主日礼拝説教要旨
『罪と向き合うことは』(6/7)
聖書:マルコによる福音書 2章13~17節
今日与えられた聖書箇所は、たった5節です。しかし、そこにはとても深い神様の聖旨が示されています
(1) 一緒に食べること・・・以前、教会での奉仕作業のあと、みんなで食べた大
きな(たぶん300グラムを超える大きさ)〝おにぎり〟の美味しかったこと!!私たち日本人の身体にとってエネルギーの元となる炭水化物は「お米」で摂るのが一番合っているのだそうです。悩み苦しんでいる人を受け入れる「森のイスキア」を主宰されていた故佐藤初女(はつめ)さんによると、ご飯が持っている力を『穀力(こくちから)』と言い、この穀力は心と体をしっかりとさせるのだそうです。教会の食事のことを「愛餐」と言います。この「愛餐」という言葉「アガパイ」は、神様の愛を表す「アガペー」の複数形です。教会で、みんなで食べる交わりには、神の大きな、深い、広い愛がいっぱい込められているのです。
(2)逆転の発想・・・「TROPS(トロプス)」というゲームがあります。椅子取りゲームの逆バージョンです。つまり、誰が最後の椅子を奪うのか、というような生き残りゲームではなく、どうしたら誰もはじき飛ばされないで共にいることができるのか、を考えるゲームなのです。
イエスさまが招かれた罪人とは、いったいどういう人であったのでしょうか。また、何のために招かれたのでしょうか。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とは、そもそもイエスさま以前のギリシャ哲学において語られていた言葉でした。後の人が、イエスさまが世に来られた意味を分かりやすく言い表そうとして、ギリシャ哲学の言葉から引用したのだろうと思います。むしろイエスさまなら「本当に医者を必要とするのは、重い病気を持っているくせに自分は大丈夫だと思い込んでいる病識のない人だ。わたしが来たのは、罪人呼ばわりされている人を悔い改めさせるためではなく、自分は正しい、自分は義人だと思い込んでいる人を深く自分の罪と向き合わせるためである。」と言われたのではないでしょうか。自分の罪の深さ、罪に誠実に向き合っていく者として一歩ずつ歩んでいきたいと願います。(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『神さまの特別なはからい』(6/14)
聖書:創世記 7章1~17節
本日は、子どもの日・花の日礼拝です。神様が、一つ一つのお花を、心を込め て育てて下さることを思います。私たちも一人ひとり違っています。一人ひとり を大切に、その人の時間に合わせて導いて下さることを信じます。そして、高石 教会という一つの素敵な群れを導き、神様の業を進められます。そのことを信じ て、美しいかけがえのないものとして創造された友のために祈り合いながら歩 みを続けていきたいと願います。 スペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリア贖罪教会で10日夜、建築家ア ントニ・ガウディの没後100年にあたるこの日、メインタワー「イエスの塔」 の完成を記念する式典が行われました。78年にスペインに渡り、サグラダ・フ ァミリアで主任彫刻家としてガウディの構想を受け継いできた外尾悦郎さん(7 2)は、朝日新聞の取材に対して、ガウディの追い求めてきた核心は「人を幸せ にすること」だったと語られ、サグラダ・ファミリアは「人類が幸せになったと きこそが、完成のときだ」と話されました。 与えられました御言葉の中で、16節の「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」 に注目したいと思います。 ノアが箱船に入ると、神さまは後ろの戸を閉めて、外に出られないようにされ ました。そうしないと、先行きの不安から、外に出て命を失い、備えられている 喜びの未来の世界に入れなかったからではないかと思います。アイルランドの 古いことわざに、「神は一つの扉をお閉めになったら、もう一つの扉をお開きに なる」というのがあるそうです。私たちは、一つの可能性が閉じられると、その 閉じられた可能性のことばかり残念がって立ち止まってしまいがちです。しか し、神様は私たちに別の祝福を示めそうとして、あえて一つの扉を閉じられるこ とがあるのではないでしょうか。高石教会にとって終わりを迎えるもの、新しく 生み出していくもの、変わらずに続いていくものを、神様に問いながら歩みをな していきたいと願います。
