初の活動地としました。私たちが生きるこの時代、カファルナウムに位置する地域とはどこ
なのでしょうか?
 今日の聖書箇所では、イエスによる一人のお年寄りの癒しがあります。イエスの癒しは、基本的にいつも病気に苦しむ者あるいはその友人たちの熱心な願いによって引き起こされています。ところが今回は、少し違います。
 まずこのペトロのしゅうとめが置かれていた状況に思いを馳せたいと思います。ペトロの家に住み、ペトロのしゅうとめ。つまりペトロの妻の母。これは異常な事態です。父系社会にあって年老いた親の面倒を見るのは長男の仕事でした。彼女には男の子がいなかったのか、あるいは死んでしまったのか、一般的な慣例を越えて、いわば嫁にやった娘の家に引き取られていました。それがどんなに肩身の狭いものであったことか。しかも熱を出して寝ています。「寝ている」とは「死んだように横になっている」という意味の言葉であり、マタイはさらに「投げ捨てられている、放置されている」という意味の言葉を用いています。
イエスは放っておかれないのです。「頼まれもしないのに」ではなく「頼まれもしないからこそ」イエスは癒やされたのです。イエスの癒しとは病の癒しである以上に、人間同士の関係性の回復です。そしてこの関係性の癒しこそが私たちにとって本当に大切な事柄だと思います。(田中馨子記) 

主日礼拝説教要旨
『主イエスの祈り』(5/17)​

聖書:マルコによる福音書 1章35~45節

   使徒言行録 2章1~11節 

 

 本日は復活節第7主日
アジア・エキュメニカル週間  最初の主日はアジアサンデー  キリストの昇天
 大阪教区定期総会が15日、16日行われました。
☆聖書テキストについての説明と黙想のテーマ
 このテキストは2つの物語を含んでいます。1つは、35~39節で、祈られるイエスとカファルナウムを去られる(一時的に)イエスが描かれていて、2つめは、40~45節で重い皮膚病を患っている人を癒やされる物語です。主イエスが祈られる記事は、マルコにおいては、この箇所と6章46節と14章32節以下に2回出て来ます。主イエスの宣教活動が祈りと不可分であることが示されています。主イエスが祈られることと私たちが祈るということを黙想のテーマにしたいと思います。
 言葉の説明を以下に記します。
35節・・・「人里離れた」とは、寂しい所。直訳的には「荒れた所」。荒野は、イエスが試みにあわれた場で    あるだけでなく、旧約以来、神との交わりの場として重要な意味を持っています。(エレミヤ31:2参照)

40節・・・「重い皮膚病」と訳されているギリシャ語レプラは、70人訳ではヘブライ語ツァーラアトの訳語として用いられています。これは現代医学でいうハンセン病だけでなく、治療がきわめて困難な皮膚病も含んでいます。

41節・・・「深く憐れんで」ギリシャ語スプランクニステイスは、はらわたや内蔵のすべてを指す言葉です最も深い心の衝動に基づく憐れみを示します。

      「よろしい」 直訳すると「私は(それを)意志する」
            口語訳「そうしてあげよう」
            文語訳「わが意(こころ)にり、潔(きよ)くなれ」
45節・・・新共同訳で「出来事」、口語訳で「自分の身に起こったこと」は、ギリシャ語では「ことば(ロゴス)」。癒やされた人は、主イエスの力ある業の最初の宣教者となるのです。

      「告げ」(ギリシャ語 ケーリュッセイン)は福音宣教に用いられる言葉です。(マルコ1:14,1  38,39,3:14,6:12,13:10,14:9)
 さて、与えられた聖書テキストに導かれていきたいと思います。
福音書には、人を避けて涼しい場所で祈られるイエスの姿がたびたび記されています。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちもついてきた。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。そして自分は石を投げてようやく届くほどの所に離れ、ひざまずいて祈られた」。イエスはいつものように、いつもの場所で、すなわち人気のない寂しい場所で祈られたのです。そしてその時のイエスの祈りは、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」「わたしの願いを叶えるのではなく、あなたの願い、あなたのみ旨が示されますように。わたしではなく、あなたに栄光が帰せられますように」という祈りでした。
 ガリラヤの宣教を開始したイエスは、多くの病人を癒やされたことで、一躍評判の人となり、多くの人が押し寄せてきて、ひざまずくようになりました。イエスの癒しの行為は、傷つき病む者の痛みに共感し、悲しみに寄り添おうとするやむにやまれない思いからなされたのですが、この行為のためにイエスは崇拝の
対象にされていきます。そこで、イエスは、人気のない寂しいところに行って「誘惑に陥らないように」と祈るのでした。自分が評価され、賞賛され、崇拝さ
れる誘惑を退こうとする祈りだったのです。
 私たちは、礼拝で神に心を向けて、神の声に耳を傾け、祈り、讃美歌を歌ったりする時に、確かに希望や勇気が与えられます。元気に幸せに生きていくために、助け合い、励まし合い、分かち合っていきていくために、なくてはならない力や知恵が与えられます。それだからこそ、礼拝から遣わされていくのです。

