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主日礼拝説教要旨
「祈りの家と」(2/)​

マタイによる福音書21章12~16

 イエスは神との会見の場は本当に神を必要とする全ての人の場でなければならないとここに示していくのです。特別な手続き、一部の者しか用意できないようなものを用いてされるような儀式によってではなく、切に神を求めていく人々全員に開かれてく場であるべきだとこのような行動によって示すのです。そしてこの場で賛美の声を上げる者として「幼子と乳飲み子」をあげています。この時代「幼子や乳飲み子」は力ない存在として社会的地位としてはかなり低い位置に置かれていました。それもこのような神聖な儀式が行われる場所にはそぐわない存在とされていたのです。しかしそのような存在こそがここで声を上げて賛美する事がふさわしいとイエスは語るのです。力なき存在が精一杯に神を求めていくこと、どうにもならない現実の中でもがいている者が、最後の寄る辺として神に必死になって手を伸ばしていくこと。そういうあり方こそがこの場で行われていくべきだと、そうして精一杯に神を求める「祈り」によって神殿は満たされるべきであるとイエスはここで人々に危険を冒してでも行動を持って示したのです。

 行動が「祈り」となっていく。それはここでイエスの元に駆け寄ってきた不自由を抱えて苦しみ、切に救いを求めていた人々の姿であり、弱さの中に置かれた子どもたちが上げた賛美の声です。それだけでなく、弱くされる人、苦しみの中にある人、孤独の中にある人々に対して神はあなた方と共にいると、神は決してあなたがたを見捨てないと示され続けたイエスの激動の生涯です。それらが「祈り」となっていくのです。わたしたちは、高石教会の創立132年の時を迎えました。ここまで神によって守り支え、導かれてきた歩みを思います。そしてそれぞれの時に必要とされる働きに精一杯取り組み歩まれた先達を思い起こします。その一つ一つの働き、行動が現代のわたしたちにも祈りとして受け継がれています。それをこの時、この時代にあって、わたしたちの祈り、行動として行くための道を模索していきたいと思います。わたしたちがこの教会をこの時代にあって、この地域にあって、どのようにして「祈りの家と」していくことができるのかあらためて考える時としたいと思います。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「主が蒔かれた種」(2/)​

マタイによる福音書13章1~9

 たとえ話に語られている「種」。それは「神の言葉」「教え」「神の愛」「神の恵み」といったものと理解されています。その種を「蒔く人」は「神」および「イエス」です。イエスが生きた時代の農業における種まきはわたしたちが現在において想像するような種まきとは少し違います。種を入れた袋やかごを抱えて、片手でそれをつかみ、まさに地面に蒔いていく。それは不規則にバラバラに散らばるように蒔かれていきます。その情景をうまく想像できないわたしたちはこのたとえ話を聞くと、「悪い場所に落ちる種が多い」と感じてしまいますが、そうした農業の情景に近しく親しんでいた当時イエスのそばに集まってきた「群衆」は、たくさんの種が良い土地に落ちることを想像したことでしょう。そして種の小ささから考えれば驚くような量の、大きさの収穫物がある事までも容易に想像したことであると思います。

 たとえ話というものは本来難しく、理解しがたい事柄をわかりやすく想像しやすくするために用いられる手法です。それはイエスの時代前後においても変わらないものです。決して教えの本質をぼやかしたり秘匿したりするために用いられるものではありません。実際この「種を蒔く人」のたとえも人々の生活に根ざしたたとえを用いて語るものであり、そこから発展的に神の恵みや神の愛、その教えにつながるものとして語られています。このたとえ話において示される本質は「多くの種が良い土地に落ちて、多くの実を実らせる」ということです。そうして多くの人、特に社会的地位が低く、祭司や律法学者たちのような学識を持たないようなイエスの元に言葉を、救いを求めて、導きを求めて集まってきた人々、いわゆる労働者階級を中心とした人々にこそ届く言葉がその人たちのための言葉が多く語られたであろうと思うのです。社会的地位が低い、貧しい、病気である、障害がある。当時の社会で置いてけぼりにされていたような人々にたくさん蒔かれていったイエスの言葉という、愛という種。その人々は決して「道ばたや石だらけの土の少ない地、茨だらけの場所」ではありません。その多くが「良い土地」であるのです。無秩序に、無軌道に、まとまりもなく、さまようように集まった人々の多くがイエスの愛を、その種を受け取ったのです。それらは聖書に名前が残るような人々ではありません。多くの群衆とまとめられて日が当たっているような人々でもありません。しかしそのような多くの名も無きイエスに救われた人々がいたからこそ、その人々の中にある種が芽吹いたからこそ、後の時代に迫害厳しい中で、キリストの福音は世界へと大きく拡がり豊かな実をつけたのです。名も無きイエスに救われた「群衆」の一人であった人から今の現代につながる愛と恵みが紡がれていったのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「幸いなるかな」(2/16)​

