主日礼拝説教要旨
「星の光に導かれ」(1/5)
マタイによる福音書2章1~12節
ヘロデ王やエルサレムの人々の不安にとらわれる姿と東方の学者たちの喜びと身をささげていくように礼拝をする姿。そして、キリストの誕生という喜びの側面とキリストの贖いの死という運命が示す「痛み」の側面。ここに示されることから私たちは、キリストに従っていくこと、自らの信仰を問い直されていきます。先にも示されたようにヘロデ王やエルサレムの人々の不安にとらわれる姿は、人の持つ弱さを語っていますが、これは私たち自身にもあるものではないかと思わされます。今自分が持っているもの、自分の力で手に入れたと思っているものに対して、それが脅かされることに不安になります。誰かのためにそれを捨て去ることはすぐに決断できることではありません。大変難しいことです。それが人々のためになるからといって、今持っている物や地位、力を捨て去っていくというのはなかなかできないことです。ヘロデ王やエルサレムの人々にもそれはできなかった。だから、待ち望んでいたはずの「メシア」の誕生の報を聞いたにもかかわらず、自分たちのありようが揺り動かされる事、脅かされることに目が行ってしまい、喜び受け入れることが出来なかったのです。では、キリストに従う者の在り方とはどのようなものでしょうか。このキリストの誕生の物語によってその道標が示されていきます。
キリストは人々の苦しみや悲しみ、痛み、悩みと言った、この地上の暗闇を取り払う希望の光、東方の学者たちを暗い夜の道の中導いた「星の光」のように、この地上に神によって与えられました。そしてその地上の暗闇を取り払うために、その誕生の時からすでに「痛み」と「苦しみ」の道を歩まれる運命を背負ってこられました。この「痛み」と「苦しみ」は、キリストの行いゆえに与えられるものではありません。私たちの「不安」や「恐れ」を取り払うために、キリストが私たちの代わりとなって、すべてを捨て去って、神の子であったその地位も、得られたであろう名誉も、平穏な生活も、そのすべてを捨て去って、「痛み」と「苦しみ」、その「死」を受けられるのです。このキリストの苦難があるからこそ、私たちには「希望」が与えられているのです。このキリストの苦難があるからこそ、この誕生の出来事は「喜び」であるのです。私たちがキリストの誕生に感謝し、それを希望として歩もうとするとき、このキリストの「痛み」を忘れることはできません。このキリストを礼拝するというのは、東方の学者たちがそうしたように、万難を排し、自らをささげていくような行為であることを思わされます。この物語を読むときに、また、そのように自らの信仰が問われていくことを思わされます。
(髙塚記)
主日礼拝説教要旨
「言葉なるキリスト」(1/12)
ヨハネによる福音書2章1~11節
「ガリラヤのカナ」で行われたこの「最初のしるし」はヨハネ福音書におけるイエスの福音宣教の始まりであります。11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と記されております。この栄光とは、神の言葉としての、約束のしるし、「救い主キリスト」としての栄光であります。イエスの言葉によって為された水が葡萄酒に変わるという奇跡は、実現する神の言葉の力を示すものです。このしるしによって、神の言葉がこの地上において実現されることが示され人々に知らされていくのです。11節の最後には「それで、弟子たちはイエスを信じた」と記されております。これは何とも薄情なことであると感じてしまいます。この物語の前に、弟子たちとイエスとの出会いについてが触れられております。その中で、弟子たちはイエスに対して、「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」とまで言っているにもかかわらず信じていなかったのかとそう思わされてしまいます。しかしこの「それで、弟子たちは信じた」という言葉にはもう少し違ったニュアンスが込められております。ここで福音書記者が示したいのは、この言葉による業、しるしによって、人々が信仰を持たされていくという点であるのです。イエスの「神の言葉なるキリスト」としてのしるしが、この地上において示されて、神の救いの約束が必ず遂行されていくのだということが、人々に希望として広がっていくことを示していくものなのであります。
現代にまで伝えられるイエスの言葉。その行い。これらは、聖書の中の福音書という形で言葉にしてまとめられて、イエスが生きていた時代から2000年たった今でもなおわたしたちはそれを読むことが出来ます。その中で語られる言葉によって、わたしたちは励まされ、希望を与えられ、考えさせられ、日々歩みを進めていくことが出来ます。ヨハネ福音書によって示されていく、「神の言葉としてのイエス」。神の約束、神の言葉は必ず遂行されていく、必ず果たされるという証しによって、わたしたちはその希望を新たにされていくのです。今わたしたちは降誕節の時を歩んでおります。この希望の誕生を覚えて、歩みを進めるときに、福音書の物語に耳を傾けそこに語られる、そこに示される、約束の証明の言葉を胸に、信仰を新たにされていきたいと思います。
(髙塚記)
労伝デー交換講壇礼拝説教要旨
「みんなでツィムツム」(1/26)
マタイによる福音書4章18~22節
ユダヤ教に、「ツィムツム」という神についての考え方があります。すべての始まりにおいて、無限である神以外の他者が存在する余地は一切ありませんでした。その神が何もないところから創造するために、まず最初にご自身を収縮させて、わたしたちが存在するためのスペースを空けてくださった、それがツィムツムの意味することです。
イエスの誕生直後、「新しいユダヤの王」の誕生に不安を抱いたヘロデにより、ベツレヘムの赤ん坊が虐殺されました。拡大するために他者から奪うことを始めたとき、獲得したものを失うことを恐れて他者を抑えつけ、さらに奪うことしか考えられなくなってしまいます。そのヘロデの姿は、ツィムツムする神とは対極のものであり、いま釜ヶ崎で起きていることに重なります。大阪府は2019年にあいりん総合センターの耐震性を理由に強制閉鎖しておきながら、5年以上も放置したあげく、先月にはその周囲で野宿生活する人びとを強制排除しました。大阪万博とカジノ誘致を実現したという名誉を求める者たちのツィムツムする神とは真逆の人間の姿が、釜ヶ崎の町の在り様を一方的に変えてしまっています。
一方で、天使のお告げによりイエス一家がエジプトに逃亡した物語は、かれらが難民となったこと意味します。しかし、難民となった赤ん坊イエスを受け入れた人びとがそこにいたと想像することもできます。その幼いときの経験がイエスの宣教の根っこに深く関わっていたのだと思います。つまり、イエスの宣教とは居場所のない者たちと共に生きるための空白を生み出す、ツィムツムする運動だったということです。
神は、わたしたちが存在するためにご自身のすべてを削られた結果、なにも与えるものを持ちません。そして、すべてを与え切った神に応えて、ご自身のすべてを与えたイエスは、引き渡され十字架につけられ、この世から暴力的に排除されました。しかし、十字架の先に復活の出来事がありました。弟子たちが他者のために余白を生み出したとき、そこに復活のイエス・キリストを一緒に迎え入れたからです。神はすべてを与えたゆえに、無力で何もできません。しかし、それゆえにわたしたちの応答を引き出し、愛に生きる者へと作り変えます。
排除の原理が働くこの世界にあって、ツィムツムする神の姿を覚えたいと思います。みんなでツィムツムして、この世で排除された者と共におられる主イエスを迎えるとき、神の国が立ち現れます。
(山下壮起記)