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主日礼拝説教要旨
「良心に生きる自由」(9/)​

ヨハネによる福音書8章31~36

 私たちを救うのは知識か、力か、はたまた富なのか。それらはもちろん生きる上で活用されるものではあります。しかし大きな存在を前にしたときそれらがどれほど役に立つでしょうか。個人のできること、人の限界などどんなに小さいものなのかと思わされる出来事がこの世界にはあふれています。しかしその中で私たちは生きていきます。その中で神の平和を願い、そのための働きをなそうとします。到底人の力では到達できないような、実現できないような願いを抱えて、この歩みを進めていきます。そのような時に、「到底かなえることはできない」と膝をついてしまうのか。現実を見てあきらめてしまうのか。決してそうではありません。聖書は言います。「真理はあなたがたを自由にする」と。聖書が語る「正しさ」に従いゆくことはこの地上において様々な困難があります。多くの誘惑があって、楽な道へと流れたくなってしまいます。私たちにはそうした道に進むという選択の自由もまたこの地上において与えられています。しかしその「選択の自由がある」という中であえて「良心に従う」という選択をする。

 イエスに従うこと、イエスの教えにとどまること。その弟子となることの始まりはまず、このイエスの生涯が自らのためのものであったことを知ることです。イエスの死が自らのためのものであったことを知ることです。私のためにイエスはこの地上にお生まれになり、苦しみ、悩み、その命をささげられたんだということを知ることです。そのうえで私たちは告白するんです。「わたしの救いはイエスをおいてほかにない」と。イエスに従う道。「良心に従う」その道を選択する決断を私たちはあえてしていくのです。他にも道はある。しかし私たちを本当の意味で解放してくれる、利己主義やこの世的価値観から自由にしてくれる存在はイエスだけであると信じる選択をしていく。この選択は私たちに与えられた豊かな恵みに対する応答であり、「信仰の告白」ともなるのです。神の業の実現にあっては私たちの力は本当に小さくて、できることも少ないかもしれない。でもその働きもまた従いゆく道においてイエスを通して神の御業の実現に用いられていくのです。小さく少ないと思われたその働きが、力が、その果てしない先にある「真理」につながっていくのです。そのことが聖書において示されています。人にはできないことも神にはできると宣言されます。私たちはそれを信じたいと思うのです。「我ここに立つ」とルターが良心に従う道を決意をもって選択し宣言したように、無力にも思える自らの存在もまた神に用いられていくのであると信じて、イエスを通してそれが価値あるものとされていくのであると、勇気と励ましを受けて、災害・戦争・差別・貧困の拡がるこの世界の中で日々の自らの必要とされる働きをなしていきたいと思います。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「名を呼ばれる主」(9/)​

ヨハネによる福音書10章1~6

10章1節からで語られる「羊の囲い」のたとえで「羊飼い」はその囲いの中から自分の羊の名を呼んで連れ出していきます。これはイエスが、自らの元へと集まってきた、そのしるしを信じて、その言葉を信じて集まってきた人々を、その一人一人を、覚え、そのうちに抱き、導いていかれるということを表しているのです。

こども賛美歌に「ひとりひとりの名を呼んで」という賛美歌があります。その曲の一番ではこう歌われています。「ひとりひとりの名をよんで、愛してくださるイエス様。どんなに小さな私でも、覚えてくださるイエス様」。この賛美歌に歌われるように、無力で、導く存在がなければどこに進んでいいかもわからなくなってしまう羊のような私たちのことを、イエスはその一人一人を大切にして、愛してくださっているのです。イエスという開かれ、招く門を通り、さらに、そこから、イエスという「良い羊飼い」に名を呼ばれて、ともに歩むことが許されていく。その幸いがこのたとえによって語られているのです。

今回福音書とあわせて選ばれ、共に交読をした詩編の箇所。詩編23編は大変有名な箇所で、また、神への信頼をうたった素晴らしい詩であります。ここでは、どんな苦境に立たされようとも、それこそ「死の陰の谷をゆくときも」「敵を前にしても」神によって導かれ、守られるとの信頼が語られていきます。そしてこの絶対の信頼は人生という旅路を歩む旅人の神に守られた安心感をも表現しています。「良い羊飼い」「主」によって導かれ、守られていくこと、その行く道にすべてが備えられていること。その安心感の中で、全幅の信頼を持って、その歩みを進めていく姿が示されていくのです。この導く存在への信頼は、今回のヨハネ福音書によるたとえによって、イエスが私たちの良い羊飼いであられることを示され、今この物語を読む私たちにも与えられているものであります。イエスの導きに自らを委ねつつ信頼を持って歩むことの大切さが示されていくのです。

​(髙塚記)

南海地区交換講壇礼拝説教要旨
「人生に射す光」(9/15)​

ローマの信徒への手紙10章21

 人生には様々な壁がやってくるものです。私は、二つの戦争が起こる中で、自分の中で信仰と現実が乖離してゆくのを感じました。見渡せば、社会にも環境にも様々な行き詰まりがあり、人間本意の選択を行って来た結果だと思わざるを得ないのです。人間の素地に目をやるにつけ、これ程救いがたいのかと思わされました。その中で、今回の言葉に出合います。