マタイによる福音書5章1~12

 「腰を下ろされる」という行為。これはユダヤ教の指導者が、自らの弟子たちに対して重要な、大切な教えを伝える時にする行動としてよく記されるものです。教えの本質、奥義とも言えることを伝えようとする、重要な場面である事が示されているのです。その最初に伝えられたのがこの「神の前における幸い、幸福」の定義です。しかしこの奥義とも言えるイエスの教えは、それを聞くわたしたちにとって、また当時目の前で聞いていたであろう弟子たちにとって、とても容易にはできるような事柄ではありません。神が求められている水準でわたしたちが在り続けることは不可能にも近いものであるのです。一つひとつの幸いが宣言されていくのを聞いている時、わたしたちはどこに自分は当てはまることができるだろうかと恐れをなします。それはこの一つひとつの幸いの宣言が「その人たち」という表現で語られているところにも恐れと不安を感じるのです。自分はこの「その人たち」には入れない。この奥義に触れることでわたしたちは自らの弱さ、もろさと向き合わされていくのです。

 では、聖書はわたしたちに「幸い」「幸福」になる道がないとここで宣言しているのでしょうか。決してそうではありません。ここで示されている「幸い」に「幸福」にいたる事ができないわたしたちの弱さを神は知っておられます。このイエスの教えはある意味、人がその弱さと向き合うためのものとして働いて行くのです。この箇所の後にイエスは「律法を完成するために来た」と語り、また天の国に入るには「律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければならない」とも語っています。律法について宣教者パウロは「神がわたしたちに罪を知らしめるために律法を与えた」と語っています。この律法ゆえに人は罪を知り、自らの弱さを知ると。無力を知ると語っているのです。その上で、わたしたちには到底なしえない業を代わりになしてくださるのが、キリストであると教えているのです。福音書においてもわたしたちは何度もそのことを知らされているのです。わたしたちにはできない。そこにいたる事が、成し遂げることができない。だからこそキリストの生涯が必要であり、キリストの死と復活が必要であったのだと知るのです。だからこの難題とも言える、躓きそうになる教えも、目をそらしたくなるようなキリストの受難も、恥じたくなるような否定したくなるような人間の本質的弱さを示している弟子たちの裏切りも、その全てを含めて、わたしたちにとっての良い知らせ、救いに至る、「幸福の宣言」であるのです。

(髙塚記)

主日礼拝説教要旨
「子どものパン屑」(2/23)​

マルコによる福音書7章24~30

 まず「子ども」という単語に着目してみます。イエスから見ればユダヤの人々は「保護して導かなければならない存在」であるという従来の聖書理解的な「牧者」として視点が見られます。それに対して女性が言うところの「子ども」は言うことを聞かず、好き勝手に振る舞う、奔放な有り様を思い起こさせるような表現であるのです。次に「小犬」という単語。当時「犬」と言う言葉は差別的な意味合いで用いられていました。それに対して今回の箇所に用いられている「小犬」と訳される「クナリア」は先ほどの女性が使う「子ども」の例と同じようにかわいがる対象に対して使われる「小犬ちゃん」といったようなニュアンスが強い言葉です。さらに言うならばイエスの言動が日々どこにむいていたのか、どのような立場に立とうとしておられたのかということを考慮しなければこの箇所を本当の意味で理解することはできません。イエスはユダヤの人々、特に指導者層からはいつも批判の的とされて、あら探しをされていました。「罪人と交わる汚れた者」「大食漢で大酒飲み」。そうした蔑視や批判を受けながら、それでもなお社会からはじかれようとする人々と共に歩もうとされました。「救われない」「神は助けない」と言われた人々と共にいることを、常とされました。異邦人と言われ、救いの外に常におかれていたこの女性との共通点はそこにあるのです。ユダヤの指導者たちが言うところの「救われない人」「汚れた罪人」という枠の中で切り捨てられていくという立場に共にいる。いわばイエスもまた異邦人が受けているような差別と同じような状況の中にあるのです。その疎外感もつらさも同じように知っているという共通点を共有しているのです。そんなイエスが、救いから排除されているような状況にある外国人の女性と同じ目線に立って、立場にあって今回の会話劇を繰り広げるのです。

 社会の固定概念にとらえられることなく、柔軟な心を持って、全てを包み込む愛を持って、様々な人との関わりの中に生きる、そんなイエスの生き生きとした、そして人間くささ、人間的暖かさをも感じさせるやりとりです。

 まっすぐと神の道を歩むことが出来ず、様々な失敗を繰り返す弱さを持っているわたしたち。時に神はそんなわたしたちを受け入れてくれるだろうかと心配になってしまう。しかしイエスはこうしてユーモアを持って女性を受け入れたように、軽妙な口調でそんなわたしたちをも包み込んでくれるんじゃないだろうか。そんな安心感とイエスへの信頼を抱きつつ、この豊かな福音を告げ知らせる証しの歩みを進めていきたいと思います。

(髙塚記)

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