礼拝案内
毎週日曜日午前10時30分~
主日礼拝
10月4日(日)聖霊降臨節第20主日
説 教
「命のモニュメント」
田中 悦子牧師
聖 書
ルカによる福音書 22章7~23節
讃美歌
24、375、411、81
主日礼拝説教要旨
『少女よ、起きよ』(9/27)
聖書:マルコによる福音書 5章21~43節
今日、与えられたマルコによる福音書5章21節からの物語では、2人の女性が登場します。イエスと出会い、どのように心の癒し、再生が与えられたのでしょうか。共に読み進めていきたいと願います。
≪会堂長ヤイロの娘≫
イエスは、3人の弟子たちと、その娘の両親をつれて、なおもあきらめられない、希望を捨てきれない人たちを連れて部屋に入られたのです。イエスはこう言われるのです。「タリタ・クム」「これは、『少女よ。わたしはあなたに言う。起きなさい。』という意味である。」(41節)そして続いてこう記しています。「少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう12歳になっていたからである。」(42節)と。これは、12歳だから当然歩いたのだということです。『~よ、起きなさい』、私たちみんな救い主キリストの前に生かされているのです。
≪12年間出血の止まらない女≫
マルコによる福音書では、主観的というか、体感的な表現が使われています。たとえば「すぐに出血が全く止まって病気が癒やされたことを体に感じた」(29節)「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり」(33節)など、いずれも体感的な表現が使われています。マルコも自分自身の体で感じながら書いているのではないかと思えます。
マルコによる福音書において“血”という言葉は、5章25節の「出血」(文字どおりには、血の流れ)、29節の「出血」(文字どおりには、血の泉)の2回と、あとは最後の晩餐においてイエスが、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(14章24節)のところでしか使われていません。さらに彼女が「体で感じた」という“体”という言葉も、ここ以外ではすべて“イエスの体”として使われているのです。最後の晩餐で、イエスがパンを裂いて「これはわたしの体である」(22節)と言われたその“体”とここでの“体”とは同じ言葉なのです。彼女の出血の血、穢れたとされた体は、いまイエスの十字架の血と体と交流し、新しい契約のしるしとしてのイエスの血と体と交わって、彼女の体の中で体感されているのです。
この女性のその後の人生については何も語られていません。しかし、自分の身に起こったことを彼女は生き生きと語り続けたと思います。私たちも、イエスとの出会い、喜びを、自分の言葉で楽しく語っていきたいと願います。(田中馨子)
黙 想
説教要旨に代え、【黙想】を記します。
【黙 想】「寝かせる」(9/20)
一発勝負これぞ起死回生の切札となるような考えを打 ち出そうとする時、無意識にしていることが、アイデア を一度「寝かせる」ということです。それは、計画を立 てて準備していくというより、逆に、それを放置し手を 触れないで腐らせるままにほっておくというほうがふさ わしいです。ある地酒づくりの名人によれば麹(こうじ) は「生きたままでは香らない」と。腐ってこそ麹なので す。これが清酒によい味わいを醸し出させるのだそうで す。
「寝かせる」という言い方は、本来医術から来た用語 です。病人を横たえ、その体内に潜む自己回復力の目覚 めをひたすら待つことです。香り高い酒も味わい深い料 理もひらめきに富んだ人生もある意味では、「寝かせ て」こそ真価を発揮するのでしょう。とすれば、それら はみなそれまでのある時を沈黙していたり、行きつ戻り つ迷ったり、ときに苦悩していたり病んだりするもので す。まさに「腐(くさ)った」状態です。身動き出来ない 無力の床から、いつか必ず来る脱出のエネルギーを人は その生き方にみなぎらせているのです。
孵化とは卵の中でひなが一定の仮死状態から自分を生 命活動へと開放していく作業だと言われています。これ をインキュベイション(incubation)と言いますが、医学 では「潜伏期と言い、語源はまさに「(病者を)寝かせる =死者のように横たえる」という意味です。生きる者は いったん死んでから生きるのです。考えてみれば私たち 人間の人生は、手も足も出ない無力な仮死状態ではない でしょうか。停滞し、逆行し、衝突もあります。「お先 真っ暗」とか「死ぬかと思った」ということは日常茶飯 事です。しかし、そのような中に、「キリストと共に復 活」する場があるのです。救い主イエスが復活すると き、私たちは主と共に起死回生(復活)するのです。 (田中馨子)