(田中馨子記)
主日礼拝説教要旨
『イエスの新しさ』(6/21)
聖書:マルコによる福音書 2章18~22節
神様のみ心にかなった夢は、他の人にもその夢を抱かせ、その夢を共有する輪を広げていきます。新島襄は、学びを終えて牧師となり、日本に帰る直前、バーモンド州のラットランドにあるグレース教会で開かれたアメリカンボードの大会で、別れの挨拶をしました。その時に、日本にキリスト教主義の大学を創るという大きな夢を語り、そのために基金が集まるまでは、ここを動きませんと訴えたのです。その訴えに感動した人々は、わたしは100ドル、わたしも100ドルと次々に献金することを申し出て、その場で5000ドルも集まったのです。そこにいた一人の農夫は帰りの汽車賃の2ドルを献金として差し出し、歩いて帰ったということも伝えられています。この貧しい農夫は、新島襄の夢を2ドルで共有し、夢の実現のために参加することができたのではないでしょうか。新島襄がこの夢を見続けたことにより、同志社大学、同志社女子大学が創られたのです。同志社で新島襄の夢によって揺り動かされた人々が全国各地に散っていき、教会を牧会したりしたのです。この高石教会もまたそのような先輩あるいはアメリカンボードによって支えられたのです。私たちも、次の時代に向けて神様からの宣教の委託を受けた者として、共に神様のみ心にかなった夢をみたいと思います。
与えられた聖書箇所では、断食についての問答が記されています。イエスにとって断食は、自らの弱さに寄り添い、痛ましさや貧しさに連帯することでした。そんなイエスの姿を私は真の救い主としてはっきりと思い描きます。
「古いもの」と「新しいもの」のたとえが最後にあります。今の私たちにとって、新しくされるとは何なのでしょうか。自分の生活の中で、イエスという新しいぶどう酒を、どのような皮袋に入れようとしているのでしょうか。
閉塞した時代の中にあって、新しい希望への歩みを促す、そんな力をもたらすイエスの新しさを常に見つめ続け、新しい真の希望を語り出していく者でありたいと願います。 (田中記)
主日礼拝説教要旨
『一番大切なこと』(6/28)
聖書:マルコによる福音書 2章23~28節
今日は、午後から牧師就任式を多くの方々のお祈りとお支えの中で守れます ことに心から感謝申し上げます。 与えられました聖書箇所では、イエスと弟子たちが麦畑の中を歩きながら麦 の穂を摘んで食べていたのをきっかけに安息日論争が起こります。 イエスは安息日違反の指摘に対してどう答えられたのでしょうか。イエスは 2つの点で反論しています。1つめは、ダビデの事例を持ち出して、腹が減って しかたがない時は律法で禁じられていることも許されるはずだという反論。こ れはマタイもルカもほぼ同じように記しています。ところがマルコは、非常に根 源的なもう1つの反論を記しています。「安息日は人のために定められた。人が 安息日のためにあるのではない。」(27節)この御言葉に注目します。「人」≪ギ リシャ語: アンスローポス≫は非常に重要な意味を持っています。この語は旧 約聖書において神に創造された「人」≪ヘブライ語: アダム≫に当たると考えら れています。このアンスローポスは2つのギリシャ語から出来ていると言われ ています。その1つは、「アナ」(日本語では、上に、上へ、という意味)ともう1 つは、「プロスオーポン」(日本語で、顔、という意味)です。ギリシャ語で、「人 間」とは、「顔を上に向けたもの」ということになります。「人の子」という言葉は、 イエスの言語アラム語においては「人間一般」を指す言葉でした。「人間が安息日 の主である」(キュリオス/主)は、「所有者、主権者」を意味しますから、「人間が安 息日の主権者、所有者である」ということになります。 安息日は人間のために定められたのです。安息日は人間を取り戻す日。すべて の人が人としての尊厳を確認し、人間としての生き方を取り戻す日であるので す。 “わたしたちが人間を取り戻すためには、本当に人間らしく生き、かけがえの ない命を生きるために、この世の倣いから一時離れ、一緒に神の言葉に耳を傾け、 イエスに聴き、静かに祈る時を持ちませんか”そのように安息日、主の日の礼拝 に神様が招きの呼びかけをしておられるのです。(田中馨子記)