 この言葉は、9章からパウロが「選び」について論じた最後の結論の部分です。「選び」というと、全体に対して一部が神から恵みを受け主の栄光を示すことです。ところが論が進むにつれ、恵みを受ける範囲は大きくなり、最後には「不従順で反抗する者」にさえ、一日中主は手を伸ばされるとあり、私たち人間には理解できない広さの神の救いが示されます。そしてこれはイエス様の姿そのものです。イエス様の傍には、人の分け隔てはありませんでした。また旧約聖書ではノアの箱舟の後、神はこう言われたのです。「人が心に思うことは幼い時から悪いのだ」けれども「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と。

 世界の始まりの時から主は人間の素地を知りながらも、その生を肯定してくださり、そして共に生きてゆくことを約束してくださっていたのです。この救いが私たち個々人に、そして人間の歴史に最後まで投げかけられているのです。

 人間の深い闇にあって、主の手は一日中伸ばされている。これこそ、人間を照らす光そのものです。

 この、私たちの人生に射す光、人間の歴史に伸ばされる主の救いのみ手を心に深く受け止めつつ、個々人のため、社会のため、世界のために祈り、働き、愛する者として歩むことができますようにと願い祈るのです。

​(重岡奈津子記)

主日礼拝説教要旨
「全ては神から」(9/22)​

ローマの信徒への手紙11章33~36

 「すべてのものは神から出る」。「神によって保たれる」。「神に向かっている」。全ての事柄、出来事の意味をわたしたち人間は理解することは出来ません。到底受け入れる事ができないようなことも多々あります。パウロも宣教活動をする中で、自らが困難に見舞われる時、失敗をした時には、悩み苦しんだことであると思います。手紙においては、特にこの晩年に記されたローマの信徒への手紙などにおいては、その苦難、悩み苦しみすらも神から与えられた必要な事と飲み下せていますが、その時その時はそうすることは出来なかったでしょう。困難のたびに、失敗の度に悩みもがいたのではないでしょうか。だからこそ、様々な問題や課題が浮かび上がっていく教会共同体に対して、的確で熟慮された答えを返していけるのだと思うのです。本気で困難に向き合い、本気で人と向き合い、正面から福音に臨んだからこそ、パウロはその言葉を自らの一部として語る事ができるのです。そして、今回の箇所で語り示す、「全ての事は備えられたものであり、それらは御業において必要なものである」という神への信頼を語る事ができるのです。パウロは晩年にあって、これまでの自らの歩み全てを振り返って、成功だけでなく多くの困難と失敗も含めて振り返ったときに、「全ては必要であった」と確信しているのです。

 わたしたちの人生の旅路もまた、その全ては思ったように進むようなものでありません。その時その時には理解できないような、受け入れられないような事が降りかかることがあります。しかしそうした人生の歩みの中でも、いつの日かその全てを「確かに意味があった」と語る事ができるときが来ればと願います。それは、この箇所でパウロが語った、「全ては神から出て、神が保ち、神に向かう」という言葉の通りに、わたしたちには全て理解することは出来ない、その計画の内、道の上にあって用いられているのであると、与えられているのであると信頼したいと思うのです。その信頼において、パウロが言ったように、いつもよろこび、感謝する歩みを進めていきたいと思います。

​(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「永遠の住み家」(9/29)​

コリントの信徒への手紙二4章18~5章1

 今回の聖書で語られる地上の幕屋という表現は、わたしたちの本質である「魂」が地上における生涯にあって宿る場所という意味があります。この「地上における生涯」を「地上の幕屋」たる肉体に魂を宿らせるということについてパウロは消極的でネガティブなニュアンスを持って語っています。「肉の体」というのは「罪」にとらわれた状態であって、「正しいことをしようと思ってもそれが出来ない」という矛盾にさいなまれてしまうとパウロは語ります。この現在の肉体をパウロは「本来の魂のありか」ではないとここでも語っているのです。ではその「本来の魂のありか」とはどこだというのか。それが、「永遠に存続する見えないもの」であり「人の手で作られたものではない天にある永遠の住み家」であるのです。パウロはこれを上から着たいと言いました。これは地上の幕屋のように、自らの魂をとらえ拘束するものではなく、わたしたちの本質たる魂をしっかりと包み込んで、守ってくれるものです。「永遠の住み家」という言い方は、わたしたちが本来あるべき場所ということを伝えています。その場所にあってわたしたちは本来の安らぎが与えられて、地上における苦しみ、悩みから解放される事であるとパウロは語ります。わたしたちが帰りたい場所。帰るべき場所。本来あるべき場所。それは目に見える楽園ではありません。バベルの塔のてっぺんのように自分の足でたどり着こうとするような場所でありません。所詮そういった目に見える形での場所、存在は不確かなものであって永遠に存続するものではないのです。この「永遠の住み家」とは、神そのものの存在を言い表すものであって、またわたしたちを豊かに包んでくださるその大きな愛のことです。いつも語りかけてくださる神に、目には見えないけど、止めどなく注がれ続けられている神の愛に。目を向けなければいけないと示されます。そしてその愛のある所にこそ、わたしたちが永遠に住む場所があるんだと語られているのです。わたしたちが帰りたい場所。帰るべき場所。本来あるべき場所。それは神との豊かな関係性によって築かれる愛に満たされた所です。わたしたちが故郷を思い起こす時にそこでふれあった人との思い出や与えられた愛を思い出すように。星の王子さまが自分の星を思い起こす時に、憎たらしかったけど大切な時間を共有し共に過ごした「特別なバラ」の事を思い出すように。わたしたちのあるべき場所。「永遠の住み家」は神との愛による関係性の中にあるのです。神の愛こそ、わたしたちのまとうべき魂の着物であるのです。

​(髙塚記)

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