 「書いたら部分点、書かなければ0点」
 最後まで正解にたどりつけなくて〝出来たところまで書きなさい!部分点あげるから!〟とテストの度に大きな声で言っていました。「書いたら部分点あげるから、あきらめないで!!」
 調べてものにAIを使うことが増えてきました。情報だけではなく考え方にも付き合ってくれて、こちらの質問や考え方を否定(ひてい)しないで質問を生かすような即答が出てくるので驚きます。一気にゴールです。すごい相手です。

 一方で、止まらない戦争、広がる戦禍。かけがえのない自然も命も人権も法も、これまでの知恵や何千年の歴史も、次の世代に渡すはずの未来への希望も壊されています。当然ながら世界は繋がって関係しあっています。絶望的な気持ちになりますし、無力だなあと思えます。なんとかしたくても、むどかしく、焦り

が空回りします。
 その中であきらめず部分点のように行動し、発信し行動し続けている人たちがいます。励まされます。若い世代からも「戦争反対」「憲法9条世界の宝」を訴えるデモの声が全国で起きていて今200箇所以上の会場で行なわれていたと「デモカレンダー」で紹介されていました。「戦争はイヤだ」「核や戦争もない未来を」「わたしはここに生きています」と訴えています。存在を無意味な暴力で消すのが戦争です。これらの声は、AIのように一気にゴールはしないでしょう。そもそも、生きることの正解なんて後にならないと分かりません。でも命を生かそうとする声は時間がかかっても、すぐに正解にたどり着かなくても、途中の

部分点、部分点が積み重ねていくことに意味があると信じています。
 失敗したり、迷路に入ったり、沈みこんだりします。イエスも、小さくされている人たちの命に寄り添い、生かすために生き抜かれました。イエスはただただあきらめなかったのだと思います。
 私も自分を絶対視しないで、いつも相対化してくれる相手、イエスならどうしただろう、イエスならどう行動しただろう、と問いかけたいと思います。わたしの部分点を見つけてくださる方に向き合っていきたいと思います。

 与えられた次の聖書箇所です。当時は、ハンセン病を含むあらゆる皮膚疾患が、神の罰として恐れられ、皮膚病を患う者は汚れた人間として排除していた社会にあって、イエスは重い皮膚病を患う者を抱きしめられました。明らかに律法を破り、社会の習慣や伝統を踏み越える行為でした。
 「手を差し伸べその人に触れ」と訳されていますが、「触れる」と訳されている言葉は、「すがりつく、捕まえる、抱きしめる」という意味のギリシャ語です。「腕をまわして抱きしめた」といったほうが適切です。こうして見ると、このイエスの行為は、律法を破り、触れてはならないものを触れたということにとど
まらない、もっと濃厚で温かい行為として映ります。また古い写本の中には「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」の「深く憐れんで」という言葉にかえて「怒って」と記すものもあります。「怒って抱きしめた」が元来のテキストであったかも知れません。
 イエスは誰に怒られたのでしょうか。イエスの怒りは重い皮膚病を患う人に対する怒りではなく、その人の背後にあって、その人を苦しめ、切り捨て続けてきた社会に対する怒りではなかったでしょうか。
 重い皮膚病を患う人が「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのに対してイエスは、「よろしい、清くなれ」と言われたとあります。私が訳してみると次のようになります。「あなたが望ならわたしは清くなります」それに対してイエスの言葉は「わたしは心からそれを望んでいる。清くなれ」です。イエスはこの人の信仰的な態度を認め、評価されたのではありません。「あなたが望ならわたしは清くなります」という言葉に「わたしは心からそれを望む」と言われたのです。ここで「あなたが望なら」という言葉が重要になります。この人が病気の苦しみから解放されるのは、本人の信仰にかかっているのではありません。「あなたが望なら」。あなたがどう受け止め、あなたが何を望むのか、そのことにかかっているということです。「あなたが望なら」この言葉はこの時のイエスだけでなく、私たちにも語りかけられています。
 私たちは、今この時代の中で、本当に助けを求めている人の声が聞こえているのでしょうか。そして、つらさからの解放、癒しを心から望んでいるのでしょうか。もし、諦めてしまったり、主にある希望を持ち続けないで、神さまの御旨を問うことを忘れてしまっていたら・・・。そのような私たちにイエスの怒りが向けられることを真摯に受け止めなければならないと思うのです。私たちは、心から「神の御心がなるように」祈っていく者でありたいと思います。そのために、つながりを大切にしながら、神さまが何を求めておられるのかを考え続けていく者でありたいと思います。正解が何か分かりません。しかし、つながり祈る中で、私たちに神さまは恵みの道、祝福の道を用意して下さることを信じて歩みを続けていきたいと願います。                 (田中馨子記)