主日礼拝説教要旨
『汚れた霊よ、出ていけ』(9/13)
聖書:マルコによる福音書 5章1~20節
先週、大阪同信会があり、「聖書と音楽~20世紀における創作例から~」をテーマに学びが与えられました。その中で、印象深かったのはオリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen 1908-1992)です。『時の終わりへの四重奏曲』(バイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノのための)(1940)より第6楽章「7つのトランペットのための怒りの踊り」(ユニゾンによる)、第8楽章「イエスの不滅性への讃歌」(バイオリン、ピアノ)を聞くことが導かれました。作品はヨハネの黙示録に基づいています。従来作品名は「世の終わりのための四重奏曲」と訳されることが多かったのですが、聖書の内容からして「時の終わりへの」と訳した方が適切だと思います。なぜならそれは、人間による理不尽な権力支配が終わる終末的出来事をあわせしているのと共に、神の支配の到来の時、キリスト再臨の時、即ち未来の平和「への」希望を、当時絶望的状況(終末的状況)におかれていたメシアン自身、見出そうとしていたからです。
与えられました聖書箇所では、ゲラサ人の地方である向こう岸へ行く、これがイエスの思いであり、選択であり、決心だったのです。イエスの選択は、この汚れた霊に取りつかれた男を目指してなされた決断であったのです。彼は墓場を住まいとしていました。つまり、彼は自分の足元に死というものがあることを、いつも意識して生きていたのです。
この人がイエスによって癒やされた時のことが記されています。15節は、直訳すれば「静かにそこに座っていた、着物を着て、正気になって」となります。大切なのは、そこに座っていたということです。その意味は、イエスの語られる御言葉を聞いていたということです。イエスの癒やしというものは、私たちを神の前に連れ戻すのです。
イエスは、この男に家族のところに戻るように命じられます。そこで信仰によって生きよと語られたのです。彼は、それだけではなく、その地方に伝道します。心の中にイエスがしっかり生きているかぎり、どこでも私たちもイエスを救い主として宣べ伝えることが出来るのです。 (田中馨子)
主日礼拝説教要旨
『使命に生きる~救われたものとして~』(9/6)
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章1~20節
本日の礼拝では、70歳以上の方々を覚えて、敬老祝福の時を持ちます。“老い”ということを聖書はどのようにとらえているのでしょうか。
年老いていくということは、確かに体力知力の喪失に始まり、やがて自身の喪失(死)を受容しなければなりません。喪失することのない信仰の希望の確かさを心に見つめる時であり、また心に尊厳を育む時でもあります。
旧約聖書の主役であるイスラエルの民は、常に老いた人たちを民の構成に加えています。(出エジプト記10:9)等、民全体の行動の主要メンバーとして老人を登場させています。神の民の交わりにおいては、「創造的に老いる」ことが当然とされ、老いることは民の形成に役立つという評価を受けていました。
老いるということは「内なる知恵を増し加えられること」なのです。
私たちが、生きるということは、どのようなことなのでしょうか。創世記によると、命の息によってアダムは生きる者となりました。私たちは神と息を合わせる存在なのです。私たちが生まれる前から神に覚えられ、命が与えられ、生かされている歩みは、神への愛と隣人への愛を1つとして生きることが課題としてあるということです。私たちが、日々祈りにおいて、神と交わり、隣人と交わる生活の中で、罪というものに気付いていきます。人間の交わりの破綻、亀裂、それによる孤独、絶望、悩みの現実があります。時には耐えられないようなものであったり、時間をおかないと解決できないものがあったりします。楽園から追放されたアダムとエバに、神は、私の与えるゆるしの皮衣(恵みに生きるシンボル)を着て生きよと言われるのです。私たちは、罪を赦されながら、傷を癒やされながら、愛の御手に支えながら、「大丈夫。生きよ。私が共にいる。」との励ましによって導かれているのです。神が命の息を吹き込んで、神の似姿として創造された私たちには、その人でしか出来ない使命が与えられています。キリストの復活の命に与ること、それは絶対的肯定の命を生きるということです。生きるにしても死ぬにしても、という状況は、既に復活の命に
与っているということです。(田中馨子)