主日礼拝説教要旨
『神のために共に働く者』(5/24)​

聖書:エゼキエル書 37章1~11節

   使徒言行録 2章1~11節 

 

 本日は、ペンテコステ礼拝です。典礼色は「赤」です。典礼色の赤は、火、血を表します。そして信徒の熱心さ、教会の奉仕と伝道を表します。こどもさんびか 改訂版 94番はとても素敵な曲です。1番の歌詞は、〝 ふしぎなかぜが ぴゅうとふけば なんだかゆうきがわいてくる   イェスさまのおまもりが きっとあるよ それがせいれいのはたらきです   しゅイェスのめぐみは あのかぜとともに〟です。

 今日、注目することは、この風、神の風、です。

 ペンテコステは「50日目」という意味で、イースターから数えて50日目ということです。イースターから50日の間、弟子たちはずっと家の中に隠れていました。でも50日目のその日、弟子たちが隠れていた家の中に不思議な風が吹いてきました。窓もドアも閉めきっているのにどこからこんな風が吹いてきた

んだろう、そう思っていると、なんだか自然に力が湧いてきて、気がつくと弟子たちは外に出て、大声でイエスのことを話し始めていました。

 ペンテコステの日、使徒たちはいろいろな言葉で話し出しました。この時、互いに何を話しているのか分からなかったかも知れません。それでもこの状況は誰も不快ではなかったと思います。彼らがそれぞれに語ったのは「神の偉大な業」だからです。それは語ることにおいて、喜びが与えられたはずです。

 私たちが神の教会として歩む時、神さまが求めておられることは、何でしょうか。違いのある一人一人が、自らが神さまの器として用いられていくことではないでしょうか。それぞれを最も良い時、良い場所で用いて下さるのは、神だからです。それを共に喜ぶ共同体として歩んでいくことが、神の御心に適うことだと思います。どのような状況の中で、私たちには、確かなものは、どんな時にもあなたは大切なものとして愛されているのだという福音を思い切り語っていくことが出来るのです。世界の状況は厳しいです。・・・

 まだ厳しい風は吹き荒れます。「にもかかわらず」この風は、閉じこもっていた弟子たちが、再び立ち上

がっていく力となった風です。教会の出発となった風です。そして、この時、私たち一人一人を、高石教会の歩みを生かす神の息です。(田中馨子記)

主日礼拝説教要旨
『ひたむきな姿』(5/31)​

聖書:マルコによる福音書 2章1~12節

 本日は、三位一体主日です。主なる神が父・子・聖霊なる三位一体の神であるということ明確厳密に表明したのがニケア信条であったとしても、すでに新約聖書そのものの中に三・一論的な構造の表現があります。最も鮮明なのは、コリントの信徒への手紙2 13章13節、マタイによる福音書28章19節です。

その他有名な「信仰・希望・愛」(1コリント13:13)、「信仰の働き・愛の労苦・希望の忍耐」(1テサロニケ1:3)、「証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています」(1ヨハネ 5:7)、「かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4:8)などがあります。三位一体論の教えを最も身近に経験するのは「祈り」においてです。聖霊のとりなしに支えられながら、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神に祈るのです。まさに私たちは毎日の祈りの生活の中で、三位一体の神と深い交わりの中に生かされているのです。

 本日は、マルコによる福音書から神様の御旨を受けたいと願います。イエスは、「罪の赦し」の宣言と共に寝たきりの人を癒やされました。

 イエスにとって罪の赦しとは何を意味したのでしょうか。律法学者たちは、罪とは神の掟に逆らうことであり、それゆえに「神のほかには罪を許せるお方はいない」と考えました。しかしイエスは基本的に、罪とは人間同士に発生する差別やむさぼり、殺し合い、尊厳の蹂躙であると考えました。神への反逆と考える人

にとっては、罪を赦すことが出来るのは神しかないということになりますが、罪が人間同士の間で発生するものなら、罪の赦しは人間に帰せられます。イエスはお互いに赦しなさいと教えられました。主の祈りの中でも人間同士の罪の赦しが言及されています。罪の赦しとはイエスにとって「人間同士の関係性の癒し」なのです。イエスは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に「あなたの罪は赦されている」と宣言されました。「信仰」と訳されているギリシャ語の「ピステス」は、「誠実さ」「ひたむきさ」と訳すほうが分かりやすいです。イエスの言葉は、打ちのめされている人にもう一度希望と勇気を持って踏み出していくに足りる大きな力を与えるものでした。(田中馨子記)

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